スペイン王
スペイン王とは、スペインおよび現在のスペインにつながるイベリア半島の諸国を統治してきた君主(共和制元首を含む)のことである。
目次
アストゥリアス王国[編集]
王 | 統治期間 | 綽名 | 別名 | 備考 |
---|---|---|---|---|
ペラーヨ | 718年–737年 | Pelayo | コバドンガの戦いを通じて王国の土台を築き、カンガス・デ・オニスを首都にする。 | |
ファビラ | 737年–739年 | Favilac、Fafila | ||
アルフォンソ1世 | 739年–757年 | カトリック王 | アルフォンソ1世およびその子孫はアストゥリアス=レオン王家と形づけられる。 | |
フルエーラ1世 | 757年–768年 | 残酷王 | Froila | |
アウレリオ | 768年–774年 | Aurelio | ||
シロ | 774年–783年 | アルフォンソ1世の娘で自身の妻であるアドシンダを介して王位を継承。首都をプラビアに移転。 | ||
マウレガート | 783年–788年 | 簒奪王 | Mauregato | アルフォンソ1世の庶子で王位を簒奪。 |
ベルムード1世 | 788年–791年 | 助祭王、修道士王 | Veremund、Vermudo | 修道士に復帰 |
アルフォンソ2世 | 791年–842年 | 純潔王 | オビエドに首都を移転。 | |
ネポシアーノ | 842年 | Nepociano | 王位を簒奪。ラミーロ1世と後継を争い、敗れる。 | |
ラミーロ1世 | 842年–850年 | ネポシアーノを廃位。 | ||
オルドーニョ1世 | 850年–866年 | |||
アルフォンソ3世 | 866年–910年 | 大王 | 王国は3人の息子の間で分割され、ガルシア1世はレオンを 、オルドーニョ2世 はガリシアを、フルエーラ2世はアストゥリアスをそれぞれ相続した。 | |
フルエーラ2世 | 910年–925年 | Froila | 死後にアストゥリアスはレオン王アルフォンソ4世によって掌握され、他方、アルフォンソ・フロイラスは空しい王位請求を行った。 |
レオン王国[編集]
ペレス家[編集]
肖像画 | 名前 | 生誕 | 統治期間 | 死去 | 備考 | |||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|
[[File:Ordono1of | 80px]] | オルドーニョ1世 | 831年 | al | 850年 – 866年5月27日 | 866年5月27日 | ||
[[File:Alfonso III of Asturias | 80px]] | [[アルフォンソ3世 | アルフォンソ3世]] | 848年頃 | 866年 – | 910年12月10日 | 910年12月10日 | |
[[File:García I, rey de | 80px]] | [[ガルシア1世 | ガルシア1世]] | 871年頃 | 910年 – | 914年 | 914年 | |
80px | オルドーニョ2世 | 873年頃 | 914年 – 924年 | 924年 | 910年以降はガリシア国王を兼ねる。 | |||
80px | フルエーラ2世 | 875年頃 | 924年 – 925年 | 924 | 924年以降はガリシア国王を、910年以降はアストゥリアス国王をそれぞれ兼ねる。 | |||
[[File:Alfonso IV de | 80px]] | [[アルフォンソ4世 | アルフォンソ4世]] | 890年頃 | 924年 – | 931年 | 933年 | 退位 |
80px | [[ラミロ2世 | ラミロ2世]] | 900年頃 | 931年 – | 950年 | 950年 | ||
[[File:Ordono III of | 80px]] | オルドーニョ3世 | 926年頃 | align | 951年 – 956年 | 956年 | ||
[[File:Sancho I el Craso, rey de | 80px]] | [[サンチョ1世 | サンチョ1世]] | ? | 956年 – | 958年 | 966年 | |
[[File:Ordono IV of Leon | 80px]] | オルドーニョ4世 | 926年頃 | align= | 958年 – 960年 | 962年 | ||
[[File:Sancho I el Craso, rey de | 80px]] | [[サンチョ1世 | サンチョ1世]] | ? | 960年 – | 966年 | 966年 | |
80px | [[ラミロ3世 | ラミロ3世]] | 961年 | 966年 – | 984年 | 985年 | ||
[[File:Bermudo II of | 80px]] | ベルムード2世 | 956年 | align=" | 982年 – 999年 | 999年 | ||
[[File:Alfonso V of | 80px]] | アルフォンソ5世 | 994年 | align= | 999年 – 1028年 | 1028年 | ||
[[File:Bermudo III de León (Ayuntamiento de | 80px]] | ベルムード3世 | 1010 | align= | 1028年 – 1037年9月4日 | 1037年9月4日 |
ヒメノ家[編集]
肖像画 | 名前 | 生誕 | 統治期間 | 死去 | 備考 | |||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
[[File:Ferdinand | 80px]] | [[フェルナンド1世 | フェルナンド1世]] | 1017年 | 1037年 – | 1065年 | 1065年 | |||
[[File:AlfonsoVI of | 80px]] | [[アルフォンソ6世 | アルフォンソ6世]] | 1040年6月以前 | 1065年 – | 1072年1月 | 1109年6月29日/7月1日 | 兄弟により廃位 (数年後 |
復位) | |
80px | サンチョ2世 | 1036/1038年 | 1072年1月 – 1072年10月7日 | 1072年10月7日 | カスティーリャ国王を兼ねる (1065年–1072年)。 | |||||
[[File:AlfonsoVI of | 80px]] | [[アルフォンソ6世 | アルフォンソ6世]] (復位) |
1040年6月以前 | align="center" | 1072年10月7日 – | 1109年6月29日/7月1日 | 1109年6月29日/7月1日 | カスティーリャ | 国王を兼ねる(1072年–1109)年 |
80px | ウラカ | 1082年 | 1109年 – 1126年3月8日 | 1126年3月8日 | カスティーリャ女王を兼ねる(1109年–1126年)。 |
ブルゴーニュ家[編集]
この一族は男系ではウラカの夫ガリシア伯ライムンドの子孫にあたる
肖像画 | 名前 | 生誕 | 統治期間 | 死去 | 備考 | ||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
80px | アルフォンソ7世 | 1105年3月1日 | 1135 – 1157年8月21日 | 1157年8月21日 | ガリシア国王(1111年–1157年) 及びカスティーリャ国王(1126年–1157年)を兼ねる。 | ||||
[[File:TumboA | 80px]] | [[フェルナンド2世 | フェルナンド2世]] | 1137年3月1日 | 1157年–1188年 | 1188年1月22日 | |||
80px | [[アルフォンソ9世 | アルフォンソ9世]] | 1171年8月15日 | 1188年–1230 | 年 | 1230年9月23日 | |||
80px | フェルナンド3世 | 1199年7月30日ないし8月5日 | 1230年–1252年 | 1252年5月30日 | 1217年以降はカスティーリャ国王を兼ね、1671年に列聖 される。 | ||||
以後は全ての国王がカスティーリャ国王を兼ねる。 | |||||||||
[[File:Alfonso X el Sabio (Ayuntamiento de | 80px]] | [[アルフォンソ10世 | アルフォンソ10世]] | 1221年11月23日 | 1252 | 年–1284年 | 1284年4月4日 | ||
[[File:Sancho IV de Castilla (Ayuntamiento de | 80px]] | [[サンチョ4世 | サンチョ4世]] | 1257年ないし | 1258年 | 1284年–1295年 | 1295年4月25日 | align="ce | |
[[File:Fernando IV de Castilla (Ayuntamiento de | 80px]] | [[フェルナンド4世 | フェルナンド4世]] | 1285年12月6日 | 1295年– | 1312年 | 1312年9月7日 | ||
[[File:Alfonso XI de Castilla y | 80px]] | [[アルフォンソ11世 | アルフォンソ11世]] | 1311年8月13日 | 1312年 | –1350年 | 1350年3月26/27日 | ||
[[File:Pedro I de Castilla (Ayuntamiento de | 80px]] | [[ペドロ1世 | ペドロ1世]] | 1334年8月30日 | 1350年–136 | 9年 | 1369年3月23日 |
トラスタマラ家[編集]
エンリケ2世はアルフォンソ11世の庶子であり、トラスタマラ公を創立した。
肖像画 | 名前 | 生誕 | 統治期間 | 死去 | 備考 | |||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|
[[File:Enrique II de Castilla (Ayuntamiento de | 80px]] | [[エンリケ2世 | エンリケ2世]] | 1334年1月13日 | 1369年–13 | 79年 | 1379年5月29日 | |
[[File:Juan I de Castilla (Ayuntamiento de | 80px]] | [[フアン1世 | フアン1世]] | 1358年8月24日 | 1379年–139 | 0年 | 1390年10月9日 | |
[[File:Enrique III de Castilla (Ayuntamiento de | 80px]] | [[エンリケ3世 | エンリケ3世]] | 1379年10月4日 | 1390年–14 | 06年 | 1406年 | |
[[File:Juan II de Castilla (Ayuntamiento de | 80px]] | [[フアン2世 | フアン2世]] | 1405年3月6日 | 1406年–1454 | 年 | 1454年7月20日 | |
[[File:Enrique IV de Castilla (Ayuntamiento de | 80px]] | [[エンリケ4世 | エンリケ4世]] | 1425年1月5日 | 1454年–147 | 4年 | 1474年12月11日 | |
[[File:Isabel la | 80px]] | [[イサベル1世 | イサベル1世]] | 1451年4月22日 | 1454年–1 | 474年 | 1504年11月28日 | |
80px | フアナ | 1479年11月6日 | 1504年–1555年 | 1555年4月12日 | 1506年に発狂、その 摂政は皆フアナの病気に付け込んだ一族の者であった。 | |||
摂政 | ||||||||
[[File:Juan de Flandes | 80px]] | [[フェリペ1世 | フェリペ1世]] | 1478年7月22日 | 1504年–15 | 06年 | 1506年9月25日 | フアナの夫 |
[[File:Michel Sittow | 80px]] | [[フェルナンド2世 | フェルナンド5世]] | 1452年3月10日 | 1506年–151 | 6年 | 1516年1月23日 | フアナの父 |
1516年、スペイン連合王国は次第にスペインと呼ばれるようになり、カルロス1世 が最初の、スペイン国王である。 | ||||||||
80px | カルロス1世 | 1500年2月24日 | 1516年–1556年 | 1558年9月21日 | フアナの息子で自らの権利で国王となる。 |
ナバーラ王国[編集]
イニゴ家 824年?–905年[編集]
イニゴ家は824年頃にフランク王国の権威に反旗を翻すことでナバラ(パンプローナ)王国の土台を築いた。
名前 | 肖像画 | 誕生 | 結婚 | 死去 | |
---|---|---|---|---|---|
イニゴ・アリスタ 824年?–851/2年 |
[[Image:Íñigo Arista | 100px|Íñigo Arista]] | 4 人の子を儲ける | 851/2年 | |
ガルシア・イニゲス 851/2年–882年 |
イゴニ・アリスタの子 | 5 人の子を儲ける | 882年 | ||
フォルトゥン・ガルセス 882年–905年 |
ガルシア・イネゲスの子 | オリア 5 |
人の子を儲ける | (905年廃位) |
ヒメネス家 905年–1234年[編集]
905年、隣国との連携はフォルトン・ガルゼスを修道院へ隠遁させるのを余儀なくさせ、その後には新王朝ヒメネス朝の子孫が王位についた。新王朝のもとでナバラの名称がパンプローナの名称に取って代わった。
名前 | 肖像画 | 誕生 | 結婚 | 死去 | |||
---|---|---|---|---|---|---|---|
サンチョ・ガルセス1世 905年–925年 |
García Jiménezと[[Dadildis | de Pallars]]の子 | Toda of Navarre 6 人の子を儲ける |
925年12月11日 レサ | |||
ヒメノ・ガルセス 925年–931年 |
García Jiménezと[[Dadildis de | Pallars]]の子 | Sancha of Navarre 3 人の子を儲ける |
931年5月29日 | |||
ガルシア・サンチェス1世 931年–970年 |
919年 サンチョ・ガルセス1世と[[Toda |
of Navarre]]の子 | Andregota Galíndez 2人の子を儲ける Teresa Ramírez of |
León 3 人の子を儲ける |
970年2月22日 51歳没 | ||
サンチョ・ガルセス2世 970年–994年 |
[[Image:Sancho II of | 100px|Sancho II Garcés | Abarca]] | 935年後 ガルシア・サンチェス1世とAndregotaの子 |
[[Urraca | Fernández]] 4 人の子を儲ける |
994年12月 |
ガルシア・サンチェス2世 994年–1000/1004年 |
サンチョ・ガルセス2世と[[Urraca | Fernández]]の子 | Jimena Fernández of Cea 981年 4 |
人の子を儲ける | 1000/1004年 | ||
サンチョ・ガルセス3世 1004年–1035年 |
[[File:Lauda | 100px|Sancho III the | Great]] | 985年 ガルシア・サンチェス2世 とJimena Fernández of Ceaの子 |
[[ | Muniadona Mayor]] 1010年 4 人の子を儲ける |
1035年10月18日 |
ガルシア・サンチェス3世 1035年–1054年 |
1016年 [[サンチョ3世 |
サンチョ・ガルセス3世]]とMuniadona Mayorの子 1038年 9 |
人の子を儲ける | 1054年9月15日 アタプエルカ | |||
サンチョ・ガルセス4世 1054年–1076年 |
1039 ガルシア・サンチェス3世とEstefanía of Barcelonaの子 |
Placencia | 1068年 3 人の子を儲ける |
1076年6月4日 Peñalén |
サンチョ・ガルセス4世が暗殺されるとナバラは従兄弟のカスティーリャ王アルフォンソ6世とアラゴン王サンチョ1世の侵略を受け、後者がナバラ王なり、半世紀の間アラゴン王国の支配下に置かれた。
名前 | 肖像画 | 誕生 | 結婚 | 死去 | ||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|
サンチョ5世ラミレス 1076年–1094年 |
[[Image:Sancho | 100px|Aragon]] | 1042年 [[ラミロ1世 |
ラミロ1世]]とErmesinde of Bigorreの子 | [[Isabel of | Urgel]] 1065年 1人の子を儲ける [[Felicia of |
Roucy]] 1076年 3人の子を儲ける |
1094年6月4日 ウエスカ 52歳没 |
ペドロ1世 1094年–1104年 |
[[Image:Pietro I | 100px|Aragon]] | 1068年 [[サンチョ1世 |
サンチョ5世ラミレス]]とIsabella of Urgelの子 | [[Agnes of | Aquitaine]] 1086年 2人の子を儲ける [[Bertha of |
Aragon]] 1097年 子を儲けず |
1104年9月28日 アラン谷 36歳没 |
アルフォンソ1世 1104年–1134年 |
[[Image:Alifonso I | 100px|Aragon]] | 1073年 [[サンチョ1世 |
サンチョ5世ラミレス]]とFelicia of Roucyの子 | [[Urraca of | Castile]] 1109年 子を儲けず |
1134年9月8日 ウエスカ 61歳没 |
アルフォンソ1世の死はアラゴンを王位継承危機に導き、ナバラ貴族が暗殺されたサンチョ4世の大甥(庶兄弟を介する形となる)を王位につけることで王国の再建独立をするのに有利に働いた。
名前 | 肖像画 | 誕生 | 結婚 | 死去 | ||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|
ガルシア・ラミレス 1134年–1150年 |
[[Image:King of | 100px|García Ramírez the Restorer]] | [[ Ramiro | Sánchez of Monzón]]とCristina Rodríguez Díaz de Vivarの子 | Marguerite | de l'Aigle 1130年 4人の子を儲ける Urraca of Castile 1144年6月24日 2 |
人の子を儲ける | 1150年11月21日 ロルカ |
サンチョ6世 1150–1194 |
[[File:Sello de Sancho el | 100px|]] | 1133年 ガルシア・ラミレス とMarguerite de |
l'Aigleの子 | Sancha of | Castile 1157年 6 人の子を儲ける |
1194年6月27日 パンプローナ | |
[[サンチョ7世 | サンチョ7世]] 1194年–1234年 |
Garcí a Ramírez the Restorer | 1157年 トゥデラ [[サンチョ6世 |
サンチョ6世]]とSancha of Castileの子 | [[Constance of | Toulouse]] 1195年 6人の子を儲ける |
1234年4月7日 トゥデラ |
シャンパーニュ家 1234年–1284年[編集]
シャンパーニュ伯参照
最後のヒメノ朝の君主サンチョ7世の死で、ナバラ王位はその妹ブランシュの子であるシャンパーニュ伯ティボー4世(テオバルド)に移り、ブランシュは長い間摂政を務めた。
名前 | 肖像画 | 誕生 | 結婚 | 死去 | |||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
テオバルド1世 1234年–1253年 |
[[File:Theobald IV. of | 100px|House of | Champagne]] | 1201年5月30日 トロワ ティボー3世と[[Blanche of |
Navarre]]の子 | Gertrude of Dagsburg 1220年 子を儲けず Agnes of |
Beaujeu 1222年 1 人子を儲ける [[Margaret of |
Bourbon]] 1232年 6人子を儲ける |
1253年6月8日 パンプローナ 52歳没 |
テオバルド2世 1253年–1270年 |
[[Image:Royal Coat of | 100px|House of | Champagne]] | 1238年 テオバルド1世と[[Margaret of |
Bourbon]]の子 | [[イザベル・ド・フランス | イザベル]] 1255年4月6日 子を儲けず |
1270年12月4日 トラーパニ 32歳没 | |
エンリケ1世 1270年–1274年 |
[[Image:Royal Coat of | 100px|House of | Champagne]] | 1244年 テオバルド1世と[[Margaret of |
Bourbon]]の子 | ブランシュ・ダルトワ 1269年 2 人子を儲ける |
1274年6月22日 30歳没 | ||
フアナ1世 1274年–1305年 |
[[Image:Jeanne de | 100px|Joan]] | 1271年6月14日 en:Bar-sur-Seine |
エンリケ1世とブランシュ・ダルトワの娘 | [[フィリップ4世 | フィリップ4世]] 1284年8月16日 7人子を儲ける |
1305年4月4日 [[Château de |
Vincennes]] 34歳没 |
カペー家 1284年–1349年[編集]
フランス君主一覧参照
エンリケ1世の急死後、残された娘のフアナが唯一の後継者となり、その母ブランシュ・ダルトワが10年間摂政となった。1284年にフアナがのちのフランス国王フィリップ4世と結婚したことでブランシュの摂政統治は終わり、フィリップ4世は「フランスとナバラの王」を称した。
名前 | 肖像画 | 誕生 | 結婚 | 死去 | |||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
[[フィリップ4世 | フェリペ1世]] 1284年–1305年 |
1268年 フォンテーヌブロー [[フィリップ |
フィリップ3世]]とイザベル・ダラゴンの子 | [[フアナ1世 | フアナ1世]] 1284年8月16日 7人子を儲ける |
1314年11月29日 フォンテーヌブロー< |
Br>46歳没 | ||
ルイス1世 1305年–1316年 |
[[Image:Louis X of | 100px|House of Capet]] | 1289年10月4日 パリ [[フィリップ4世 |
フェリペ1世]]とフアナ1世の子 | [[マルグリット・ド・ブルゴーニュ | マルグリット・ド・ブルゴーニュ]] 1305年9月21日 1人子を儲ける [[クレマンス・ド・オングリー] |
] 1315年8月19日 1 child |
1316年6月5日 ヴァンセンヌ 26歳没 | |
フアン1世 1316 |
[[Image:John I of | 100px|House of Capet]] | 1316年11月15日 パリ [[ルイ10世 |
ルイス1世]]とクレマンス・ド・オングリーの子 | 未婚 | 1316年11月20日 パリ 5 日没 | |||
フェリペ2世 1316–1322 |
1292年 リヨン フェリペ1世と[[フアナ1世 |
フアナ1世]]の子 | ジャンヌ・ド・ブルゴーニュ 1307年 7 |
人の子を儲ける | 1322年1月3日 ロングチャンプ 29歳没 | ||||
カルロス1世 1322–1328 |
[[Image:Charles IV Le | 100px|House of | Capet]] | 1294年6月19日 クレルモン=フェラン [[フィリップ4世 |
フェリペ1世]]と[[フアナ1世 | フアナ1世]]の子 | ブランシュ・ド・ブルゴーニュ 1307年 2人子を儲ける [[マリー・ド・リュ |
クサンブール]] 1322年 4 人子を儲ける |
1328年2月1日 ヴァンセンヌ 34歳没 |
フアナ2世 1328–1349 |
[[Image:Jana2Navarra | 100px|House of | Capet]] | 1312年1月28日 シャラントン=ル=ポン [[ルイ10世 |
ルイス1世]]と[[マルグリット・ド・ブルゴーニュ | マルグリット・ド・ブルゴーニュ]]の子 | フェリペ3世 8 |
人の子を儲ける | 1349年10月6日 シャラントン=ル=ポン 37歳没 |
エヴルー家 1328年–1441年[編集]
名前 | 肖像画 | 誕生 | 結婚 | 死去 | ||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
フェリペ3世 1328年–1343年 |
[[Image:King of Navarre | 100px|House of | Évreux]] | 1306年3月27日 エヴルー伯ルイと[[:en:Margaret of |
Artois]]の子 | フアナ2世 8 |
人子を儲ける | 1343年9月16日 ヘレス・デ・ラ・フロンテーラ 37歳没 | ||
カルロス2世 1349年–1387年 |
[[Image:Charles le | 100px|House of | Évreux]] | 1332年10月10日 エヴルー フェリペ3世と[[フアナ2世 |
フアナ2世]]の子 | [[ジャンヌ・ド・ヴァロワ | ジャンヌ]] 7人子を儲ける |
1387年1月1日 パンプローナ 54歳没 | ||
カルロス3世 1387–1425 |
[[Image:Carlos | 100px|House of Évreux]] | 1361年7月22日 ナント [[カルロス2世 |
カルロス2世]]と[[ジャンヌ・ド・ヴァロワ | ジャンヌ]]の子 | エレオノール 1375年 8人子を儲ける |
1425年9 | 月8日 オリテ 64歳没 | ||
ブランカ1世 1425–1441 |
[[Image:Royal Coat of | 100px|House of | Évreux]] | 1385年 カスティーリャ [[カルロス3世 |
カルロス3世]]とエレオノールの娘 | [[マルティーノ1世 | マルティーノ1世]] 1402年12月26日 1 人子を儲ける [[フアン2世 |
フアン2世]] 1420年6月10日 4人子を儲ける |
1441年4月3日 [[Santa María la |
Real de Nieva]] 56歳没 |
トラスタマラ家 1425年–1479年[編集]
アラゴン君主一覧 も参照 {| width=90% class="wikitable"
! width=8% | 名前
! width=8% | 肖像画
! width=8% | 誕生
! width=8% | 結婚
! width=8% | 死去
|-
|フアン2世
1425年–1479年 (de
|facto)
1425年-1441年 (de jure)||[[Image:Chuan II
|d'Aragón.jpg|100px|John
|II]]||1397年6月29日
メディナ・デル・カンポ
[[フェルナンド1世
|(アラゴン王)|フェルナンド1世]]とレオノール・デ・アルブルケルケの子||[[ブランカ1世
|(ナバラ女王)|ブランカ1世]]
1419年11月6日
4人子を儲ける
フアナ・エンリケス
2
|人子を儲ける
||1479年1月20日
バルセロナ
81歳没
|-
|レオノール
1479||[[Image:Royal Coat of Arms of
|Navarre (1479-1483).svg|100px|Aragon
|Navarre]]||1425年2月2日
オリテ
フアン2世と[[ブランカ1世
|(ナバラ女王)|ブランカ1世]]の子||[[ガストン4世
|(フォワ伯)|フォワ伯ガストン4世]]
11人子を儲ける||1479年2月12日
トゥデラ
54歳没
|-
|}
- フアン2世に対する請求者, 1441年–1464年
フアン2世は妻の没後もナバラ王位を保持したが、子と長女は請求者且つ事実上の 君主であった。
名前 | 肖像画 | 誕生 | 結婚 | 死去 | ||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|
カルロス4世 1441–1461 |
[[Image:Princep carles de | 100px|Charles of | Viana]] | 1421年3月29日 ペニャフィエル フアン2世と[[ブランカ1世 |
ブランカ1世]]の子 | Agnes of Cleves |
子を儲けず | 1461年9月23日 バルセロナ 40歳没 |
ブランカ2世 1461–1464 |
[[Image:Royal Coat of Arms of Navarre | 100px|Aragon Navarre]] | 1424年 オリテ [[フアン2世 |
フアン2世]]とブランカ1世の子 | [[エンリケ4世 | エンリケ4世]] 子を儲けず |
1464年12月2日 en:Orthez 40歳没 |
フォワ家 1479年–1518年[編集]
名前 | 肖像画 | 誕生 | 結婚 | 死去 | ||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|
フランシスコ1世 1479年–1483年 |
[[File:Royal Lesser | 100px|Navarre | Foix]] | 1469年4月18日 ガストン・ド・フォワと[[マドレーヌ・ド・フランス |
マドレーヌ]]の子 | 未婚 | 1483年2月12日 ポー 13歳没 | |
カタリナ 1483–1517 |
[[File:Royal Lesser Coat of | 100px|Navarre Foix]] | 1468年 |
ガストン・ド・フォワと[[マドレーヌ・ド・フランス | マドレーヌ]]の娘 | [[フアン3世 | フアン3世]] 13人子を儲ける |
1517年2月12日 モン=ド=マルサン 49歳没 |
アルブレ家 1518年–1572年[編集]
フアン3世は1512年にフェルナンド2世に敗北したが、この時フェルナンド2世はナバラ南部を征服してナバラ国王として戴冠した。 フェルナンド2世以後はアラゴン君主一覧及びスペイン君主一覧を参考のこと。1512年以降のナバラの君主は単にピレネー山脈以北の低ナバラ(バス・ナヴァール)一帯を支配するに留まった。
名前 | 肖像画 | 誕生 | 結婚 | 死去 | ||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|
フアン3世 1484–1516 |
[[File:Royal Coat of Arms of | 100px|Navarre-Albret]] | 1469年 [[:en:Alain I |
of Albret]] とen:Francoise of Châtillon-Limogesの子 | [[カタリナ | カタリナ]] 13 人子を儲ける |
1516年6月14日 ポー 47歳没 | |
エンリケ2世 1517年–1555年 |
[[Image:Henri | 100px|Navarre-Albret]] | 1503年4月18日 サングエサ [[フアン3世 |
フアン3世]]と[[カタリナ | カタリナ]]の子 | マルグリット 1526年 2人子を儲ける |
1555年5月 | 25日 Hagetmau 52歳没 |
フアナ3世 1555年–1572年 |
[[Image:Jeanne | 100px|Joan III]] | 1528年1月7日 サン=ジェルマン=アン=レー |
エンリケ2世とマルグリットの娘 | [[アントワーヌ | アントニオ]] 1548年10月20日 5 |
人子を儲ける | 1572年6月9日 パリ 44歳没 |
カペー家 1572年–1620年[編集]
ブルボン家 1572年–1620年[編集]
名前 | 肖像画 | 誕生 | 結婚 | 死去 | ||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
[[アントワーヌ | アントニオ]] 1555年-1562年 |
100 King Anthony | 1518年4月22日 en:La Fère, |
ピカルディ [[シャルル・ド・ブルボン |
ヴァンドーム公シャルル・ド・ブルボン]]のフランソワーズ・ダランソン子 | フアナ3世< | br>1548年10月20日 5 人子を儲ける |
1562年11月17日 レ=ザンドリ, |
ウール 44歳没 | |
エンリケ3世 1572年–1610年 |
[[Image:Henry IV of | france by pourbous | 100px|Navarre-Albret]] | 1553年12月13日 ポー [[アントワーヌ |
アントニオ]]とフアナ3世の子 | (1) | マルグリット・ド・ヴァロワ 1572年8月18日 後継者を儲けず (2) |
マリー・ド・メディシス 1600年12月17日 6 |
人子を儲ける | 1610年3月14日 パリ 57歳没 |
ルイス2世 1610年–1620年 |
[[Image:Louis XIIIval | 100px|Louis II]] | 1601年9月27日 フォンテーヌブロー宮殿 [[アンリ4世 |
エンリケ3世]]とマリー・ド・メディシスの子 | アンヌ・ドートリッシュ 1615年11月24日 6 |
人子を儲ける | 1643年5月14日 パリ 41歳没 |
ナバラ国王エンリケ3世がフランス国王アンリ4世になったことで以後は、ナバラ王位はフランス国王の手に渡った。 1620年にナバラ王国はフランスに併合されたが、フランス国王は1791年までナバラ国王 の称号を用い続け、1814年から1830年までの復古王政期間中に復活した。
カルリスタのスペイン王位請求者はカルリスタ戦争中にスパイン・ナバラで勢力を誇ったが、その一派の請求は普通はスペイン全土の王号であった。
現在の請求者[編集]
- アリシア・デ・ボルボーン=パルマ - スペイン王女。自身の子の公式ホームページにおいて、伝統的な親族間の男系優先の長子相続に基づく現在のナバラ王位の請求者であることが言及されている。
- アンジュー公ルイス・アルフォンソ - ブラン・デスパーニュ(Blancs d'Espagne)と呼ばれる現在のフランス及びナバラ王位請求者。ルイ13世以降のナバラ王位のフランス王位への統合にともなう、サリカ法による相続に基づく。
- スペイン国王フアン・カルロス1世 - アラゴン国王フェルナンド2世による相続と征服の結果獲得された数多くの称号の一つして、ナバラ国王の称号を用いている。
カスティーリャ王国[編集]
ヒメノ家[編集]
君主 | 肖像画 | 綽名 | 統治の開始 | 統治の終了 | 備考 |
---|---|---|---|---|---|
フェルナンド1世 | 80px | 大王 | 1037年 | 1065年12月27日 | レオン国王を兼ねる |
サンチョ2世 | 80px | 強王 | 1065年12月27日 | 1072年10月6日 | |
アルフォンソ6世 | 80px | 勇敢王 | 1072年10月6日 | 1109年6月30日 | レオン国王を兼ねる |
ウラカ | 80px | 1109年6月30日 | 1126年3月8日 | レオン女王を兼ねる |
ボルゴーニャ(ブルゴーニュ)家[編集]
以下の王朝はウラカの最初の夫ガリシア伯ライムンドの男系子孫である。
君主 | 肖像画 | 綽名 | 統治の開始 | 統治の終了 | 備考 |
---|---|---|---|---|---|
アルフォンソ7世 | 80px | 皇帝 | 1126年3月10日 | 1157年8月21日 | レオン国王を兼ねる |
サンチョ3世 | 80px | 強欲王 | 1157年8月21日 | 1158年8月31日 | |
アルフォンソ8世 | 80px | 高貴王 | 1158年8月31日 | 1214年10月6日 | |
エンリケ1世 | 80px | 1214年10月6日 | 1217年6月7日 | ||
ベレンゲラ | 80px | 女帝 | 1217年6月6日 | 1217年8月30日 | 最愛の息子であるフェルナンド3世に譲位する; 1246年死去 |
フェルナンド3世 | 80px | 聖王 | 1217年8月30日 | 1252年5月30日 | 1230年以降はレオン国王を兼ね、以後の王は皆レオン王位を兼位する。 |
アルフォンソ10世 | 80px | 賢王 | 1252年5月30日 | 1284年4月4日 | 1257年にローマ王に選出され、1275年に放棄するまでこの称号を請求した。 |
サンチョ4世 | 80px | 勇敢王 | 1284年4月4日 | 1295年4月25日 | |
フェルナンド4世 | 80px | 召集王 | 1295年4月25日 | 1312年9月7日 | |
アルフォンソ11世 | 80px | 正義王 | 1312年9月7日 | 1350年3月26日 | |
ペドロ1世 | 80px | 残酷王 | 1350年3月26日 | 1369年3月23日 |
カスティーリャ及びレオン王位の請求者[編集]
ランカスター公ジョン・オブ・ゴーントはペドロ1世の娘であるコンスタンスとの結婚を利用してカスティーリャ及びレオンの王号を請求した。ランカスター公は王号を確固とするためロンドンから遠征を強行するなどして幾つかの軍事的行動を起こしたが、成功することはなかった。
トラスタマラ家[編集]
アルフォンソ11世の庶子であるエンリケ2世に始まり、トラスタマラ公を創立する。
君主 | 肖像画 | 綽名 | 統治の開始 | 統治の終了 | 備考 |
---|---|---|---|---|---|
エンリケ2世 | 80px | 庶子王 | 1369年3月23日 | 1379年5月29日 | 1366年から王位を請求 |
フアン1世 | 80px | 1379年5月29日 | 1390年10月9日 | ||
エンリケ3世 | 80px | 病弱王 | 1390年10月9日 | 1406年12月25日 | |
フアン2世 | 80px | 1406年12月25日 | 1454年7月21日 | ||
エンリケ4世 | 80px | 無能王 | 1454年7月21日 | 1474年12月11日 | |
イサベル1世 | 80px | カトリック女王 | 1474年12月11日 | 1504年11月26日 | 夫のアラゴン国王 フェルナンド2世と共同統治 |
フェルナンド5世 | 80px | カトリック王 | 1475年1月15日 | 1504年11月26日 | en:jure uxoris 王、妻のイサベル1世と共同統治 |
フアナ | 80px | 狂女王 | 1504年11月26日 | 1555年4月12日 | 名目上時は夫のフェリペ1世が代行(1504年–1506年)。 幽閉時はフランシスコ・ヒメネス・デ・シスネロスが摂政として代行 (1506年–1516年)。 幽閉時は息子のカルロス1世が代行 (1516年–1555年)。 |
ハプスブルク家[編集]
君主 | 肖像画 | 綽名 | 統治の開始 | 統治の終了 | 備考 | |
---|---|---|---|---|---|---|
フェリペ1世 | [[File:1500 Meester van de Magdalena legende - Filips de Schone, | 80px]] | 美王 | 1506年7月12日 | 1506年9月25日 | en:jure uxoris 王として妻のフアナの半分を統治。 |
カルロス1世 | 80px | 1516年5月13日 | 1556年1月16日 | 母のフアナが幽閉された1555年から共同統治、 1556年に最愛の息子に譲位、1558年9月21日に死去。 |
以後の君主はスペイン君主一覧を参考のこと。最初にスペイン国王の称号を用いたのはカルロス1世(自身はカスティーリャ、アラゴン以下その他スペインの領邦の王であった)の息子であるフェリペ2世である。それにも係わらず、カスティーリャ王国はスペイン連合王国内部で独自の権利を有し、それはスペイン継承戦争後のボルボーン朝まで続いた。
アラゴン王国[編集]
アラゴン君主一覧参照
カスティーリャ=アラゴン連合王国[編集]
- イサベル1世(カスティーリャ女王:1474年 - 1504年)
- フェルナンド2世(カスティーリャ王(フェルナンド5世):1474年 - 1504年、カスティーリャ摂政:1504年 - 1516年、アラゴン王:1479年 - 1516年)
- フアナ(カスティーリャ女王:1504年 - 1506年) 正式には1504年 - 1555年。1516年以降、カルロス1世が王を代行する。
- フェリペ1世(カスティーリャ王:1504年 - 1506年) - スペイン貴族の承認を得られず詐称した。
スペイン[編集]
- カルロス1世(1516年 - 1556年) (兼神聖ローマ皇帝カール5世、1519年 - 1556年)
- フェリペ2世(1556年 - 1598年) (兼ポルトガル王フィリペ1世、1581年 - 1598年)
- フェリペ3世(1598年 - 1621年) (兼ポルトガル王フィリペ2世、1598年 - 1621年)
- フェリペ4世(1621年 - 1665年) (兼ポルトガル王フィリペ3世、1621年 - 1640年)
- カルロス2世(1665年 - 1700年)
カルロス2世の死去に伴い断絶したアブスブルゴ(ハプスブルク)家に代わってボルボン(ブルボン)家のアンジュー公フィリップが祖父のルイ14世の後押しによって国王として即位、フェリペ5世と名乗った。これはスペイン継承戦争を引き起こしたが、王位が承認されてからは幾度もの中断期を挟みながらも現在に至る。
- フェリペ5世(1700年 - 1724年、1724年 - 1746年)
- ルイス1世(1724年)
- フェルナンド6世(1746年 - 1759年)
- カルロス3世(1759年 - 1788年)
- カルロス4世(1788年 - 1808年)
- フェルナンド7世(1808年)
- ボルボン朝〔第1次復古〕
- アマデオ1世(1871年 - 1873年)
- エスタニスラオ・フィゲラス(大統領)(1873年)
- ピ・イ・マルガル(大統領)(1873年)
- ニコラース・サルメローン(大統領)(1873年)
- エミリオ・カステラル(大統領)(1873年 - 1874年)
- ボルボン朝〔第2次復古〕
- アルカラ・サモーラ(大統領)(1931年 - 1936年)
- マヌエル・アサーニャ(大統領)(1936年 - 1939年)
- 共和国崩壊後
- フランシスコ・フランコ(総統)(1939年 - 1975年)
- 1947年、スペイン国は国王空位のまま王国とされ、フランコを終身摂政とした。
- ボルボン朝〔第3次復古〕
- フアン・カルロス1世(現国王)(1975年 - )
スペイン国王が退位、後継はフェリペ皇太子に(2014年)[編集]
レオノール王女の祖父であるスペイン国王フアン・カルロス1世(King Juan Carlos、76)が退位を決めた今、彼女の生活はこれまでと同じという訳にはいかないだろう。
父のフェリペ皇太子(Prince Felipe、46)が王位に就けば、彼女はもうただの王女ではなくなる。王位継承権のある王女、欧州の王室で最も若い王位継承者になるのだ。
彼女の青い瞳とブロンドの髪、顔いっぱいの笑顔は、まさにスペイン王室のイメージ回復に必要な魅力だと、王室ウオッチャーたちは口をそろえる。
「これまで彼女の両親は意図的に彼女を守り、新聞などに掲載されないようにしてきた。しかしそのような日々ももう終わる」と、皇太子の伝記を執筆するホセ・アペサレナ(Jose Apezarena)氏は言う。「彼女には少し気の毒に思う。そのような変化が彼女の自由をいくらか奪ってしまうことになるのだから」
フェリペ皇太子とレティシア皇太子妃(Princess Letizia)は、2005年10月31日にレオノール王女が誕生して以来、メディアからセレブ的な扱いを受けている。元ニュースキャスターだったレティシア皇太子妃自ら、新聞の一面を何度となく飾ってきた。
長身の皇太子に華やかな皇太子妃、レオノール王女と妹のソフィア王女(Princess Sofia、7)のかわいい姉妹──世界一キュートなロイヤルファミリーなのかもしれない。
皇太子夫妻は娘たちにできるだけ普通の子供時代を過ごさせようと、できるだけ世間の目から遠ざけてきた。その甲斐あって、マスコミが姉妹の写真を撮る機会はこれまで限られていた。
「レオノール(王女)はとても賢い子供だ。活動的だが落ち着いてもいる。カメラにはとても穏やかな目を向ける」と、アペサレナ氏は言う。
フェリペ皇太子が国王になれば、レティシア王女は女王に、レオノール王女にはアストゥリアス王女の称号が与えられる。今後、レオノール王女は王位継承者として父親と同様に準備を進めることになる。将来は軍での訓練も受け、18歳で国王とスペイン憲法に忠誠を誓わなければならない。
宮殿の中にいるレオノール王女には、王政に反対する外の声はほとんど聞こえないかもしれない。フェリペ皇太子の戴冠は6月19日になる見込みだが、新国王はその瞬間から、これまでの王室での腐敗とスキャンダル、そしてスペインの不況に辟易とした国民からの支持を得るべく動かなければならない。そのためには、新しい後継者であるレオノール王女が大きな味方になるだろう。
アペサレナ氏は、「公の場に姿を見せるたびにレオノール王女とソフィア王女は人々から暖かく迎えられている。とてもかわいく、健やかに成長している少女たちだ」と述べ、「今後、こういったイメージをより多く目にするようになるだろう。彼女たちへの愛情は、新国王にとっても役立つはずだ」と続けた。