天源術
天源術(てんげんじゅつ)は、人生の本源に遡って、その天運・命数を究明する方法。人が始めに天から受けたものを「気」といい、その気が様々に分れて「質」になり「形体」を生じると考えて、気の原始に遡って本源を明らかにしようとする術のこと[1]。
高島易断所 (1925 40)は、天源術は、仏教の宿駅教を土台として、中国で天文学の十二宮を応用して説いたもので、人は生まれた年・月・日によってそれぞれ異なる十二宮に配され、異なる運命にあると考え、人を天の力に制せられるものとしている、と解釈している。
文部省 (1936 20-21)は、天源術は元来宿曜暦法に基づく一種の宿命観だった、と評している。
沿革説[編集]
日本における天源術の沿革には3系統の伝があるもよう。
淘宮術系1[編集]
井上円了が天元淘宮に詳しい青柳保元斎という人に聞いた話によると、
天源術は、古来「人易」と称して伝えられてきたもので、
日本に伝わったのがいつ頃かわからないが、冷泉天皇、安和年間(968年 - 969年)に、伊予国津島の「芳彦」という人が人易を伝え、普及させたので、死後これをあがめて「芳彦明神」と称し、その祠が津島にある[2]。
その後、文化の頃(1804年 - 1818年)、京都の葛城昇斎という人が医業と兼業で天源術を伝え、観相(人相占い)で有名になった[2]。
その門下・奥野南北は、江戸・小日向に住居して、天源術と「相法」に詳しかった[2]。
奥野南北の門人・横山三之助は、丸三(まるみつ)と号し、また春亀斎と称して、天源術をもとに淘宮術を創始した[1]。
淘宮術系2[編集]
上野東叡山(寛永寺)の開祖・天海上人は天源術に長じていることで早くから知られていた。徳川家康は天海を招請して開運の秘訣を問い、その説を歓迎して幕政に関与させ、臣下にも広めた(だから三百年も覇業を続けることができた)。[3]
天元術系[編集]
井上円了が天源術を専業とする唐沢某氏にきいた話によると、
唐の時代に、一行禅師が術を極めて完全なものにし、中国で発達し、日本に伝わった[4]。
日本に伝わってからは、加茂康成がこれを伝え、安倍晴明、畠山重忠、楠木正成父子、恩地左近、武田信玄らが研究し、応用していた[4]。
近世になって、小泉正卓が術を研究して「天源」を改め、「天元」と称するようになった[4]。
付録[編集]
脚注[編集]
参考文献[編集]
- 井上 (1896) 井上円了(講述)『妖怪学講義 合本第3冊 増補再版』哲学館、明治29、pp.225-236、NDLJP 1080793/118
- 佐々木 (1910) 佐々木高明『天源淘宮運命開発秘伝』春江堂、明治43、NDLJP 760609
- 高島易断所 (1925) 高島易断所本部「第三章 陶宮術」『除災招福神秘開運法』神宮館、大正14、pp.39-64、NDLJP 922749/25
- 文部省 (1936) 文部省社会教育局「淘宮術の普及とその思想傾向」『江戸時代末期に於ける教化の観念と其の理念』〈社会教育叢書 第34輯〉文部省社会教育局、pp.20-22、NDLJP 1124628/16