皇運扶翼会
皇運扶翼会(こううんふよくかい)は、簡牛凡夫、中島知久平らにより、1940年2月11日の紀元節を期して設立された、日本が「非常時局」にあることに鑑みて、超党派で国家に協力するよう、実践的な活動(皇道神道の修行)によって国民を教化しようとした翼賛団体。同日の結成式の後、同年3月に、約70人の青年を集めて鎌倉の光明寺で「みそぎ」の修行をさせ、東京・東伏見稲荷神社の道場で会幹部らによる講習を受講させた。
沿革[編集]
準備会合[編集]
当時治安維持法違反で検挙され、控訴中だった妹尾義郎の日記によると、1940年1月19日に六本木の楽満六樹荘で、福岡県選出の代議士で、中島知久平の秘書的な立場にあった簡牛凡夫と、千家尊宣、朝日新聞の川上某、井関好彦、内山若枝が集まり、皇道に基づく「みそぎ」などの宗教的修行により実践的な国家主義の啓蒙活動を行う「輔翼会」についての懇談が行われた[1]。
この会合に先立って、鵠沼の海岸で輔翼会により「みそぎ」が催された[1]。
同年2月4日にも妹尾、井関は簡牛を訪れて、三宅某と4人で「輔翼会」の旗揚げについて意見交換をした[2]。
結成式[編集]
同年2月11日、朝の6時から皇居の二重橋前で結成式が行われ、海軍中将・八角三郎の司会により、敬礼、君が代斉唱、結成文の読み上げ、万歳三唱の後、隊伍を組んで九段の神宮奉賛会へ向い、朝食の後、陸軍大将・小磯国昭、塩野季彦、八角、今泉定助が講話をした。その他に中島派の代議士数人と、地方から上京した人々など約40人が参加した。その後、靖国神社と明治神宮に参拝し、昼食を山水楼で取った後、感想の発表会があり、結成前に鵠沼で開催された「禊」の活動報告があって15時前に散会した。[3]
- 妹尾は、正式な会員ではなかったが、簡牛に招かれて式典に参加した[4]。
同月19日夜、東京会館で打ち合せが行われ、簡牛ら会幹事のほかに、小磯、有馬頼寧、高見之通、蓮沼門三、妹尾らが出席した[5]。
- 妹尾 (1974e 111)は、この日の会費が推定1人5円程と高額だったことを批判し、指導者がもっと地味・質素に生活すべきだ、と評している。
鎌倉光明寺での「みそぎ」[編集]
同年3月1日-5日に、鎌倉光明寺の「禊道場」で行われた「修行」を主催。光行某を道彦として、福岡、愛知、長野、福島の4県から選ばれてきた約70余人の青年が参加し、白装束・白鉢巻姿で神道に則って修行をした。[6]
- 同月3日、5時に起きて神前で祝詞をあげた後、裸になって光明寺の寺庭に集合し、約2丁(218メートル)離れた材木座まで駆け足で移動。浜辺の道場でお祓いをして一同一斉に海水に入り、大祓の神の名を讃唱して、祈祷。海から上がって濡れたまま海辺の砂の上で円陣をつくり、祝詞を上げて祈祷。駆け足で光明寺の道場に戻った。
- 道場に戻った後、着替えて更に道場で修行し、10時頃、小豆粥と梅干しを食べた後、鎌倉宮と八幡宮に参拝し、更に電車に乗って江ノ島へ参拝し、17時に寺へ戻った。[6]
- 妹尾 (1974e 114)は、年をとったせいか、さすがにかなりの苦行だった、光明寺に戻った時には、手足が凍り付いて、腰紐を解くのも容易ではなかった、と感想を述べている。
東伏見での講習会[編集]
鎌倉での「禊」を終えた講習生は、同月5日に東京・東伏見の東伏見稲荷神社にある道場へ移動し、翌6日午前中、簡牛らによる講習を受けた[7]。
- 妹尾 (1974e 115)は、簡牛の講演を傍聴して、政治の重要性を強調し、祭政一致を説いているが、現下の資本主義の問題への意見がなく、いうところの利己主義や唯物主義の排除が不徹底になるのではないか、と評している。
同月10日の陸軍記念日に東伏見で講習会を主催。八代六郎が日支事変について説明、武田祐吉が神典の講義をし、午後、東郷実が日本革新運動の目標について講義した[7]。
同月13日に東伏見稲荷の道場で総裁・中島知久平から会の精神についての解説を受けた[8]。
同月14日には、塩野季彦から、西洋から輸入した法律を、日本独自の思想によって是非し、自由主義思想による個人の権利・思想を全体主義的皇道によって是正すべきだ、とする講話を受けた[8]。
付録[編集]
脚注[編集]
参考文献[編集]
- 妹尾 (1974e) 妹尾鉄太郎・稲垣真美(編)『妹尾義郎日記 第5巻』国書刊行会、NCID BN01797570