岸山勇
岸山 勇(きしやま いさむ、生年不詳 - 1948年2月22日)、通称:島 小太郎(しま こたろう)は、日本陸軍の軍人。陸軍中野学校出身。ハルビン機関を経て、1943年3月、船舶司令部付となり、内地の港湾調査の後、外地の港湾調査のためマニラに赴任。1943年9月、シンガポール船舶司令部付、暁機関に所属。1944年、南方軍総軍司令部付、浪機関に所属。浪機関での物資流用が軍規違反に問われ、1等兵に降等、禁固3年の判決を受け収監されたが、茨木機関の石島少佐により同機関員となる。
1945年8月の終戦後、アナンバス事件の戦犯追及を逃れるためスマトラのアチェ州に入り、インドネシア国軍の兵士に戦闘訓練や破壊工作を指導。1947年7月-10月のオランダ軍の攻勢のとき、橋梁破壊などの焦土作戦を指揮し、同年8月にクアラ・シンパン 郊外に諜報破壊活動学校(SSS;Sekolah Siasat Sabotase)を開いてインドネシアの少年に破壊工作や遊撃戦の指導をした。その後、手榴弾の製造に携わり、1948年2月にプルラ 近郊の兵器工場で爆弾の製造中に爆発事故により死去。
経歴[編集]
1943年(昭和18)3月、宇品の船舶司令部に着任。東京、横浜、神戸、長崎、函館などの内地の港湾を調査し、防諜計画書を作成した。[2]
船舶司令部・鈴木宗作司令官の指示により、外地の港湾調査のため、小豆沢孟中尉とともにマニラに赴任。1943年末に報告書を提出した。[2]
1943年9月の昭南港爆破事件を受けてシンガポール船舶司令部付となり、暁機関(機関長・吉永弘之大尉)に属して、管下の諸部隊に対する港湾(船舶)防諜の指導にあたり、「特殊施策」の調査研究にあたった[2]。
(1944年初)総軍司令部付の浪機関(機関長・吉永大尉)に所属[2][3]。
(1944年3月)南方総軍のマニラ移駐に伴い、第7方面軍に転属[2]。
1943年(1944年?)5月頃までに、浪機関で活動中に、機関の工作用物資を売却して現金化し、機密費にしたことを憲兵隊に告発され、曹長から1等兵に降等になり、軍法会議で禁固3年の判決を受けてオートラム刑務所に収監された[4]。
この頃、岸山のことを知った茨木機関の石島少佐が参謀部第2課長、法務部長、司法部長と交渉した結果、条件付きで茨木機関の機関員として使役されることになった[5]。
1945年8月、終戦に際し、茨木機関の機関員とともに、スマトラ島で潜行[6]。
1946年2月、茨木機関の特操出身者の多くがマレーへ移される際に、岸山と山本久勝曹長はクアラ・シンパン の村本英秀司政官の下に移った[7]。
アチェ州へ[編集]
1946年5月、日本軍がクアラ・シンパンからメダン方面へ撤退することになったため、岸山は山本、衛藤某とともに、更に北上してアチェ州に入り、ランサのカンポン・ジャワ・ブラカン(Kampung Jawa Belakang)にあったムジャヒディンの司令官トンクー・フシン・アル・ムシャヒド少将の部下の家に泊まり、ここで「島小太郎」と名乗った[8]。
同所で国軍に拘束され、ブロブラン・アラという村のオランダ時代のマソシェ連隊の兵舎に他の日本人と共に監禁されたが、村長に「インドネシアの青年を教育したい」と申し出たところ、話が第1象師団長フシン・ユスフ大佐に伝わり、数日後に同大佐と参謀長ノルデン・スフィ中佐が島に会いに来た[9]。
島は、ユスフ大佐とスフィ中佐に、自分たちはインドネシアの独立を支援するために脱走してきたのだから、殺すより利用した方がいいと説得し、同年6月から、近隣の町や村から集まった約40人の若者に戦闘教練や無線通信、潜入・破壊工作のほか、一般教養として英語や数学を教える学校を開いた[10]。
同年8月には2期生60人が入校した[11]。
同年11月下旬に楠木事件が起こり、フシン・ユスフ師団長がアチェに残っていた日本人を集めて監禁したが、教育を続けていた島らは監禁されなかった[12]。
オランダとの戦い[編集]
同月末に1期生、2期生とも卒業し、全員に軍曹の階級が与えられた。島は少佐待遇となり、学校を閉鎖し、生徒たちを引き連れて前線へ出陣することになった。同年12月10日に生徒32人はメダン戦線で国軍・マナフ大佐のSIASA(探索隊)に所属した。[13]
その後、島はメダンへ潜入[14]。オランダ軍の攻撃が近いという情報を得てSIASAのマジ大尉に報告し、1947年4月、橋梁を爆破してオランダ軍の進撃を食い止めた[13]。
同年7月21日にオランダ軍の第1次攻勢があり、タンジョン・プラ が陥落[15]。同年8月13日にアチェ軍はブランダン の製油所を爆破したが、島はこれに反対し、ブキ・クブ(Bukit Kubu)のベシタン(Besitang)川にかかるプラウイの橋[map 1]を爆破した[16]。
その後、アチェ州に入り、東海岸州のパンカラン・スス で石油輸出港の施設を破壊する焦土作戦を指揮した。作戦は中止されたが、島の声望は高まった。[17]
戦線が静かになると、日本人たちはアチェ州へ引揚げた。島は山本とクアラ・シンパンの郊外(東へ10キロ)のブキスリンという村に家を借りて暮らした。[18]
諜報破壊活動学校[編集]
1947年8月頃、宮山らとクアラ・シンパン郊外のラント・サトというコーヒー農園に諜報破壊活動学校(SSS;Sekolah Siasat Sabotase)を開設し、日本軍の脱走兵が教官となってインドネシア人の少年に一般教養を教え軍事訓練をした。教育は下士官養成を目的とし、破壊工作や遊撃戦を主に教えた。[19]
同年10月頃、KSBO(メダン攻撃部隊の中の西北地区つまりアチェ軍)の命令を受けて、パンカラン・ススへのオランダ軍の進出を防ぐための焦土作戦に従事。ブランダン近郊の橋梁を爆破して落とすなどした。[20]
その後、1期生が卒業したため、2期生80人を受け入れたが[21]、国内情勢が落ち着いてきたため、KSBOから生徒を減らすよう指示を受け、生徒数を50人に削減した[22]。
爆死[編集]
島は生徒の指導から遠ざかり、手榴弾の研究に没頭するようになった。1948年1月、信管の研究開発に成功し、ランサの北43キロのプルラ から西南の山手に入ったところの、カラン・イノウエ(井上農園)に手榴弾の製造工場を設営。アチェの国軍に製造した爆弾を納品する契約を結び、製造に着手した[23]。
同年2月22日[24]、兵器工場で爆弾を製造中に爆発事故を起こし、搬送先のプルラの病院で死亡。この事故で工場は大破し、兵器工場にいた10人のうち、日本人3人、マレー人1人、インドネシア人4人が死亡、1人が負傷し、隣の工作機械工場にいた1人が負傷した。[25]
翌々日(24日)、事故の犠牲者は、プルラの本通りから病院へ行く道を曲がってすぐの左側、回教礼拝所横の空地[map 2]のアサムの大木の前に埋葬され、2,3ヵ月後に墓碑が建てられた。[26]
1976年に、墓碑は残留日本人によって修復され、周囲に鉄の鎖がめぐらされた[28]。
評価[編集]
- 本田 (1988 120-121)によると、岸山は毀誉褒貶の激しい人物で、特操出身の茨木機関の機関員の中では、岸山について、キザで品が悪く、感じが悪いが、話がうまく、話し込むと面白く、またインドネシア語を流暢に話したが、言うことがくるくる変わる、ホラ吹きだ、などの評があった。
付録[編集]
地図[編集]
脚注[編集]
- ↑ 茨木 1953 218。死亡時の、復員局留守業務部への報告書に記載があった。
- ↑ 2.0 2.1 2.2 2.3 2.4 2.5 2.6 中野校友会 1978 553
- ↑ 茨木 1953 219。同書は機関名を「港機関」としている。
- ↑ 茨木 1953 219-220。原文「オーラム監獄」。
- ↑ 茨木 1953 220
- ↑ 本田 1988 113
- ↑ 本田 1990 85,87
- ↑ 本田 1990 90-91
- ↑ 本田 1990 90-94
- ↑ 本田 1990 96-98
- ↑ 本田 1990 102
- ↑ 本田 1990 128-131
- ↑ 13.0 13.1 本田 1990 132-133
- ↑ 本田 1990 133-134
- ↑ 本田 1990 141-142,154
- ↑ 本田 1990 160
- ↑ 本田 1990 164-166
- ↑ 本田 1990 179
- ↑ 本田 1990 187-192
- ↑ 本田 1990 199-203
- ↑ 本田 1990 204-207
- ↑ 本田 1990 207-209
- ↑ 本田 1990 210-222
- ↑ 茨木 1953 口絵の墓碑には、2月23日の日付がみえる。
- ↑ 本田 1990 223-235
- ↑ 本田 1990 236
- ↑ 茨木 1953 218。第7方面軍参謀部第2部の情報将校で少佐との情報だったため、(行方不明になっていた)石島少佐の留守宅へ(死去の)通知があったという。
- ↑ 本田 1990 252
参考文献[編集]
- 本田 (1990) 本田忠尚『パランと爆薬 - スマトラ残留兵記』西田書店、ISBN 4888661200
- ―― (1988) ――――『茨木機関潜行記』図書出版社、JPNO 88020883
- 中野校友会 (1978) 中野校友会(編)『陸軍中野学校』中野校友会、JPNO 78015730
- 茨木 (1953) 茨木誠一『メラティの花のごとく』毎日新聞社、1953年、NDLJP 1660537