弘前藩
弘前藩(ひろさきはん)は、現在の青森県弘前市、(陸奥国津軽郡)(周辺)にあった藩である。津軽藩(つがるはん)ともよばれるが、あくまでも通称である。藩主は津軽氏で、家格は柳間詰め外様大名、幕末に家格向上して大広間詰めもある国主に準ずる扱いを受けた。藩庁は弘前城に置いた。
目次
沿革[編集]
津軽氏は、元は大浦氏を称した。藩祖・為信は津軽地域に基盤を置く土豪であり、南部氏の被官となっていた(近年では為信は南部氏の一族である久慈氏からの養子とする説が有力である)が、近世初頭における南部氏内部の混乱に乗じて自立した。その後、豊臣秀吉の小田原攻めに参陣して大名の地位を公認させている。この独立の経緯により、盛岡藩との間に遺恨が残った。
弘前藩の石高は、4万7000石を公認されていたが、9代寧親の代の文化年間に高直しがあり文化5年(1808年)に10万石となった。これに伴い従四位下昇進と大広間詰めが認められ、準国持ち大名に列することになった。この家格向上は蝦夷地警護役を引き受けることに対してなされたものであり、実際の加増を伴わないため藩の負担増ばかりを招いた。またこの家格向上により、対立関係にあった盛岡藩主南部利用より寧親が上座となり、これに対する屈辱から南部藩士の下斗米秀之進が寧親の暗殺を計画した相馬大作事件が引き起こされた。
居城[編集]
お家騒動[編集]
津軽騒動[編集]
慶長12年(1607年)初代藩主為信の死後、為信の三男信枚と長男信建の遺児・熊千代が藩主相続を争った騒動。
熊千代を擁立したのは信建側近で信建・信枚の妹婿である津軽建広で、彼は幕府に対し熊千代の藩主相続を訴え本多正信に訴状を提出した。訴状は正信に受け入れられ熊千代の相続が決定するかと思われたが、安藤直次がこれに反対した。
結局直次の主張が容れられ、慶長14年(1609年)に幕府から信枚の藩主相続を認められた。これを受けて信枚は熊千代派を粛清、熊千代は肥後の加藤氏に仕えたが若くして死去したと言われている。
船橋騒動[編集]
寛永11年(1634年)、3代藩主信義の時に起こったお家騒動。
背景[編集]
2代藩主信枚の側室・辰姫は藩の飛び領地上野国大舘で暮らしており、3代藩主となる信義も大舘で産まれ育った。その時乳母となったのが旧宇喜多秀家家臣・船橋半左衛門の妻である。
元和9年(1623年)に辰姫が死去したため信義は江戸津軽藩邸に引き取られ、信枚の死後寛永8年(1631年)に13歳で藩主となった。それに伴い信義が幼少の頃から近侍していた船橋半左衛門親子の権力がにわかに強力となる。藩内では元々古参の譜代家臣と新参者の家臣の間に対立が生じており、これを契機に新参家臣らが船橋半左衛門に集まって対立は決定的となった。
騒動と幕府による裁定[編集]
寛永11年(1634年)7月、信義は3代将軍徳川家光の上洛に同行、翌月江戸藩邸に帰りつく。この時譜代派の家臣が江戸の町家に立て篭もり「船橋半左衛門らの放逐」を藩に求めた。藩は説得にあたったが失敗、結局幕府が介入し藩主信義、船橋派の代表、譜代派の代表らを喚問して騒動解決をはかった。
裁定が下ったのは2年後の寛永13年(1636年)、信義は若年であり態度も神妙であることからお咎めなし、喧嘩両成敗として譜代派中心人物は長門の毛利家、船橋半左衛門親子らは伊予の松平家にお預けとなった。
正保の騒動[編集]
正保4年(1647年)、3代藩主信義を強制隠居・嫡子信政を廃嫡させ、信義の異母弟で幕府旗本の信英を藩主に擁立しようとする主君押込の企てがあった。計画段階で信義へ密告があり大きな騒動となる前に防がれている。異母弟や妹婿も処罰したが、信英については関与が明らかでない・すでに旗本の身分であった・信義自身が信英に好意的であったことからなんらお咎めは無かった。
企ての背景には複数の要因があり、そのうち主なものは以下のとおり。
- 信義は藩政に功績がある反面酒乱であったといわれ女性関係にも問題があった。それら不行跡が幕府の目に留まり藩が処罰されることを恐れた
- 信英は幕府に小姓として召し出されてから旗本へと出世し文武ともに秀で優秀であった
- 船橋騒動(前述)後から信義は積極的に藩政を指示し藩主権力の強化に努め、それに既得権益を失いたくない一派が反発した
- 信義は長男だが母は側室の辰姫であり石田三成の孫にあたる。それに対し信英は次男ではあるが母は正室の満天姫であり徳川家康の義理の孫である。そのため幕府の感情への配慮、また幕府に阿るため、先代信枚の頃から信英を擁立したい一派が存在していた
歴代藩主[編集]
- 津軽(つがる)家
外様 47,000石→46,000石→70,000石→100,000石
- 初代 為信(ためのぶ)〔従五位下、右京大夫〕( - 1607年)
- 二代 信枚(又は「信牧」 のぶひら)〔従五位下、越中守〕(1607年 - 1631年)
- 三代 信義(のぶよし)〔従五位下、土佐守〕(1631年 - 1655年)
- 四代 信政(のぶまさ)〔従五位下、越中守〕(1656年 - 1679年)
- 五代 信寿(のぶひさ)〔従五位下、土佐守〕(1679年 - 1731年)1千石収公により46,000石
- 六代 信著(のぶあき)〔従五位下、出羽守〕(1731年 - 1744年)
- 七代 信寧(のぶやす)〔従五位下、越中守〕(1744年 - 1784年)
- 八代 信明(のぶはる、のぶあきら)〔従五位下、土佐守〕(1784年 - 1791年)
- 九代 寧親(やすちか)〔従五位下、土佐守〕(1791年 - 1820年)蝦夷警護により70,000石→高直しにより100,000石
- 十代 信順(のぶゆき)〔従四位下、出羽守・侍従〕(1820年 - 1839年)
- 十一代 順承(ゆきつぐ)〔従四位下、左近将監〕(1839年 - 1859年)
- 十二代 承昭(つぐあきら)〔従四位下、土佐守・左近衛権少将・侍従 藩知事 贈・従一位〕(1859年 - 1869年)
家老[編集]
- 大道寺隼人家(弘前藩内1万石余・藩主一門)
大道寺直英-直秀=為久(藩主・津軽信枚の七男)-維新後まで存続、子孫は県会議長
支藩[編集]
黒石藩[編集]
- 津軽藩の支藩に、陸奥黒石(青森県黒石市)に置かれた黒石藩(くろいしはん)がある。黒石藩は本家四代藩主信政が藩主就任時幼少だったため、幕府の指示により叔父の信英(本家二代藩主・信枚の次男)を本藩の後見人とすべく、明暦2年(1656年)信政が本藩を継ぐと同時に津軽藩より5,000石を分知されたのに始まる。旗本黒石八代目となる親足の代に至り、文化6年(1809年)津軽本藩(当時の藩主は黒石藩家出身の津軽寧親)より更に6,000石の分与があり、1万石の外様大名として柳間に列した。
- 信英は分知の際、賀田・猿賀・青森を希望したが叶えられず、津軽家の為信時代の拠点の一つ、黒石に配されたと伝わる。
- 居城は黒石陣屋(黒石城)。
歴代当主[編集]
- 津軽(つがる)家
交代寄合 5,000石
- 初代 信英(のぶふさ)(1656年 - 1662年)
- 二代 信敏(のぶとし)(1663年 - 1683年)弟津軽信純に1000石分与。
- 三代 政兕(まさたけ)〔正六位下、釆女正〕(1683年 - 1743年)交代寄合から外されると伝わる。
- 四代 寿世(ひさよ)(1743年 - 1758年)本家4代藩主信政の五男。婿養子。
- 五代 著高(あきたか)(1758年 - 1778年)
- 六代 寧親(やすちか)〔従五位下、土佐守〕(1778年 - 1791年)弘前藩9代藩主となる。
- 七代 典暁(つねとし)(1791年 - 1805年)
- 八代 親足(ちかたり)(1805年 - 1809年)
歴代藩主[編集]
- 津軽(つがる)家
外様 10,000石
- 初代 親足(ちかたり)〔従五位下、甲斐守〕(1809年 - 1825年)上総久留里藩黒田直亨の四男
- 二代 順徳(ゆきのり)〔従五位下、左近将監〕(1825年 - 1839年)弘前藩11代藩主を相続し、津軽順承と改名。 三河吉田藩松平信明の三男。
- 三代 承保(つぐやす)〔従五位下、出雲守〕(1839年 - 1851年)津軽親足の二男。
- 四代 承叙(つぐみち)〔従五位下、式部少輔 贈・正三位〕(1851年 - 1869年)津軽本藩一門、津軽順朝の二男