長岡宗一
長岡宗一(ながおか そういち 1925年 - 1994年10月8日)は日本のヤクザ、ボクシングジム経営者。北海道同志会(後の三代目山口組柳川組北海道支部)初代会長。北海道岩見沢市志文町出身。通称は「ジャッキー」。
荏原哲夫との出会いまで [編集]
大正14年(1925年)、北海道岩見沢町(現:岩見沢市志文町)で生まれた。父は長岡吉元。母は菊。12人兄弟の長男だった。
札幌市内の商業学校に進学し、学生時代は、ボクシングと柔道の練習に打ち込んだ。
昭和16年(1941年)、長岡宗一は、同級生7人と札幌市の札幌祭りを見物に出かけた。このとき、長岡宗一は、ヤクザ(通称:ススキノのテッちゃん)と喧嘩になった。7人の同級生は逃げてしまった。長岡宗一は、「ススキノのテッちゃん」の首に巻かれていた豆しぼりの手拭いの縛り目を掴んだまま、体を2回転させて締め上げ、「ススキノのテッちゃん」を失神させた。「ススキノのテッちゃん」の兄弟分で、オートバイサーカス団団長・神部健吉が、長岡宗一とヤクザの喧嘩の現場に駆けつけた。神部健吉は、長岡宗一を連れて、長岡の同級生を探したが、見つからなかった。神部健吉は、長岡宗一を、サーカス小屋に連行し、長岡を脅迫した。そのとき、サーカス小屋にサーベルを下げた警察官が現れた。長岡宗一は、警察官に助けを求めた。だが、警察官は取り合ってくれずに、去ってしまった。神部健吉は、長岡宗一を、中島公園近くの「ススキノのテッちゃん」の自宅に連行した。長岡宗一は、ここで神部健吉から酒を振舞われ、喧嘩の強さを誉められてから、解放された。
昭和18年(1943年)、長岡宗一は憲兵隊の軍属を志願して合格し、北部憲兵隊司令部司令官・増岡賢七陸軍少将(後にA級戦犯となった)の筆生に任命された。その後、長岡宗一は増岡賢七から陸軍特別幹部候補生に志願するように勧められた。
昭和19年(1944年)、長岡宗一は、陸軍特別幹部候補生に合格した。同年8月、長岡宗一は、陸軍特別幹部候補二期生として、航空通信部隊であった静岡県浜松市の中部130部隊(師544部隊)第6中隊に入隊した。
昭和20年(1945年)、米軍B29が浜松市を空襲した。中部130部隊第6中隊の兵舎は焼かれた。米軍B29による浜松市への空襲は1ヶ月間繰り返され、浜松市は焼け野原となった。中部130部隊第6中隊滝川隊長や長岡宗一らは、滋賀県蒲生郡日野町の国民学校に移った。同年8月15日、長岡宗一は、滋賀県蒲生郡日野町の国民学校で、玉音放送における「終戦詔書」の音読放送を聴いた。
同年8月23日、長岡宗一は、故郷岩見沢市・志文町に復員した。その後、長岡宗一は、札幌市の商業学校に復学するが、中退した。同年、長岡宗一は、荏原哲夫(通称:雁木のバラ。雁来のバラ、枯木のバラとも呼ばれた)と知り合い、荏原の舎弟となった。荏原哲夫は、札幌市内の愚連隊の首領だった。
荏原哲夫の死まで [編集]
昭和21年(1946年)、長岡宗一は、岩見沢警察署で、幹部警察官の採用試験を受験し、合格した。同年4月から札幌市の警察学校への入学が決まった。警察学校の入校日、長岡宗一は、上志文駅から札幌行きの列車に乗り、札幌駅に行った。長岡宗一は、札幌駅から警察学校に行く途中で、商業学校時代の同級生・梅岡光一に出会った。梅岡光一は、進駐軍のPX(基地の売店)で働いていて、長岡宗一にも進駐軍で働くように勧めた。長岡宗一は、警察学校入学を辞退し、札幌駅前の進駐軍宿舎のボーイとなった。同時に、長岡宗一は、進駐軍のボクシングクラブに入り、北海道大学の錬成道場で、本格的にボクシングの練習に打ち込んだ。その後、長岡宗一は、江別市の映画館で行われたアマチュアボクシングの公式試合に飛び入り参加し、フェザー級の佐野選手と試合をした。長岡宗一はフライ級だった。試合結果は引き分けだった。これを契機に、長岡宗一は、ボクシングの興行主と知り合い、大会ごとに試合に出場させてもらえるようになった。
昭和22年(1947年)、長岡宗一の勤務場所が、真駒内のEMクラブ(下士官クラブ)に変わった。長岡宗一は、EMクラブ内の体育館のボクシングリングで、ボクシングの練習を始めた。同年2月、長岡宗一は、札幌市公楽劇場で開催された「北海道選抜選手権大会」に出場した。この大会は、新谷藤作の舎弟・大野三郎が、北海タイムスを後援にし、ラジオの実況中継を入れて、開催した。長岡宗一は、ライト級の選手を相手にK.O勝ちを収めた。米軍基地の将校たちは、通訳を通して、ラジオの実況中継を聞いていた。長岡宗一は、米軍基地の将校から、「ジャッキー長岡」のリングネームを付けられた。
「北海道選抜選手権大会」の後、長岡宗一は、進駐軍のクラブ勤めを止めて、札幌市狸小路の中村ジムに通った。長岡宗一は、中村ジムの師範代も務めた。長岡宗一は、中村ジム・中村会長から、会津屋連合会会津家小高一家・小高龍湖組長(後の全日本アマチュアボクシング連盟副会長)を紹介された。このころ、小高龍湖は、夫人とともに、中村ジムの2階に住んでいた。
昭和23年(1948年)、長岡宗一は岩見沢市志文町の実家に戻った。同年夏、岩見沢市上志文の盆踊りで、長岡宗一は、美流渡の愚連隊の男と喧嘩になった。長岡宗一は、愚連隊の男の口に、短刀を突っ込んで脅し、撃退した。その日のうちに、長岡宗一のもとには、「美流渡の愚連隊が長岡宗一を狙って報復しに来る」との情報がもたらされた。長岡宗一は、岩見沢市の舎弟や友人を集めた。荏原哲夫も長岡宗一の助太刀をしに、岩見沢市に駆けつけた。翌日、長岡宗一、荏原哲夫らは、美流渡の愚連隊と、上志文駅前の倉庫前で対峙した。荏原哲夫の助太刀を知った美流渡の愚連隊の首領・鈴木は、対決を避け、長岡宗一や荏原哲夫に和解を申し込んできた。長岡宗一と荏原哲夫は、美流渡の愚連隊と手打ちをした。この後、万字線を中心とする岩見沢、志文、上志文、美流渡、万字、万字炭山の炭鉱街の不良が、次々と長岡宗一の舎弟となった。長岡宗一は、岩見沢市の市役所に就職したが、半年で辞めた。次に、大手運送会社の岩見沢支店に就職し、経理を担当した。半年後、長岡宗一は、営業所長の横領に気がついた。長岡宗一は、営業所長の横領を、岩見沢支店長と総務部長に訴えた。岩見沢支店長と総務部長は、長岡宗一に対して、内々に処理してくれるように懇願した。すぐに、長岡宗一はこの運送会社を退職した。
同年、長岡宗一と愚連隊仲間の通称:「隼のタケ」と小野太郎は、岩見沢駅前で、東京からの流れ者・通称:破れ傘の銀次と知り合った。その後、長岡宗一は、「破れ傘の銀次」が、長岡や荏原哲夫を悪しざまに云っているという噂を耳にした。長岡宗一と「隼のタケ」と小野太郎は、同じ種類の切り出しナイフを購入して、「破れ傘の銀次」と話を付けるために、砂川市に向かった。長岡宗一と「隼のタケ」と小野太郎は、春祭りが行われていた広場で「破れ傘の銀次」を発見し、近くの空き地に連行した。砂川市の愚連隊で荏原哲夫の舎弟・谷内二三男(後の北海道誠友会初代会長)とテキヤ・竹田藤也が、長岡宗一らと「破れ傘の銀次」の間に入り、仲裁した。長岡宗一は、仲裁の条件として、「破れ傘の銀次」から脇差しを奪い取った。
昭和24年(1949年)1月、札幌市のテキヤの幹部・田山吉雄が、出所した。田山吉雄は、荏原哲夫の兄弟分である愚連隊仲間の兄弟分(つまり、回り兄弟分)・通称:島畑チャンタを刺殺し、服役していた。荏原哲夫、松田武嗣(通称:南海の松。後の飯島一家松本分家庵袋二代目)や愚連隊仲間が集まったとき、田山吉雄を殺すことで話がまとまった。松田武嗣が田山吉雄殺害を買って出た。同年2月、松田武嗣は、田山吉雄が、田山の親分である森呉謙吉の札幌狸小路の家にいることを突き止めた。松田武嗣は、長ドスを持って、森呉謙吉の家に殴り込んだ。松田武嗣は、田山吉雄に斬りかかったが、長ドスは頭をかすめた。松田武嗣は、長ドスを振り回した。松田武嗣は長ドスの刃で鴨居を斬りつけ、長ドスの刃が、鴨居に食い込んだ。田山吉雄は森呉謙吉の家を飛び出して逃げた。松田武嗣は、森呉謙吉の家から引き上げた。同年4月、荏原哲夫が田山吉雄を日本刀で刺殺した。荏原哲夫は、松田武嗣に付き添われて、ススキノ交番に自首した。同年11月荏原哲夫は懲役5年の実刑判決を受け、札幌市東苗穂484番地(現:札幌市東区東苗穂2条1丁目5番1号)の札幌苗穂刑務所に服役した。荏原哲也は、炊場に配属された。すぐに、荏原哲也は、炊場の責任者になった。
同年、長岡宗一は、あるテキヤの用心棒となった。同年秋、このテキヤは、栗山町桜山で開催されたばん馬競争に、露店を開いた。長岡宗一も用心棒として同行した。長岡宗一は、ばん馬競争の最中に、愚連隊の男と決闘になり、持っていた剃刀で左頬と後頭部を切った。愚連隊の男の兄弟分が加勢に来たが、長岡宗一は、この兄弟分を3回斬った。さらに、長岡宗一は、堅気の集団に襲われた。長岡宗一は逃げたが、途中でマサカリを見つけて、マサカリを手に堅気の集団を迎え撃った。長岡宗一と堅気の集団は、睨み合った。このとき、テキヤと警察官が駆けつけてきた。長岡宗一は警官に逮捕され、栗山警察署に連行された。同年末、長岡宗一は、傷害罪と刀剣類不法所持により懲役1年6ヶ月の実刑判決を受けて、札幌苗穂刑務所に服役した。長岡宗一は計算夫に配属された。ここで、荏原哲夫は、長岡宗一と再会した。また、荏原哲夫は長岡宗一に、札幌苗穂刑務所に服役中の田村武志(後の五代目山口組若中)を紹介した。長岡宗一は、模範囚となり、5ヶ月21日で出所した。
昭和28年(1953年)春、荏原哲夫は、サンフランシスコ条約の恩赦で、札幌苗穂刑務所を出所した。妻・純子と長岡宗一、札幌真照寺住職・松本昇典の3人が、荏原哲夫を出迎えた。松本昇典は、札幌苗穂刑務所で、教かい[1]師も務めていた。出所後すぐに、荏原哲夫は、松本昇典らの尽力で、会津家小高一家・小高龍湖組長の実子分として、会津一家に入った。荏原哲夫の筆頭舎弟だった長岡宗一は、小高龍湖の鞄持ち兼用心棒となった。小高龍湖は北海道アマチュアボクシング連盟会長に就いていたので、長岡宗一は、小高龍湖について、北海道で行われる全てのボクシングの試合に立ち会った。荏原哲夫は札幌市内のパチンコ店の景品買いの用心棒の権利を次々と手に入れていった。
このころ、長岡宗一は、岩見沢市・志文町の貸元・古峯謹治の客分となり、古峯謹治の賭場を手伝うようになった。その後、長岡宗一は、代貸格になった。
昭和30年(1955年)夏、荏原哲夫は、岩見沢市の博徒・阿藤浩二が用心棒を勤めるパチンコ店から、用心棒代を奪い取った。荏原哲夫は、阿藤浩二の舎弟・小野里に襲われ、短刀で右腕と胸を刺され、重傷を負った。荏原哲夫は、札幌市内の保全病院に搬送された。短刀の刃は、荏原哲夫の右肺まで達していた。札幌市の博徒で、小高龍湖の兄弟分・山地道蔵が仲裁に走った。荏原哲夫は、阿藤浩二に100万円を要求した。阿藤浩二は、荏原哲夫の要求を呑んだ。荏原哲夫と阿藤浩二は、山地道蔵の仲裁で、手打ちをした。その後、荏原哲夫は、肋膜炎で、北辰病院に入院した。
昭和31年(1956年)2月初旬、谷内二三男が、ススキノのダンスホール「ゴールデンゲート」前で、源清田長江一家・塚本修翠(後の長江一家四代目)の舎弟・富岡淳と口論から喧嘩となった。谷内二三男は、ドスと拳銃を、富岡淳に突きつけ、ドスで富岡淳の顔を斬り、重傷を負わせた。塚本修翠の知人が、「ゴールデンゲート」の中にいた塚本修翠に、富岡淳が谷内二三男に斬られたことを告げた。塚本修翠が「ゴールデンゲート」を出ると、谷内二三男がいた。塚本修翠は、谷内二三男に、翌日1対1で話し合うことを約束させた。翌日、谷内二三男は、話し合いに来た塚本修翠に拳銃を突きつけ、富岡淳の断指を要求した。塚本修翠は、谷内二三男の要求を拒否した。谷内二三男は、ドスで塚本修翠の胸を刺した。塚本修翠は軽傷だった。その直後、塚本修翠の舎弟分・山浦安男は、札幌市狸小路7丁目のパチンコ店で、荏原哲夫の舎弟2人から前後に拳銃を突きつけられ、連行されようとなった。山浦安男は、前の男の拳銃を弾き飛ばし、そのまま走って逃げた。山浦安男は知人宅に逃げ込むと、知人宅に預けていた日本刀を持ち出して、荏原哲夫の舎弟2人を探し回った。それから、塚本修翠や山浦安男ら長江一家30人ほどが、ススキノの寿司屋「吉野」に集まった。ここで、塚本修翠は、集まった長江一家の者に対して、荏原哲夫と戦争することを宣言した。翌日、塚本修翠は、塚本の兄貴分・萩原敬士(後の源清田萩原初代)に荏原哲夫と戦争することを報告した。萩原敬士は、塚本修翠に、小高龍湖を話し合うことを勧めた。塚本修翠は、萩原敬士の提案を受け入れた。このとき、小高龍湖は、東京にいて、札幌には不在だった。塚本修翠は、荏原哲夫との全面戦争を決断した。翌朝、山浦安男は、S&W45口径を持参して、銭函の海上までボートで漕ぎ出し、海上で射撃練習を行った。
それから、塚本修翠は、襲撃隊を、塚本修翠、松本武男(通称:般若の松)、山浦安男をそれぞれリーダーとする3班に分けた。それぞれの班が手分けをして荏原哲夫を探した。各班は、荏原哲夫を見つけ次第、殺害することになっていた。
同年2月15日午後7時ごろ、山浦安男率いる班が、札幌市中央区南七条西5丁目で、数人が入り乱れて喧嘩をしているのを発見した。山浦安男の班は、日本刀を抜いて、喧嘩の現場に突入した。すぐに、松本武男の班も現場に到着した。しかし、喧嘩をしていたのは、荏原哲夫のグループではなかった。
同年2月16日午後2時、荏原哲夫は、舎弟分・飯山定義を連れて、自宅である小料理屋「華」を出た。同日午後3時前に、荏原哲夫と飯山定義は、札幌市中央区南四条西2丁目のビリアード場「錦」に入った。長江一家は、荏原哲夫がビリアード場「錦」にいることを突き止めた。長江一家は、4班に分かれて、ビリアード場「錦」を取り囲んだ。「錦」の向かいの映画館前には、宮岡淳、山浦安男、森川正治、神山ら10人ほどの班が待機した。森川正治が、山浦安男から、S&W45口径の拳銃を借りた。宮岡淳、山浦安男、森川正治、神山らは関の孫六や備前長船などを持って、ビリアード場「錦」に入った。宮岡淳が、荏原哲夫に、外に出るように云った。荏原哲夫は、コルト22口径を、宮岡淳たちに突きつけて、宮岡淳たちや飯山定義とともに外に出た。このとき、荏原哲夫のコルトには銃弾が入っていなかった。神山が、荏原哲夫の隙をついて、備前長船の峰で、荏原哲夫の肩を打った。山浦安男の舎弟が、飯山定義の顔に硫酸をかけた。山浦安男と宮岡淳が日本刀で、飯山定義の左手を斬った。荏原哲夫は、駅前通りの角の薬局まで、駆けて逃げ、コルトに銃弾を詰め込んだ。それから、荏原哲夫は、南五条西4丁目のジャンジャン横丁まで逃げた。山浦安男、宮岡淳、森川正治の3人が荏原哲夫を追った。森川正治が、ジャンジャン横丁入り口の酒房「ジュエル」前で、荏原哲夫をS&W45口径の拳銃で狙撃した。荏原哲夫は、腹部貫通の銃弾を受けた。荏原哲夫も、コルト22口径で森川正治を撃った。森川正治は、右足貫通の銃弾を受けた。山浦安男と宮岡淳は、止めを刺そうと、荏原哲夫に近づいた。荏原哲夫は、コルト22口径を持ったまま立ち上がり、銃口を山浦安男と宮岡淳に向けたまま後ずさりした。山浦安男と宮岡淳と森川正治の3人は、逃走した。荏原哲夫は、札幌市の保全病院に収容された。
同日、長岡宗一は、岩見沢・志文町の貸元・古峯謹治の賭場にいた。長岡宗一は、荏原哲夫の舎弟からの電話で、荏原哲夫が長江一家に襲われて、保全病院に入院したことを知った。長岡宗一は、バイクで保全病院に駆けつけた。
同年2月18日午後8時45分、荏原哲夫は、保全病院で死亡した。享年31。荏原哲夫の葬儀は、札幌市雁来町の荏原の自宅で執り行なわれた。施主は小高龍湖で、喪主は荏原哲夫の妻・純子だった。
すぐに、松本武男、森川正治、山浦安男、宮岡淳らは警察に逮捕され、収監された。長岡宗一は、荻原敬士と塚本修翠を殺害することを決め、荏原哲夫の舎弟たちとともに、荻原敬士と塚本修翠を探した。
柳川組北海道支部設立まで [編集]
同年3月2日、小高龍湖の兄弟分・山地道蔵が跡目を譲る二代目襲名披露が明日に予定され、その最終打合せが小高龍湖の家で行われた。打合せには、新藤藤作や長岡宗一などが集まった。長岡宗一の筆頭舎弟・野田晶秋や長岡宗一の舎弟・相川辰巳も打合せに参加した。このとき、札幌市のタクシー会社の者が小高龍湖の家を訪ねて来て、小高龍湖に、山地道蔵が荏原哲夫の葬儀のときに乗車したタクシー代を請求した。札幌市のタクシー会社の者は、「山地道蔵が荏原哲夫の葬儀にかかる費用は小高龍湖に請求するように云った」と説明した。小高龍湖は、直ちに山地道蔵に絶縁状を書いた。同日午後2時3分、野田晶秋と相川辰巳は、札幌市南八条西4丁目の山地道蔵の借家を襲撃した。野田晶秋は、旧陸軍14年式拳銃で、山地道蔵に向かって1発を発射した。銃弾は、山地道蔵の左頬から首を貫通し、山地の背後にいた若衆の左胸に当たった。山地道造はほとんど即死の状態だった。左胸に銃弾を受けた山地の若衆は軽傷だった。その後、野田晶秋は凶器の旧陸軍14年式拳銃を持参して、札幌中央警察署のススキノ交番に自首した。同年3月9日、相川辰巳が、山地道蔵殺害の共犯として、札幌中央警察署に逮捕された。その間、小高龍湖は、知人宅に身を隠し、それから、小高の舎弟の家に移った。長岡宗一は、友人と2人で、定山渓温泉に潜伏した。同年3月12日、長岡宗一は、小高龍湖の家に戻ったところを、札幌中央警察署の刑事に、殺人教唆の容疑で逮捕された。長岡宗一は20日間勾留された後、釈放された。
その後、塚本修翠は、荏原哲夫殺害で、懲役11年の実刑判決を受けた。野田晶秋は山地道蔵殺害で、懲役7年の実刑判決を受けた。相川辰巳は山地道蔵殺害で、懲役5年の実刑判決を受けた。長岡宗一は、荏原哲夫の死去により、小高龍湖の実子分となった。長岡宗一は、札幌市の2軒続き長屋の借家に引っ越した。それから、長岡宗一は、旭川市の彫師・通称:彫竹を呼び、背中に刺青を彫った。浮世絵の図柄で、男女が交合している三態に、2匹の雌雄の龍が取り巻くと云うものだった。
このころ、長岡宗一は、舎弟らとともに、二条市場にズボンを売る店を出した。長岡宗一は、深川から専門の香具師を呼んで、「トンバイ」(5人1組となって1軒の店を構え、1人が真打ちをして、残り4人が「トハ」と呼ばれる「さくら」となる方法)のやり方を教えてもらった。長岡宗一は、商売のコツを掴んだ幹部を責任者にして、狸小路と札幌駅前通りにズボン店を出店した。田村武志は、札幌苗穂刑務所を出所するとすぐに、長岡宗一の札幌駅前のズボン店を訪ねた。その後、長岡宗一は、田村武志を実子分にした。
昭和32年(1957年)2月14日、長岡宗一は、会津家・小高龍湖の一家名乗りを許されて、神農様(親分)となった。このころ、長岡宗一は200人近い若衆を抱えていた。
昭和33年(1958年)7月、田村武志は、知人から頼まれて、夕張市の愚連隊・川森の関係者に追い込みをかけ、20万円の借金を取り立てた。数日後、川森は、田村武志に「川森の関係者は田村の知人から借金はしていない。20万円を返金して欲しい」と要求した。田村武志は、川森の返金要求を拒否した。川森は、長沼町の愚連隊・石間春夫(通称:北海のライオン。後の五代目山口組舎弟)に、田村武志に対する返金要求を依頼した。田村武志と石間春夫は、夕張の積立の廃屋で、決闘を行った。田村武志は舎弟1人を連れて、決闘の場に乗り込んだ。これを契機に、田村武志と石間春夫は兄弟分となった。
昭和36年(1961年)12月、三代目山口組柳川組・柳川次郎組長(本名は梁元錫)は、北海道札幌市で力道山一行のプロレス興行を行った。このとき、長岡宗一は、柳川次郎と柳川組若頭・谷川康太郎(本名は康東華)と知り合った[2]。このころ、長岡宗一は400人の若衆を抱えた。
このころから、小高龍湖に、長岡宗一の兄弟分から長岡への讒言が相次いだ。例えば、小高龍湖に、『長岡宗一の新築の家の神棚の鳥居には「長岡」と書かれてある。本来ならば「小高」と書くべきだ」と云った話がもたらされた[3]。小高龍湖は、長岡宗一に対して「新車に乗れて、新しい家も建つのだから、子分からの上納金でとても儲かっているのだろう」と云った。この小高龍湖の発言を切っ掛けに、長岡宗一と小高龍湖は反目しあうようになった。
昭和37年(1962年)5月、長岡宗一は小高竜湖に逆破門状を送った。長岡宗一は、舎弟や若衆が先に小高龍湖を襲撃することは、認めなかった。小高龍湖は、直ちに長岡宗一を破門し、小高龍湖と会津家宗家五代目・坂田浩一郎の連名の破門状を全国に送付した 。長岡宗一は「長友会」を結成した。長岡宗一が砂川市の愚連隊・谷内二三男を説得し、田村武志が長沼町の愚連隊・石間春夫を説得して、長岡宗一・石間春夫・谷内二三男の3人は、千歳市の長岡の舎弟が経営する料理屋の2階で、五分の兄弟盃を交わした。さらに、3人は「長友会」と谷内二三男の愚連隊、石間春夫の愚連隊を統合して、「北海道同志会」を結成した。初代会長には、長岡宗一が就いた。
間もなく、会津家小高一家は、長岡宗一に対して、札幌市南五条西4丁目の喫茶店「赤ランプ」の用心棒役の返還を求めてきた。「赤ランプ」の用心棒は、もともと会津家小高一家が請け負っていたが、逆破門状を送る前には長岡宗一が引き受けていた。長友会30人が、「赤ランプ」に乗り込み、店内で暴れて、店を破損させた。
その後、会津家小高一家・伊山憲(長岡宗一の弟分)が、夜に伊山の弟分で長友会幹部・村尾辰夫の家を訪ねた。伊山憲と村尾辰夫は喧嘩になり、伊山憲が懐から西洋剃刀を取り出して、振り回した。長友会会員・鈴木秋雄が、伊山憲から剃刀を奪い取り、伊山の顔を切りつけ、全治2週間の傷を負わせた。鈴木秋雄は、傷害罪で、札幌中央署に逮捕された。1ヵ月後、田村武志がよその一家の親分から仲裁話を持ちかけられ、この親分と和解案を交渉していた。交渉の最中に、伊山が、5人の若衆を連れて、長岡宗一の自宅を襲撃した。伊山は散弾銃で、長岡宗一邸の窓ガラスを割った。長岡宗一は自宅2階で電話中だった。長岡宗一の若衆3人が、日本刀や槍を手にして、表に飛び出した。伊山たちは、長岡宗一の若衆3人に散弾銃を発砲し、1人の足を撃ち、1人の腹部を撃って重傷を負わせた。伊山たちは逃走した。長友会と会津家小高一家の和解話は消し飛んだ。
昭和37年(1963年)10月、柳川組若頭・谷川康太郎は、日本プロレスの札幌興行で、力道山の用心棒として札幌市に入った。同月、長岡宗一の自宅の神棚の前で、長岡宗一と谷川康太郎とは、長友会の舎弟や若衆を見届け人として、五分の兄弟分となった。翌日、石間春夫が長岡宗一の自宅を訪ねてきた。谷川康太郎はまだ、長岡宗一の自宅に滞在中だった。長岡宗一は、石間春夫に、谷川康太郎を紹介し、長岡と谷川が五分の兄弟分になったことを報告した。長岡宗一は、石間春夫に「石間春夫も谷川康太郎と五分の兄弟分にならないか」と持ちかけた。石間春夫は返事を保留した。間もなく、石間春夫は警察に逮捕された。それから、長岡宗一は、谷川康太郎から、柳川次郎を紹介された。谷川康太郎は、長岡宗一に、柳川次郎の舎弟となることを打診してきた。長岡宗一は、石間春夫と谷内二三男と一緒に柳川次郎の舎弟になることを望み、根回しに動いた。長岡宗一は、札幌市の拘置所にいた石間春夫を訪ね、長岡と一緒に、柳川次郎の舎弟になるように説得した。石間春夫は、長岡宗一に、谷川康太郎と気が合わないことと柳川次郎の舎弟になる気はないことを告げた。その後も、長岡宗一は、何度か拘置所を訪ね、熱心に石間春夫を説得した。石間春夫は、自分なりに柳川次郎や柳川組を調べた上で、結論を出すことに決めた。石間春夫は、昭和33年(1958年)2月10日に起こった柳川一派と鬼頭組との乱闘事件や明友会事件を知り、柳川次郎の舎弟になることを決めた。石間春夫は、保釈で拘置所を出ると、長岡宗一に、柳川次郎の舎弟になることを告げた。
同年暮れ、長岡宗一と石間春夫と谷内二三男は、柳川次郎の舎弟となった。北海道同志会は、柳川組北海道支部の看板を掲げた。支部長には長岡宗一が就いた。長岡宗一の自宅兼事務所が、柳川組北海道支部の事務所となった。
柳川組北海道支部設立以後 [編集]
柳川次郎は、昭和34年(1959年)に起こした債権取立てに絡んだ恐喝容疑の裁判で、懲役1年が確定し、昭和38年(1963年)3月1日から、大阪刑務所に服役した。地道行雄が三代目山口組若中清水光重(後の三代目山口組若頭補佐)を柳川組の目付役とした。
昭和38年(1963年)3月、警察庁は、神戸・山口組、神戸・本多会、大阪・柳川組、熱海・錦政会、東京・松葉会の5団体をを広域暴力団と指定し、25都道府県に実態の把握を命じた。
同年6月中旬、長岡宗一は、長岡の若衆に案内された知り合いの会社社長の訪問を受けた。知り合いの会社社長は、長岡宗一に、会社が経営危機に陥っていることを話し、150万円で覚醒剤を仕入れてくれるように懇願した。長岡宗一は、会社社長の頼みを受けることにした。長岡宗一は、大阪の日比野兼治(通称:ホラ兼)に連絡し、会社社長と長岡の若衆2人を連れて、大阪に入った。日比野兼治は150万円分の覚醒剤を用意していた。長岡宗一たちは、覚醒剤を千雀飴の缶に入れて、北海道に帰った。長岡宗一は覚醒剤を、長岡の若衆に預けた。その覚醒剤の一部を盗んだ長岡宗一の若衆がいて、密告により、その若衆が逮捕された。同年秋、逮捕された長岡宗一の若衆の自供ににより、長岡宗一は、覚醒剤取締法違反で札幌北警察署に逮捕され、罰金50万円・懲役2年6ヶ月の実刑判決を受けた。長岡宗一は釧路刑務所に服役した。
同年7月、柳川組北海道支部・長友会苫小牧支部長・橋川国郎は、幹部・阿島邦春と幹部・奥山雄高を連れて、苫小牧市のテキヤの親分の自宅に殴り込みをかけ、テキヤの親分の若衆を日本刀で刺し、重傷を負わせた。
同年8月、谷川康太郎は、数人の幹部や若衆を連れて、洞爺湖に遊びに来た。洞爺湖では、毎年8月1日から3日間、湖水祭りが行われていた。谷川康太郎は、数人の幹部や若衆を連れて、湖水祭りに繰り出した。柳川組幹部が露店でトウモロコシを買おうとしたとき、露天商とどのトウモロコシにするかで揉めた。柳川組幹部や若衆らは、露店の屋台をひっくり返した。湖水祭りに来ていたテキヤ衆は、地元の世話人を中心に結束して、谷川康太郎が宿泊していた洞爺湖畔のホテルに押しかけた。谷川康太郎についていた長岡宗一の若衆2人が、ホテルを出て、地元の世話人に、ホテルの中で谷川康太郎と話し合うように勧めた。地元の世話人1人がホテルに入り、長岡宗一の若衆2人に案内されて、谷川康太郎の宿泊している部屋に入室した。谷川康太郎は、地元の世話人の脇腹に拳銃を突きつけ、両手を挙げさせて、ホテルの窓際まで移動させた。テキヤ衆は、谷川康太郎に拳銃を突きつけられた地元の世話人を目撃し、地元の世話人が人質に取られたことを悟り、その場を解散した。テキヤ衆が解散すると、谷川康太郎は地元の世話人に詫びを入れ、解放した。
その後、谷川康太郎は、長岡宗一に無断で、会津家小高一家の外田友彦と五分の兄弟盃を交わした。外田友彦は、長岡宗一が会津家小高一家にいた頃は、長岡宗一の格下だった。長岡宗一は、妻の将子に、谷川康太郎と話がしたい旨を伝えた。谷川康太郎は、長岡将子からの電話連絡を受けると、その日のうちに飛行機で大阪から札幌に行った。翌日、谷川康太郎は、釧路刑務所所長から特別面会の許可をもらい、長岡宗一と面会した。谷川康太郎は、長岡宗一を説得した。
柳川次郎は、昭和32年(1957年)4月大阪駅で起こしたプー屋恐喝事件、昭和33年(1958年)2月10日に起こした鬼頭組との乱闘事件、他2件の併合審理事件を上告していたが、昭和39年(1964年)1月16日に棄却されることが確実となり、懲役7年の刑が決定的となった。上告棄却2日前の1月14日、柳川次郎は獄中で引退声明を出し、それを引き換えに仮出所を許された。
昭和39年(1964年)1月、「暴力取締対策要綱」が作られた。
同年2月、警視庁は「組織暴力犯罪取締本部」を設置し、暴力団全国一斉取締り(「第一次頂上作戦」)を開始した。
同年3月5日、柳川次郎は大阪市北区中之島の回生病院に入院した。柳川次郎は長期の服役が確実だったため、組の跡目を決めることにした。柳川次郎は、跡目に、谷川康太郎を考えた。この案に、柳川組幹部・野沢義太郎、柳川組幹部・加藤武義(本名は蘇武源)、柳川組幹部・金田三俊らが難色を示した。地道行雄は柳川組二代目に清水光重を推薦した。このため、柳川組幹部一同は、谷川康太郎を柳川組二代目に推挙することでまとまった。初代柳川組組長・柳川次郎の舎弟、若中をそのまま二代目組長・谷川康太郎が引き継ぐこととなった[4]。
同年3月8日、谷川康太郎の柳川組二代目襲名の盃事が、兵庫県有馬温泉中の坊の「グランドホテル」で行われ、柳川次郎は後見人となった。
同年3月26日、警察庁は改めて広域10大暴力団を指定した。10大暴力団は、神戸・山口組、神戸・本多会、大阪・柳川組、熱海・錦政会、東京・松葉会、東京・住吉会、東京・日本国粋会、東京・東声会、川崎・日本義人党、東京・北星会だった。
同年7月10日、福岡市旧柳町の料亭「新三浦」で、山口組若頭・地道行雄と谷川康太郎の兄弟盃が行われた。谷川康太郎は、地道行雄の舎弟となった。同年7月25日、山口組本家で、谷川康太郎は、三代目山口組・田岡一雄組長から、若中の盃を受けた。これで、二代目柳川組は山口組直参となった。同年7月26日、谷川康太郎の二代目襲名披露式が、兵庫県有馬温泉のホテル池の坊「満月城」で執り行われた。長岡宗一は、柳川次郎の舎弟から、五分の兄弟分だった谷川康太郎の舎弟に直った。谷川康太郎二代目襲名披露前に、回状が全国に送付された。谷川康太郎の友人代表地方欄のトップには、会津家小高一家の外田友彦ら25人の兄弟分の名前が書かれてあり、長岡宗一・石間春夫・谷内二三男の名前は舎弟50人中の最後に書かれてあった。
その後、谷川康太郎は、長岡宗一が谷川の舎弟になることを拒んでいるとの話を伝え聞き、特別面会の許可を取って、釧路刑務所で長岡宗一と面会した。谷川康太郎は、長岡宗一の主張を認めた。
昭和40年(1965年)11月、長岡宗一は、釧路刑務所を出所した。長岡宗一を、妻の将子や谷川康太郎、二代目柳川組組員、長岡の若衆たちなどが出迎えた。3日後、長岡宗一の放免祝いが、定山渓温泉のホテルを借り切って行われた。長岡宗一は、放免祝いの席で、隠退を宣言した。石間春夫が、柳川組北海道支部支部長に就いた。
長岡宗一は、ヤクザから引退した後、ボクシングジムを経営した。
平成6年(1994年)10月8日、長岡宗一は肝臓癌のため、死去した。享年69。
註 [編集]
- ↑ 「かい」の漢字は言偏に毎
- ↑ 飯干晃一『柳川組の戦闘』角川書店<文庫>、1990年、ISBN 4-04-146425-0では、長岡宗一と柳川次郎、谷川康太郎が知り合った時期を、「昭和36年(1961年)12月」としているが、山平重樹『北海道水滸伝』双葉社<文庫>、1999年、ISBN 4-575-50698-2では、「昭和37年(1963年)10月、長岡宗一の舎弟・日比野兼治(通称:ホラ兼)が、谷川康太郎を、長岡宗一の自宅に案内し、長岡宗一に引き合わせた。日比野兼治は山代温泉でストリップ劇場を経営しており、山代温泉で谷川康太郎と知り合った」としている
- ↑ 長岡宗一の新築の家の神棚の鴨居には「札幌神社」と書かれていた
- ↑ 通常だと、組長が引退した場合、その舎弟もみんな引退する。若中は舎弟となり、新組長の直属だった若中は、そのまま組の若中となる
参考文献 [編集]
- 『愚連隊伝説』洋泉社、1999年、ISBN 4-89691-408-2
- 山平重樹『北海道水滸伝』双葉社<文庫>、1999年、ISBN 4-575-50698-2
- 飯干晃一『柳川組の戦闘』角川書店<文庫>、1990年、ISBN 4-04-146425-0