マツダ・ファミリア
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マツダ・ファミリア(まつだ・ふぁみりあ、MAZDA FAMILIA)は、かつてのマツダの稼ぎ頭である。今は日産製のライトバンのみが売られている。
概要[編集]
当初はただのライトバンだけだったが、途中で4ドア(2ドア)セダンとワゴンが追加された(後にクーペも追加)。
その後、いつの間にかロータリーエンジンを載せたり、3ドア(5ドア)ハッチバックが追加されたり、これまでFRだった駆動方式がFFに変わってからは4WDターボが追加されてラリーで活動したりしていたが、結局はただのライトバンだけ(しかも日産製)に戻り今に至っている。
歴代モデル[編集]
初代 SSA/MPA/BSAVD/MSAG型(1963年 - 1967年)[編集]
- 1963年10月、ライトバンが先にデビューした(初代カローラと初代サニーがデビューする3年前の話であった)。4ドア(2ドア)セダンやワゴン、クーペといった乗用モデルは後回しにされた形で1964年(クーペは1965年)に追加された。
この時点でファミリアは「ヨーロッパを意識したデザイン」でスマッシュヒットしたが、一部のモデルでは「手動クランクによるエンジンの始動」[1]が出来たりする。
- さらにピックアップトラックも設定されていた(ちなみにピックアップトラックの発売は4ドア(2ドア)セダンと同じ1964年だった)。
2代目 FA3型(1967年 - 1978年)[編集]
- 1968年6月、ロータリーエンジンを普及させる「ロータリゼーション」というマツダの誇大妄想に巻き込まれ、クーペにロータリーエンジン搭載車が追加される(その後、1969年4月に4ドアセダンにもロータリーエンジン搭載車が追加された)。
- 現代の軽自動車と同等レベルの車体に「国産最高レベルのハイパワーエンジン」を載せるという、後のAZ-1を彷彿させる暴挙であった。
しかし、さすがに「これはまずいな」という空気を悟ったマツダは、1971年9月にロータリーエンジンを載せたファミリアを「サバンナ」という別車種という扱いにして切り抜ける事にした。
- 1973年9月に3度目のマイナーチェンジが行われるが、2ドアセダンが姿を消している。さらに韓国の大手自動車メーカー・起亜自動車にも調達された。
- 韓国では起亜自動車から「ブリサ」として生産されたが、ファミリアを全く知らない韓国人はブリサを「韓国の車」だと思い込んだのは言うまでもない。
- ちなみに2代目や3代目と年代でかぶっているのは、ライトバンとピックアップトラックだけがモデルチェンジせずにそのまま継続生産したからである。
3代目 FA4型(1977年 - 1985年)[編集]
- 1977年1月、2代目からフルモデルチェンジ。ラインナップは3ドア(5ドア)ハッチバックとライトバンの2種類で、4ドアセダンは2代目が継続生産されている。
映画『幸福の黄色いハンカチ』にこのファミリアの赤い5ドアハッチバックが使われたおかげで歴代のファミリアで最も売れ、ついでにマツダの経営危機も助けてくれた。デミオがマツダの救世主となる20年近く前の話である。
4代目 BD型(1980年 - 1985年)[編集]
- 1983年6月、3ドアハッチバックのみにターボ搭載車が追加される。1983年当時の広告によると、ターボ搭載車を開発したのは「レスポンスが悪い」という理由で大のターボが大嫌いな、ぴーの技術者だったという。
その広告にはあれこれと書かれていたが、端的に表現すると「デカくて軽いタービンを使う」という方法でレスポンスとパワーを両立させることに成功したとのこと。 - その後、マツダの関係者が「何でターボの開発に携わったんですか!」と問われて、彼は「出来の良いターボまで嫌いとは言ってない。」と答えたという。典型的なツンデレと思われる。
5代目 BF型(1985年 - 1994年)[編集]
- 1985年10月、1.6リッターターボや日本初のフルタイム4WDを搭載したGTとGT-Xがデビュー。日本初の4WDの座を奪った挙句に国内外のラリーで
調子こいた大暴れして「雪上の帝王」と呼ばれたことにより、後年になってスバルや三菱を暴走させてしまう。ある意味、このファミリアはランエボやインプレッサSTiの生みの親であった。
6代目 BG型(1989年 - 1994年)[編集]
- 1989年2月、5代目からフルモデルチェンジ。5ドアハッチバックはスーパーカーをイメージした「アスティナ」としてリニューアルされた(後述)。
さらに4WDターボは1.8リッターに排気量が上がり、出力も140馬力から180馬力に向上して一見したらリッター100馬力に達したかに思われるが、正確な排気量が1839ccであるため「一歩及ばず」だった。 - この問題は競技ベースのGT-Aが210馬力になったことにより気にならなくなったと言われる。
7代目 BH型(1994年 - 1998年)[編集]
- 1994年6月、6代目からフルモデルチェンジ。4WDターボは三菱とスバルを激怒させた挙句に竜の逆鱗に触れたため、責任を取って引退した。また3ドアハッチバックに代わって3ドアクーペ(「NEO」と呼ばれていた)が登場した。
- 1996年6月、マイナーチェンジ。日本国内のみ3ドアクーペを3ドアハッチバックに戻したものの、海外向けは3ドアクーペの販売を継続。この時期のマツダは「クロノスの悲劇」によって、経営危機に陥っていたにもかかわらず「わざわざ金の掛かることをしたな」と思ったのは筆者だけでないはず。
8代目 BJ型(1998年 - 2004年)[編集]
- 1998年6月、7代目からフルモデルチェンジ。マツダオリジナルのファミリアとして最後のモデルである。この代は3ドアハッチバックが無くなり、代わりに5ドアハッチバックとワゴンだか全く意味不明な「S-ワゴン」が設定された。S-ワゴンには、170馬力を発生する2リッターエンジンを搭載したスポーツモデルの「スポルト」が設定される(のちに4ドアセダンにも追加)も、誰も気にしなかった。
兄弟車[編集]
グランドファミリア[編集]
- 1971年9月にデビュー。ファミリアとカペラの隙間を埋めるために生まれた。
- しかしその正体は、ファミリアのロータリーエンジン搭載ヴァージョンであるサバンナに、レシプロエンジンを搭載するという「それってファミリアとどこが違うの?」という、全く意味不明の車だった。1978年10月まで生産・販売された。ライトバンも存在する。
- 現存台数は約46台。
ファミリアアスティナ[編集]
- 1989年2月にデビュー。6代目ファミリアの5ドアハッチバックである。かっこいい「スーパーカータイプのハッチバック」だったため、マツダお得意のヨーロッパで受けた。現存台数は約35台(推定)。
- ちなみにユーノス店では「ユーノス100」として販売されていた。さらに後継車はランティスである。
ファミリアバン(1994年-)[編集]
- 1994年から2018年まで日産のADシリーズがファミリアバンとしてマツダのディーラーから売られていた。しかし、2018年にトヨタから公道最速の社畜スペシャルをもらってきた為、サクシードの名前違いとなった。SKYACTIVな社畜仕様となっている。
脚注[編集]
- ↑ 棒を使ってエンジンのクランクシャフトを回し、エンジンを始動させる方法。T型フォード時代のエンジンのかけ方であった。
- ↑ ワゴンが消滅したのは国内のみで、海外ではフルモデルチェンジして販売されていた。
- ↑ 1971年9月に再度マイナーチェンジを受けている。
- ↑ 現代自動車から発売された「プレスト」の名前は、「
アクシデントアクセント」の前身である「エクセル」の4ドアセダンの名前として使われていた。 - ↑ 「陸サーファー(おかサーファー)」といい、サーフィンをしない癖にナンパのためにサーファーのふりをするヘタレが増殖した。