クロード・レヴィ=ストロース
クロード・ギュスタヴ・レヴィ=ストロース(Claude Gustave Lévi-Strauss, 1908年11月28日 - )はフランスの文化人類学者、思想家である。コレージュ・ド・フランスの社会人類学講座を1984年まで担当し、アメリカ先住民の神話研究を中心に研究を行った。アカデミー・フランセーズ会員。専門分野である人類学、神話学における評価もさることながら、一般的な意味における構造主義の祖とされ、彼の影響を受けた人類学以外の一連の研究者たち、ジャック・ラカン、ミシェル・フーコー、ロラン・バルト、ルイ・アルチュセールらとともに、1960年代から1980年代にかけて、現代思想としての構造主義を担った中心人物のひとりとしてよく知られている。
主な経歴[編集]
生い立ちから学生時代まで 1908-1929[編集]
1908年に両親が一時的に滞在していたベルギーのブリュッセルにて生まれる。両親ともアルザス出身のユダヤ人の家系であり、また両親はイトコ同士であった。父親の職業は画家であり、その交友関係は芸術を通じてのものが多く、幼少期から、芸術に親しみやすい環境で育った。少年期には、ピカソやストラヴィンスキー、ワーグナーなどを同時代的に摂取しただけでなく、ジャポニスム期、印象派の時代からフランスへさかんに紹介されていた浮世絵を初めとする日本の文物にも触れており、この日本の美術工芸への関心は現在まで持続している。両親の友人らを通じて、比較的早くからマルクス主義にふれる機会があり、高校から大学時代にかけては、社会主義運動に参加して学生組織の書記長を務め、ベルギー社会党の協同組合運動をフランスに紹介するなどの活動を行ったほか、社会党代議士ジョルジュ・モネの秘書として法案作成に携わるなど、積極的な政治活動を行っていたという。パリ大学で法学の学士号を取得するかたわら、哲学を学び、アグレガシオン(哲学教授資格試験)に合格する。合格後の教育実習の同期生たち、モーリス・メルロー=ポンティ、シモーヌ・ド・ボーヴォワールなどがおり錚々たる顔ぶれであった。教授資格取得後、2つのリセ(フランスにおける中等教育機関、日本の中学校相当)で哲学教師を経験する。資格取得試験のために中断していた政治活動を再開し、教師生活の傍ら赴任地の地方議会への立候補を企てるなどの活動を行うも、哲学教師としての生活にあきたらず、パリ大学での指導教授のひとりであった社会学者セレスタン・ブーグレから、新設のブラジル、サンパウロ大学の社会学教授としての赴任の打診を受けたことをきっかけに、当時興味をもち始めていた民族学のフィールドワークへの期待を抱いて(本人は民族学への転進にはアメリカの文化人類学者ロバート・ローウィの著作『未開社会』を読んだことが大きな契機だったと語っている)、社会学の教授としてブラジルへと渡る(このときのフランスからの派遣教授陣のなかには、後に大著『地中海』で有名になるアナール学派の歴史家、フェルナン・ブローデルもいた)。
ブラジルでの教師生活 1930-1939[編集]
ブラジルでは、大学教授として、1932年の護憲革命後の新たな社会の担い手を自認する新興ブルジョワ層の学生たちを相手に社会学を講じるかたわら、妻ディナとともにサンパウロ州の郊外を中心に民族学のフィールドワークに取り組んだ。この1人目の妻とは、ブラジルを離れる頃には離婚していたようであるが、ブラジルでの大小さまざまなフィールドワークは共同で行っていたらしく、例えば、彼らが撮影したボロロ族の民族誌フィルムには2人の名前がクレジットされている。2年間の大学教授生活の間は、主として大学の休暇を利用して現地調査を行い、長期休暇の際には、パラグアイとの国境地帯に居住していたカデュヴェオ族や、ブラジル内陸のマトグロッソ地方に居住していたボロロ族のもとでの現地調査を行った。これらの調査結果は、フランスへの一時帰国の際に、マルセル・モースらの後援のもとで、パリの人類博物館などで発表された。その後、大学からの任期延長を断り1936年からほぼ一年間を、ブラジルの内陸部を横断する長期調査に費やす。この調査の途上で、ナムビクワラ族やトゥピ=カワイブ族など、アマゾン川の支流に暮らすいくつかの民族と接触している。ブラジルへと渡るまでの経緯や、ブラジルでの現地調査などのさまざまな体験、さらに後述の亡命を経て第二次大戦後フランスに帰国する頃までの体験のいくつかが、著書『悲しき熱帯』(1955年)のなかで印象的に回想されている。
ニューヨークにおける亡命生活 1940-1949[編集]
ブラジルでの長期横断調査の後、第二次世界大戦前夜にフランスに帰国して応召、西部戦線に従軍する。フランスの敗戦によりすぐさま兵役解除となり、いったん南仏に避難するも、ナチスによるユダヤ人迫害が迫るのを逃れて、マルセイユから船でアメリカ合衆国へと亡命する。同じ船上には、シュルレアリスト詩人のアンドレ・ブルトンもいた。亡命先のニューヨークでは、ブルトンを初め、当時ニューヨークに集っていたシュルレアリストたち(他にはマックス・エルンスト、イヴ・タンギーら)と親しく交際し、彼らと連れ立って、アメリカ先住民の美術工芸品の収集を熱心に行っていたという。社会人大学である、ニュースクール・フォー・ソーシャル・リサーチにて文化人類学を講じる。当時のニューヨークにはまたヨーロッパからのユダヤ系をはじめとする亡命知識人たちがおり、ニュースクールには彼らが教師として多数名を連ねていた(ドイツからフランスを経て亡命してきたハンナ・アレントもそのひとりである)。この大学において同じく合衆国へと亡命してきていた言語学者・民俗学者のロマン・ヤコブソンと知り合う。二人はお互いの講義を聴講しあい、レヴィ=ストロースは彼から、彼自身が主導してきた構造言語学の方法論、とりわけ音韻論(音素およびその二項対立的な組成、さらにゼロ音素の概念など)の発想を学び、ブラジルでのフィールドワークにおいて漠然とした着想を得ていた、親族構造論の骨格として活用することを思いつく(「南米のインディオにおける戦争と交易」という南米を主題にした親族交換論が1942年に発表されていることからしても、この時期に音韻論がレヴィ=ストロースに与えた影響の内実についてはさらなる検討が必要である)。こうしてまず手始めに、1945年の論文『言語学と人類学における構造分析』において、音韻論的な二項対立を活用して親族組織を分類するための基礎的な方法論がテストされた後、第二次大戦の終結後も合衆国にとどまり、およそ2年間の執筆期間をかけて、デュルケム学派の親族論の批判的継承やモースの贈与論の着想の活用をはじめ、従来の人類学・社会学の近親相姦および親族関係の主題を網羅したうえで、女性の交換を親族構造の根本的機能であることを提起した序論および第1部と理論部と、それに続いて、ニューヨーク市立図書館に通いつめての所蔵文献資料の検討の結果である、オーストラリアから北東・東南アジア・古代中国・インドの親族構造を題材にそうした交換様態の存在を例証した第2部・第3部からなる大著『親族の基本構造』を、博士論文として完成させた。
『親族の基本構造』の発表から社会人類学講座の創設 1950-1959[編集]
1948年頃に完成した『親族の基本構造』を携えて、フランスへと帰国する。1949年に『親族の基本構造』は論文審査を通過し、フランスにおいて公刊される。神話学者ジョルジュ・デュメジルの紹介により、高等研究実習院に職を得て、未開社会における宗教をめぐるセミネールを、この後、コレージュ・ド・フランスへの社会人類学講座創設にともなってのこのセミネールが発展的に解消されるまで担当する(講座新設後も数年間はコレージュの講義と並行して、高等研究実習院でも彼の講義が行われており、サルトルの『弁証法的理性批判』の講読はこの講座で行われている)。この間、マルセル・モースの著作集『社会学と人類学』の編集にたずさわり、「浮遊するシニフィアン」の概念などを提起しつつ、モースを彼自身の構造人類学の先駆者として再読する長大な序文を執筆するなど、自身の方法論である構造人類学をいわばフランス社会学派の相続者のひとつとして認知させる方向で研究をすすめていく。1951年、1952年の2度にわたってコレージュ教授選へと立候補するも、学閥間の争いの結果として落選する。1958年の再々度の立候補までの間、みずからの方法論を冠した初めての論文集『構造人類学』(1958年)に所収される民族学・文化人類学関連の諸論文を執筆し研究活動を続けるかたわら、ユネスコの反人種主義キャンペーンのための小冊子『人種と歴史』(1952年)を執筆したほか(同キャンペーンに際してミシェル・レリスも『人種と文明』という小冊子を執筆している)、メルロ=ポンティとサルトルが共同で編集していた論壇誌『タン・モデルヌ(現代)』誌でも「火あぶりにされるサンタクロース」をはじめとして幅広い論考を世に問うており、さらには1955年の自叙伝的色彩をもった民族誌風の著作『悲しき熱帯』の刊行によりセンセーショナルな評価を獲得する。『基本構造』によって学会内部で著名であった彼の名前は、一気に世間に知れ渡ることになった。3度目の立候補で、親友の哲学者であるメルロ=ポンティの尽力をはじめ(『野生の思考』はこの選出後しばらくして急逝した、彼の記憶に捧げられている)、デュメジルやバンヴェニストらの後押しもあって、1959年からコレージュ・ド・フランスの教授に選出される。この選出により彼が担当することになる講座は、新設の社会人類学講座であり、コレージュ・ド・フランスに文化人類学系の講座が設けられたのはこれが最初であった。またこの社会人類学講座の創設と前後して、人類学のための学術雑誌『L'Homme(人間)』が、彼の呼びかけのもと、言語学者バンヴェニストや先史学者ルロワ=グーラン、さらに地理学者のピエール・グルーらを編集同人に加えて発刊される。それまではフランスに存在しなかった、大英帝国の『王立人類学協会雑誌』、『マン』誌、アメリカ合衆国人類学会の学会誌『アメリカン・アンスロポロジスト』のような人類学専門誌の創刊により、前述の社会人類学講座と合わせて、フランスにおける人類学研究の拠点のひとつの軸が形成され、彼も自身の研究を勧めるとともに、この研究グループに指導的立場として関わっていくことになる。
『今日のトーテミスム』および『野生の思考』から『神話論理』へ 1960-1969[編集]
コレージュ教授への就任と前後して、レヴィ=ストロースの研究活動の中心は、拠点としてはコレージュにおける毎年度の講義に、主題としては高等研究実習院のセミネール担当以来取り組んできた、未開社会の宗教研究とりわけ未開社会の神話の研究へと移った。パリの人類博物館や高等研究実習院の人類学関連部門と連携しつつセミネールを運営しながら研究活動を行っていった。これ以降、1984年のコレージュ退職までに刊行された著作はすべて(および、1969年度講義をもとにして1992年に刊行された『大山猫の物語』)、まず講義において着想が練られ、聴講者との議論を経たのちに、著作として刊行されたものである。1962年には、前年度の講義「今日のトーテミスムおよび野生の思考」を下敷きにして、トーテミズムという人類学上の概念を批判的に検討し、従来の用法を徹底的に解体しつくした『今日のトーテミスム』、ならびに、その解体作業を踏まえて未開的分類論がもつある種の合理性を説得的に取り出し、『人種と歴史』において挑発的に提出した「冷たい社会」と「熱い社会」という理念的対比を念頭において、冷たい社会における社会像の産出とその秩序維持のメカニズムを現代社会にも残存する諸要素と通底させるかたちで例証してみせた『野生の思考』が発表された。
思想的特色[編集]
彼の人類学におけるデータ分析の方法論において中心をなすのは、言語学とりわけ、ソシュールからヤコブソンへといたる構造言語学における音韻論および、フランス社会学年報派、とりわけデュルケムの流れを汲む社会学者マルセル・モースの社会学=人類学思想の2つであるといえる。ただし、さまざまな著作の随所でそのつど述べられているように、さらには青年期に親しんだマルクス主義や、地質学への興味に見られる博物学的関心(こうした性向から、ときにゲーテの自然学への親近感を表明することもある)に加えて、芸術家の出入りが多い環境で育ったこともあり、音楽におけるワーグナーやストラビンスキー、絵画におけるシュルレアリズムやキュビズムなど、同時代のアヴァンギャルド芸術思潮からの影響も多分に受けており、こうした多方面的な知識が、彼の著作を単なる人類学における論文や著書とは一線を画したものにしているといってよい。
親族構造の分析-『親族の基本構造』から『親族の複合構造』へ[編集]
未開社会の婚姻規則の体系、無文字社会を贈与の問題や、記号学的立場から分析した。オーストラリア先住民(アボリジニ)と東南アジア・古代中国・インド・北東アジアの婚姻規則の体系を構造言語学のインスピレーションをもとにして統一的観点からの分析し、博士論文となった1949年の『親族の基本構造』において自らの基本的立場を明らかにした。 この分析に群論を使って数学的見地から裏づけを与えたのは、ブルバキグループの一員であったアンドレ・ヴェイユ(シモーヌ・ヴェイユの兄)である。
未開分類論およびトーテミズム論の批判的解体-「野生の思考」という問題提起[編集]
『神話論理』について[編集]
関わった論争[編集]
「寝そべったディオゲネス」-ロジェ・カイヨワとの論争[編集]
1952年にユネスコの反人種主義キャンペーンに際して、依頼され執筆した小冊子『人種と歴史』の論旨に対して、批評家の
『弁証法的理性批判』をめぐって-サルトルとの論争[編集]
その後、しだいに親族関係の研究から神話の研究へと研究の前景が移っていく。1962年の『野生の思考』の最終章「歴史と弁証法」においてサルトルの実存主義を強烈に批判した。このことから、実存主義に対立しそれを乗り越えるものとして構造主義の思潮がときには過剰なまでにもてはやされる契機となった。本人はその後も、センセーショナルな流行からはつねに距離をとり、10年もの歳月をかけて、ライフワークとなった4巻に及ぶ『神話論理』(『生のものと火にかけたもの』、『蜜から灰へ』、『テーブルマナーの起源』、『裸の人』)を完成させ、神話研究において不滅の業績を残した。彼の問題意識はサルトルの実存主義という主体偏重を批判し、西洋社会における、西洋中心主義に対する批判的意識から出発している。前者に対しては、主体ではなく、主体間の構造こそが重要だと主張し(主体が使う言語は共同体社会によって生み出された構造主義的なものなので、絶対的な主体ではありえない)、後者に対しては、どのような民族においてもその民族独自の構造を持つもので、西洋側の構造でその他の構造に対して優劣をつけることなど無意味だと主張した。
ポスト構造主義との関係[編集]
デリダによる批判[編集]
橋爪大三郎の分析によると、
- ジャック・デリダは従来のパロール(話し言葉)中心の言語分析(ロゴス中心主義、音声中心主義と称される)に反対し、エクリチュール(文字)を重視せよと主張していた。
- そのデリダから見ると、レヴィ=ストロースは音韻論を人類学に持ち込み、なおかつ社会が出来てから文字が出来るという後成説を採っているので、デリダの批判するロゴス中心主義者と写る。
そのためデリダはレヴィ=ストロースを批判したとされる。
しかし同じく橋爪大三郎の指摘によれば、レヴィ=ストロースの主張とデリダの批判の間には噛み合ってない部分が多く、またレヴィ=ストロースの専門(人類学)とデリダの専門(言語分析)は必ずしも矛盾しないとしされ、すなわちデリダによる批判にはやや的外れな点が含まれるとされる。
リオタールによる批判[編集]
エピソード[編集]
- 名前がリーヴァイ・ストラウス(Levi-Strauss)と紛らわしいため、時にジーンズ屋(リーバイス)と間違えられたという逸話があるが、実際にリーバイスの創業者とは遠縁に当たる。この点に関しては、合衆国に出張した際、カリフォルニアのレストランで名前を告げると「pants or anthropology?」と尋ねられたという逸話も伝わっているが、事実は定かでない。
- 1955年に『悲しき熱帯』を刊行し、センセーショナルに受容された際、ゴンクール賞を選定するアカデミー・ゴンクールから、小説でないために『悲しき熱帯』を受賞作にできないのは非常に残念だという旨のコミュニケが発表された。また、アカデミー・フランセーズ選出者は賞を返上するという慣行があるらしく、かりにレヴィ=ストロースが受賞していた場合、この慣行が行われていた可能性がある。
研究機関などでレヴィ=ストロースの指導を受けた研究者たち[編集]
主要著作[編集]
他の「構造主義者」とことなり、レヴィ・ストロースの文章はその明晰さから高い評価を受けている。難解な言い回しを用いたりはせず、また彼の構造主義という発想の基点の一つである数学的知識に関しても誤った理解をすることなく受け入れたことで、後にフランス現代思想界を揺るがすソーカル事件における思想家批判の外に置かれることとなった。
- Les structures élémentaires de la parenté, (1949)
- Tristes tropiques (1955)
- Anthropologie structurale (1958)
- 『構造人類学』 みすず書房
- La pensée sauvage (1962)
- 『野生の思考』 みすず書房
- Les mythologiques (1964 - 71)
- 『神話論理』 みすず書房
- Le regard éloigné (1983)
- 『はるかなる視線』 みすず書房
- La potière jalouse (1985)
- 『やきもち焼きの土器作り』 みすず書房
- De près et de loin (1988)
- 『遠近の回想』(ディディエ・エリボンとの共著) みすず書房
- Saudades do Brasil (1994)
- 『ブラジルへの郷愁』 みすず書房
関連項目[編集]
Video[編集]
- Documentaire 52': About "Tristes Tropiques" 1991 - Film Super 16