横山丸三
横山 丸三(よこやま まるみつ、1780年 - 1854年)は、江戸時代後期の幕臣、宗教活動家、淘宮術の創始者[1]。淘道では淘祖と呼ばれている[2]。通称は横山三之助、諱は興孝[3]。
経歴[編集]
生い立ち[編集]
安永9年(1780)4月2日、東京小石川の小日向武島巷に生れる[4][3]。
はじめ名を三五郎といった。武州川越の人で、父は又兵衛といって農業を営んでいたが、知合いの御広敷小遣の者に仕えて御下男(大奥女中方の雑用をする者[5])となった。母は某氏で名を嘉宇(かう)といい、やはり川越の人で、横山は2人きょうだいの長子だった。[3]
幼い頃は病弱で、11歳の頃に内障眼を患って読書・習字を止め、毎日仏神に祈って過ごし、鼓吹などの俗楽を習っていたという[6]。
田安家の物頭・野崎藤五郎の妹・梶と結婚し、2女1男をもうけた[7]。文化5年(1808)に生まれた末子は男子で幼名は辰蔵、成長してから正則と称した[8]。
文化7年(1824)に父が致仕し、その後を受けて御下男となった[7]。同年12月に小普請組、文化12年(1815)に御留守居番同心、文政5年(1822)に組頭となった。[7]
天源術入門[編集]
横山の妻・梶は再婚で、前夫との間に長女があり、再婚後に福島治右衛門に嫁がせていた。文政4年(1821)の春頃にこの長女が病気になり、横山の家に戻って療養していた。このとき、同僚で、天源術に通じて観相を極めていた奥野清次郎が、横山の顔を見て、家に病人が居ることを言い当て、治るかどうか尋ねると、治し難いと答えた。3月某日に長女は死去した。すると、まだ葬送も済まないうちに奥野は弔喪の書を送って来た。横山はこれに驚き、天源術を学ぼうと考えた、という。[9]
同年、42歳のとき、奥野の門下に入り、天源術の伝授を受けた[4][8]。
奥野はその3年後に病にかかり、文政10年(1827)に死去[8]。
陶宮学創始[編集]
横山はその後、天源術を離れ、天保5年(1834)に淘宮学を創始した[10][11]。
- 後年、幕府が横山から聴取したところによれば、奥野は横山が入門して3年で病気を患い、そのまま6年後に亡くなったため、横山は十分に奥野の術を習うことができず、12宮のことは自分自身で理屈を考えて、「開運淘宮術」と名付けた、という[12]。
天保8年(1837)に組頭を辞し、同11年(1840)に致仕。実子の正則が後を継いだ。同13年に牛込赤城の失火が延焼して大塚の家が焼けた。同14年(1843)に出家して、丸三を道号とした。[13]
別号には、春亀斎(しゅんきさい)のほか、木黄山人(もくおうさんじん)、小响葊(しょうこうあん)、毛陶人(もうとうじん)、陶山人(とうさんじん)、百田楼不学(ひゃくでんろうふがく)、千亀支牀(せんきししょう)などがあった[4][13]。
淘宮学の創始以来、横山に教えを請う弟子は増えていき、嘉永元年には1,040人に達した[10][14]。
禁令[編集]
嘉永元年(1848)9月、弟子が増えたことで幕府の目に止まり、当時三教(神道・儒教・仏教[15])以外の宗教を禁止していた幕府(組頭・豊田藤之進)の糺問を受けた[16][12]。「訛伝紛伝の首罪者は遠流される」などの説もあり、弟子たちは動揺した[16][17]。
翌10月晦日に、幕府(若年寄・大岡主膳正)から、淘宮術自体は禁止しないが、門人・生徒を集めての術の教授を禁止する、との命令を受けた[16][17]。これにより、信仰が固まっていなかった弟子の中には門下を離れる者も出た[18]。
死去[編集]
安政元年(1854・嘉永7)7月、門弟だった井上某公の御成道の邸宅で「夜来淘話」をしていた席上で倒れ、8月に危篤となり、同月13日に死去した[19]。享年75[10]。
同月14日に音羽町の妙法山蓮光寺に葬られた。諡は「釈氏春亀斎静詠信士」。[20]
後継者[編集]
丸三の後継ぎ・横山辰蔵は「木黄(もくおう)」と号した。その妻・横山花子は「丸喜(まるき)」と号して、辰蔵の没後、その道統を継ぎ、1914年以前に没した。没後は丸三の孫・横山正令が後を継いだ。[21][22]
評価[編集]
- 鈴木 (1966 9)は、横山は和歌に堪能で、和歌を通して淘宮術の奥義を説き、門人を啓発する才能を持っていたようだ、と評している。
- 武田 (1903 )は、横山の詠歌の短冊を「此術(淘宮術)を信する徒輩は金科玉条と尊む」と評している。
- 大井 (1868 23)によると、横山は若い頃、眼病にかかったため書学を深く学んでおらず、晩年に地蔵道士庵彦(樋口東壽)から書を学び、62歳のとき初めて短冊を書いた。
- 高弟の佐野量丸の話によると、横山は『阿気の顕支』という小冊子を著し、「この外に淘宮術には書はない」と示したという。『十二の辛苦』以下の7部はもともと天源術の書で、淘宮術のオリジナル書は『阿気の顕支』と淘詠集の2部のみだった。[23]
付録[編集]
脚注[編集]
- ↑ 鈴木 1966 7
- ↑ 大井 1868 1
- ↑ 3.0 3.1 3.2 大井 1868 4
- ↑ 4.0 4.1 4.2 井上 1896 227
- ↑ 精選版 日本国語大辞典『下男』 - コトバンク
- ↑ 大井 1868 4-5
- ↑ 7.0 7.1 7.2 大井 1868 5
- ↑ 8.0 8.1 8.2 大井 1868 7
- ↑ 大井 1868 5-6
- ↑ 10.0 10.1 10.2 井上 1896 228
- ↑ 大井 1868 12-13
- ↑ 12.0 12.1 細川 1922
- ↑ 13.0 13.1 大井 1868 14
- ↑ 大井 1868 13
- ↑ 精選版 日本国語大辞典『三教』 - コトバンク
- ↑ 16.0 16.1 16.2 大井 1868 15,42
- ↑ 17.0 17.1 鈴木 1966 9
- ↑ 大井 1868 15
- ↑ 大井 1868 16-20
- ↑ 大井 1868 20
- ↑ 西川 1914 126
- ↑ 西川 (1914 126)は、正令について「素より其器にあらず、世皆其教祖を辱かしむを惜む」と評している。
- ↑ 大井 1868 23
参考文献[編集]
- 大井 (1868) 大井正元三始氏「淘宮元祖先聖伝記并略年譜」天源淘宮術研究会『天源淘宮術秘訣』松成堂、1909・明治42(原著:慶応4・1868)、pp.4-44、NDLJP 2209062/10
- 井上 (1896) 井上円了(講述)『妖怪学講義 合本第3冊 増補再版』哲学館、明治29、pp.225-236、NDLJP 1080793/118
- 武田 (1903) 武田醉霞「古跡部類 墓所集覧(小石川区) 横山丸三」『好古類纂(第1編)第12集』好古社、明治36年6月、p.24、NDLJP 1244999/84
- 西川 (1914) 西川光次郎『神道教祖伝 - 霊験奇瑞』永楽堂、大正3、NDLJP 908681
- 細川 (1922) 細川潤次郎「淘宮術」『梧園随筆 賸編 3』西川忠亮、大正11、NDLJP 985320/7
- 鈴木 (1966) 鈴木龍二「相沢翁と淘宮術」相沢菊太郎ほか『相沢日記・続』相沢栄久、7-9頁、NDLJP 2985880/8