赤津益造

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赤津 益造(あかつ ますぞう、1902年頃-1989年11月)は、日本の共産主義者。元政治研究会のメンバー。1926年12月に再建された日本共産党で活動し、1928年の3.15事件で検挙。戦時中は満鉄調査部の研究員をしており、1940年頃、川崎堅雄尾崎陞ら他の左翼前歴者とともに翼賛団体・日本建設協会を設立した。戦後、日中友好協会の設立に加わり、1953年に創設された中国人俘虜殉難者慰霊実行委員会の事務局次長となり、華人労務者遺骨発掘・送還運動を指揮した。

経歴[編集]

政治研究会のメンバー[1]

1924年頃、仙台にあったガイザー・ヒルシュフェルト書店の支店長(?)をしていた[2]

  • 石堂 (1986 43)は、この頃の赤津を見て、一目での人とわかった、としている。

1926年12月に再建された日本共産党で活動[1]

1928年に3.15事件で逮捕された[1][2]

戦時中は満鉄調査部の研究員だった[3]

1940年頃、川崎堅雄尾崎陞ら他の左翼前歴者とともに翼賛団体・日本建設協会を設立[4]。農村関係の部会を受け持ち[1]新宿尾崎陞宅で行われていた勉強会に参加していた[5]

戦後は、中国侵略に加担したという反省から、日中友好のために尽力[3]日中友好協会の設立に加わった[3]

1953年に創設された中国人俘虜殉難者慰霊実行委員会の事務局次長となった[3]

全国各地の中国人の遺骨の発掘や中国への送還を指揮、日本に連行された中国人約4万人の名簿を作成した[3]

1989年11月に死去、享年87[3]

著書[編集]

  • 赤津益造『花岡暴動-中国人強制連行の記録』〈三省堂新書〉三省堂、1973年、全国書誌番号:71002241

付録[編集]

脚注[編集]

参考文献[編集]