ウィリアム・ブランド・シンプソン

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ウィリアム・ブランド・シンプソン(William Brand Simpson、1919年-1995年)は、アメリカ経済学者統計学者第2次世界大戦中に米陸軍のCIC(対敵諜報部隊)の特別捜査官としてフィリピン日本で秘密警察・諜報機関の解体・摘発や政治犯の釈放、占領軍に反対する政治団体・個人の調査などの活動に従事。日本では秋田県を担当し、花岡事件の戦犯訴追のための報告書(シンプソン報告書)を作成したことで知られる。

生い立ち[編集]

1919年、オレゴン州ポートランド生まれ[1]

1942年、同州のリード・カレッジ(Reed College)数学科を卒業[1]。在学中に全米の成績優秀な大学生のクラブ・ファイ・ベータ・カッパ(Phi Beta Kappa)の会員に選ばれ、また米国防省調停局や米国土庁のコンサルタントとして働く[1]

大学卒業後、コロンビア大学大学院に進み、経済学数理統計学で修士号取得[1]

従軍[編集]

訓練[編集]

大学院在学中に軍隊に志願[1]。1943年7月にニューヨーク州のキャンプ・アプトン(Camp Upton)からミシガン州のフォート・カスター(Fort Custer)に移動し、数ヶ月間集中的な訓練を受ける[2]

ミズーリ州のキャンプ・クラウダー(Camp Crowder)にあったドイツ兵の捕虜収容所で尋問を担当した後、フォート・カスターに戻って2ヶ月間待機し、その後、北カリフォルニアのキャンプ・ビール(Camp Beale)に移動した[3]

1944年10月にサンフランシスコから攻撃輸送船ラ・ポート(La Porte)号に乗船し、同年11月にニューギニアのブナ(Buna)付近に上陸[4]。同地でアメリカ合衆国極東陸軍(USAFFE)のCIC(対敵諜報部隊)の面接を受ける[5]

対敵諜報部隊入り[編集]

シンプソンはCICに入隊することになり、1944年12月20日にドバドゥラ(Dobodura)から飛行機でホーランジアジャヤプラ)に移動[6]

同地のCICの訓練所で約1ヵ月対敵諜報活動の訓練を受けた後、マニラ作戦への参加を志願してマニラ担当のCICチームの特別捜査官となる[7]

1945年1月26日に同チームはホーランジアを出発し、レイテ島タクロバンを経由して、ルソン島リンガエン(Lingayen)に到着、米軍がマニラに進軍する中、ダグパン(Dagupan)からトラックでタルラク(Tarlac)、サンフェルナンド(San Fernando)を経由して南へ進み、CICが拠点としたマニラのビリビッド刑務所(Bilibid Prison)に入った[8]

マニラでの任務[編集]

1945年2月上旬から5月にかけて、マニラで、米軍の捕虜・協力者の釈放と、日本軍の兵士・諜報員・協力者の逮捕や捜査・尋問に従事[9]

1945年5月から8月にかけて、CIC部隊の分遣隊で銀行・経済部の管理者として、マニラの銀行や敵国財産管理局、フィリピン銀行局の関係者やフィリピン政府のブレインとなっていた金融の専門家との連絡を担当し、日本軍やその協力者の資産を凍結し、資金供給を断つ活動に従事した[13]

  • 1945年5月から、実業家のアイザック・アンピルの事件の調査を行い、同年8月7日付の報告書で対日協力者としてアンピルを告発[14]
  • アンピルの事件と関連して、フィリピン国立銀行の副頭取だったロマン・マンバタを対日協力者として告発した[15]

1945年8月2日に、同年11月に予定されていた九州上陸作戦への参加希望者の募集に応じ、日本行きを志願[16]原爆の投下、ソ連の参戦などの情勢の変化を受けて、同年8月12日にCIC分遣隊の一員として第11空挺師団とともに東京へ上陸するため、マニラを出発[17]

同日、沖縄に到着。このときCIC分遣隊のうちの1機が着陸に失敗して乗員が全員死亡し、また同月14日に日本が降伏するとの情報が伝わったため、降伏文書への調印まで沖縄で待機。[18]

秋田県担当の特別捜査官[編集]

降伏文書調印の数日前にあたる1945年8月30日に、嘉手納から厚木に移動し、横浜に設置された師団の戦闘司令所(根岸競馬場にあった、もとロイヤル・ダッチ・シェルの社員が使っていた洋館)に入る[19]

  • 同年9月5日頃、無許可で隊を数日間離れていたオグデン・リード(Ogden Reid)を尾行調査[20]

第11空挺師団が東北地方の占領を担当し司令部が仙台に置かれることになったため、同年9月15日に汽車で横浜を出発し翌16日に仙台に到着、松島松島ホテルに入る[21]。同月20日に松島ホテルが火災で焼失したため、仙台の旧陸軍兵器廠を師団司令所とすることになり、同地へ移動[22]

同月13日に秋田県を管轄することになった第11空挺砲兵師団の一員として秋田に配属されることになり、山形新庄酒田金浦を経由して同月15日に秋田に到着[23]。同月末までに戦時中の人種、国籍、信条、政治思想などを統制していた法令を撤廃し統制組織を廃止すること、政治犯を釈放することを目的とし、政治犯の釈放や、占領に抵抗する団体の調査、日本の諜報組織の摘発、特高警察の解体などの活動を行なった[24]

同年10月末、米軍の秋田県軍政部からの要請で、花岡事件の調査を担当することになり、戦犯訴追のため、「中山寮」や事件関係者への聞き取りを行い、同年12月21日付で報告書を作成した(シンプソン報告書[25]

花岡事件の報告書の提出後は、秋田県下の政治団体・人物に関する調査・報告や、1946年1月4日の公職追放指令発出後の公職追放すべき人物に関する調査、思想・報道統制の撤廃の働きかけなどを行った[26]。同年3月15日付で秋田県の政治、政治家、選挙の立候補者についての分析結果と、公職追放者に関する提言をまとめた報告書を提出[27]

広島・長崎訪問[編集]

1946年3月21日に秋田での特別捜査官としての任務を終えて秋田を離れ、仙台、東京、横浜を経由して知人を訪問した後、25日に大阪神戸、26日にを経由し、SCAPの命令により、広島長崎を調査、解説付きの写真による報告書を作成する[28]

長崎での調査を終えた後、熊本京都名古屋を回り、1946年4月17日に横浜からU.S.S.W.F.へース号に乗船しシアトルへ向かう[29]

シアトル近郊のフォート・ロートン(Fort Lawton)を経由し、同年5月5日にメリーランド州のキャンプ・ホラバード(Camp Holabird)のCICセンターを訪問して任務完了を報告、同月10日に除隊となった[30]

再来日[編集]

除隊後、シカゴ大学の大学院で研究生活に入る[31]

1947年10月末に、米陸軍の要請によりSCAPの法務局検察課を支援するため、法務局所属の陸軍長官顧問として再来日し、花岡事件の戦犯裁判の準備作業を支援、同年12月に開廷したアメリカ軍横浜裁判に検察側証人として出廷し、追加証拠入手のための調査を行った[32]

計量経済学研究[編集]

1948年1月にシカゴ大学に戻り、以後、ロンドン大学スタンフォード大学カリフォルニア大学バークレー校クレアモント大学Claremont Colleges)で経済学を研究。クレアモント大学院大学で経済学の博士課程を修了した。[35]

この間、ラグナー・フリッシュRagnar Frisch)とともに『エコノメトリカ(Econometrica)』の編集に携わり、シカゴ大学ではコールズ経済調査委員会(Cowles Foundation)の常任理事や計量経済学会の幹事を務めた[35]

長年、カリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)で経済学を教え、高等教育組織と経済学について論文・著作を発表。連邦や州の政府、小・中学校や高校、大学、全米大学教授組合など、さまざまな組織や団体の諮問を受け、提言を行なっている。[36]

UCLAの教職を退いた後、妻・ルースとともに、母校のリード・カレッジに高等教育向上のための5つの基金を設立し、同大学が進める貧困児童の就学支援プログラムにボランティア参加[36]

日本からの取材[編集]

1991年に、前年に国立国会図書館でシンプソン報告書を参照した久野一郎から手紙を受け取り、以後久野と文通して互いに質問リストに答えたり、久野に情報を提供するなどした[37]

1993年6月初にはNHKの報道番組『クローズアップ現代』の電話取材を受け、同年7月中旬にNHKとM.K.アソシエーツの訪問取材を受け、同年8月に日本で放送された『外務省報告書』に関する『NHKスペシャル』の番組内でインタビューが放送された[38]

1995年1月に死去、享年75[36]

著書[編集]

  • シンプソン(1998) ウィリアム・B・シンプソン(著)古賀林幸(訳)『特殊諜報員』現代書館、1998年、4768467369
    • 原著 Simpson, William Brand., Special Agent in the Pacific, WW II: Counter-Intelligence: Military, Political, and Economic Rivercross Publishing, 1995, 978-0944957776
  • - Cost Containment for Higher Education: Strategies for Public Policy and Institutional Administration, Praeger, 1991, 978-0275940669
  • - Managing with Scarce Resources: New Directions for Institutional Research, Jossey-Bass, 1994, 978-1555427245
  • - Philosophy of a Concerned Accademic: Within and Beyond the Ivory Tower, University Editions, 1996, 978-1560025344

寄贈書[編集]

シンプソンが軍務に就いていた間に収集した戦争に関する歴史的資料は、ポモナ大学(Pomona College)の学長ピーター・スタンリー(Peter W. Stanley)によってクレアモント大学のホノルド図書館(Honnold/Mudd Library)の文庫に収蔵された[39]

付録[編集]

脚注[編集]

  1. 1.0 1.1 1.2 1.3 1.4 金子(1998)p.289
  2. シンプソン(1998)p.7
  3. シンプソン(1998)pp.7-8
  4. シンプソン(1998)pp.11-30、金子(1998)p.289
  5. シンプソン(1998)pp.32-33
  6. シンプソン(1998)pp.36-37
  7. シンプソン(1998)pp.43-44、金子(1998)p.289
  8. シンプソン(1998)pp.45-47
  9. シンプソン(1998)pp.48-102、金子(1998)p.289
  10. シンプソン(1998)p.91
  11. シンプソン(1998)pp.91-92
  12. シンプソン(1998)pp.94-95
  13. シンプソン(1998)pp.105-128、金子(1998)p.289
  14. シンプソン(1998)pp.122-125
  15. シンプソン(1998)pp.121-122
  16. シンプソン(1998)pp.123-124
  17. シンプソン(1998)pp.125-126,130
  18. シンプソン(1998)pp.132-135
  19. シンプソン(1998)pp.137-140、金子(1998)p.292
  20. シンプソン(1998)pp.143-144
  21. シンプソン(1998)pp.156-159、金子(1998)pp.292-293
  22. シンプソン(1998)pp.162-165
  23. シンプソン(1998)pp.168-173
  24. シンプソン(1998)pp.168-185,217-、金子(1998)pp.292-293
  25. シンプソン(1998)pp.178-185,188-215、金子(1998)pp.292-293
  26. シンプソン(1998)pp.217-238
  27. シンプソン(1998)pp.237-238
  28. シンプソン(1998)pp.238-240,243-256
  29. シンプソン(1998)pp.241、金子(1998)p.293
  30. シンプソン(1998)pp.241-242
  31. 金子(1998)p.293
  32. シンプソン(1998)pp.257-259、金子(1998)p.293
  33. シンプソン(1998)pp.268-269
  34. シンプソン(1998)p.268
  35. 35.0 35.1 金子(1998)pp.293-294
  36. 36.0 36.1 36.2 金子(1998)p.294
  37. シンプソン(1998)pp.272-273
  38. シンプソン(1998)pp.274-275
  39. シンプソン(1998)p.282

参考文献[編集]

  • シンプソンの自著については#著書を参照。
  • 石飛(1998) 石飛仁「解説 日本語版発刊によせて」シンプソン(1998)pp.296-301
  • 金子(1998) 金子博文「解説 ウィリアム・B・シンプソン氏について」シンプソン(1998)pp.288-295
  • NHK(1994) NHK取材班『幻の外務省報告書−中国人強制連行の記録』日本放送出版協会、1994年、4140801670