ウマ
この項目では、ウマ科の動物の馬(ウマ)について説明しています。その他の馬については「馬 (曖昧さ回避)」をご覧ください。 |
ウマ | ||||||||||||||||||||
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分類 | ||||||||||||||||||||
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学名 | ||||||||||||||||||||
Equus caballus | ||||||||||||||||||||
和名 | ||||||||||||||||||||
ウマ | ||||||||||||||||||||
英名 | ||||||||||||||||||||
ウマ(馬)は、ウマ目(奇蹄目) ウマ科に属する動物の総称。現生は、いずれもウマ属に属するウマ、シマウマ、ロバの仲間、5亜属9種のみである。狭義の「ウマ」は、このうち特に種としてのウマ Equus caballus のみを指す。
社会性の強い動物で、野生のものも家畜も群れをなす傾向がある。北アメリカ大陸原産とされるが、北米の野生種は、数千年前に絶滅している。欧州南東部にいたタルバンが家畜化したという説もある。 古くから中央アジア、中東、北アフリカなどで家畜として飼われ、主に乗用や運搬、農耕などの使役用に用いられるほか、食用もされ、日本では馬肉を桜肉と称する。
学名の Equus はインド・ヨーロッパ語でウマを意味する ekwos に、種小名の caballus は中央アジア-スラブ-フィンランド語系でウマを意味する käval に由来する。日本語の「ウマ」は、モンゴル語の morin に由来するという説があるが、「梅(うめ)」などと同様、直接的には「馬」という漢字の字音(マ)によると考えるのが妥当であろう。
なお、道路交通法上、馬が引く車および人の騎乗した馬は軽車両に分類される。
なお、日本語で馬の鳴くのを特に「いななく」(動詞)ということがあり、古くは「いばゆ」(下二段動詞)といった。
生物学的特徴[編集]
首と頭が長く、長い四肢をもつ。角はない。各脚とも第3指を残し他の指は退化している。よく発達した爪(ひづめ)をもち、硬い土の上を走ることができる。長い尾と、頭から首の上部にかけての鬣(たてがみ)を除くと、全身の毛は短いが、ある程度の寒冷地での生活にも耐えられる。優れた嗅覚をもつが、毒草や血のにおいなどを嗅ぎ分けることはできない。顔の両側に目が位置するため視野が広いが、反面、両眼視できる範囲は狭いため、距離感をつかむことは苦手とする。走るときに背中が湾曲しないため、乗用に用いることができる。
草食性であり、よく発達した門歯と臼歯で食べ物を噛み切り、すりつぶす。ウマは後腸発酵動物であり、反芻動物とは異なり胃は一つしかもたない。しかし大腸のうち盲腸がきわめて長く(約1.2m)、結腸も発達している。これらの消化管において、微生物が繊維質を発酵分解する。胆嚢がないことも草食に適している。
寿命は約25年、繁殖可能な年齢は3-15/18歳。繁殖期は春で、妊娠期間は335日。単子であることが多い。
知能は家畜の中では非常に高く、乗り手(騎手)が初心者或いは下手な者であれば、乗り手を馬鹿にした様にからかったり、ワザと落馬させようとしたりする行動をとる事もある。逆に常日頃から愛情を込めて身の回りの世話をしてくれる人物に対しては、絶大の信頼をよせ従順な態度をとる。また大切にしてくれたり何時も可愛がってくれる人間の顔を生涯忘れないといわれる。
牡(オス)馬は歯をむき出しにして、あたかも笑っているような表情を見せることがある。これを「フレーメン」と呼び、ウマだけでなく様々な哺乳類に見られる。このフレーメンによって鼻腔の内側にあるヤコプソン器官(鋤鼻器)と呼ばれるフェロモンを感じる嗅覚器官を空気にさらすことで、発情した牝(メス)馬のフェロモンをよく嗅ぎ取れるようにしている。発情した牝馬の生殖器の臭いをかがせるとこの現象を容易に起こせるため、ウマのフレーメンに関する歴史的エピソードがいくつかある。また、ウマはレモンなどのきつい匂いをかいだり、初めて嗅いだにおいを嗅いだときにもフレーメンをし、牝馬もフレーメンをすることがある。
毛色[編集]
→馬の毛色を参照。
白斑[編集]
毛色の他に個体の識別に使われるものとして白斑がある。白斑は主に頭部、脚部などに見られれる白い毛の事で、毛色やその他の特徴(旋毛等)と合わせると無数の組み合わせがあり、個体識別に利用する事ができる。そのため血統登録の際記載が義務づけられている。代表的なものに、頭部では星・曲星・流星・環星・乱星・唇白・白面・鼻白・鼻梁白・作、肢部では白・半白・小白・微白・長白・細長白・長半白等がある。なお、白斑に至らない程度のものを刺毛という。(en:Horse markings参照)
旋毛[編集]
馬のつむじのことを旋毛(せんもう)という。位置に個体差があることから、白斑と同じく個体識別に利用する事ができる。位置によって「珠目」、「華粧」といった名称がある。
白斑・旋毛の詳細については[1]を参照
進化[編集]
ウマ科は主要な系統の化石証拠が豊富であり、そこからその進化史が跡付けられている。最古の化石は、北米で5,000万年前(始新世)の地層から発見されたヒラコテリウム Hyracotherium sp.である。ヒラコテリウムは、一般にはエオヒップス Eohippus という別名で知られる。ヒラコテリウムはキツネほどの大きさで、前肢は第1指がなく、後肢は第1と第5指が退化している。森林に生息し、葉食性(ブラウザ)であったと考えられている。
その後、始新世のオロヒップス、エピヒップス、漸新世のメソヒップス、ミオヒップス、中新世のパラヒップス、メリキップスという系統進化が明らかになっている。約1,000万年前(中新世前-中期)のメリキップスは、真の草食性を示す高冠歯を獲得したことと、より高速での走行を可能にした下肢骨(尺骨と橈骨、脛骨と腓骨)の癒合の2点で画期的であった。当時は乾燥気候が広がるとともに大草原が拡大しつつあり、メリキップスの出現は、草原への進出の結果だった。
約400万年前(中新世中-後期)のプリオヒップスは、第2・第4指を完全に消失させることで指が1本になり、現在のウマに近い形態をしていた。ウマの仲間は、更新世の氷河期にベーリング海を渡り、ユーラシア大陸やアフリカ大陸に到達し、現在のウマであるエクウス(ウマ属)に分化する。
南北アメリカ大陸に残ったウマ科の動物は、氷河期に絶滅した。ミオヒップスやメリキップスからも多様な種分化が起こり、ウマ類は一時、大きな発展を示したが、系統の大半はすでに絶滅し、現存する子孫が、ウマ、シマウマ、ロバの仲間のみとなっている現状は、反芻類の繁栄と対照的である。
ウマ類は反芻類に比べ、植物を消化してタンパク質に再構成する能力が劣っているため、反芻類に駆逐されたものと考えられているが、ウマは高い運動能力を獲得することで生き残った。野生のウマはほとんど絶滅に近いが、内燃機関が発明されるまでの長い間、人類にとって最もポピュラーな陸上の移動・運搬手段となることで、家畜動物として繁栄した。
品種[編集]
ウマの分類に関してはいくつかの方法があるが、どの分類方法も曖昧さをはらんでいる。動物分類学的にはこれらすべてがウマ(正確にはイエウマ)という単一の種である。現在は主に登録された血統に基づいて分類を行うのが主流である。たとえば、サラブレッドとして然るべき団体から登録を受けたウマがサラブレッドであり、サラブレッドであれば軽種である。仮にこれとまったく同一の遺伝子を備えていたとしても登録がなければサラブレッドとは認められない。
- 解剖学的分類法
- 東洋種と西洋種
- 短頭種と長頭種
- 用途による分類法
- 乗用種・挽用種・貨用種
- 外観や能力による分類法 - いずれも個々のウマの外観的特徴に基づく分類ではなく、登録されている品種単位での分類である。
- 常歩馬・速歩馬・駆歩馬 - もっぱら走るスピードに着目した分類法。ドイツのミツテンドルフが考案したものでかつては普及していた。
- 温血馬・冷血馬 - 実際にウマの体温や血液の成分によるのではなく、ウマの運動性からの連想による分類法。一般に小型で敏捷であれば温血種、大型であれば冷血種に分類される。
- 軽種馬・中間馬・重種馬 - 体の大きさによる分類法。日本やイギリスで普及している。
- 正方形馬・長方形馬・高方形馬 - 体高と体長の比率による分類法。ドイツでつくられた考え方。
- 純血馬・半血馬 - 純血といっても遺伝的・生物学的な根拠に基づくものではなく、公式な血統管理団体による登録による分類法である。
- 正常馬・ポニー - イギリスで考案された分類法で、体高が148センチ以下のものを機械的にポニーと称した。
- 日本での分類法
- 和種・洋種・雑種
- 甲種・乙種・丙種・丁種
- その他の分類法
- サラブレッドやポニーなど、我々がふだん目にする馬の多くは改良種と呼ばれ、スピードや耐久力、パワーなどを高めるような改良がなされているが、それに引き替えて不定期の給餌に耐える体質や危険から身を守る本能の一部を失っている。また、各地にそれぞれ在来種と呼ばれる固有の特徴をもった品種が少数存在する。在来種は古来のウマの特徴を比較的よく残しているが、それらも多かれ少なかれ人間の手によって改良されている。細かくみると約250種類以上確認される。混血も多い。
野生種[編集]
現在では、野生種はほとんど絶滅したとされる。アメリカのムスタングや、宮崎県都井岬の御崎馬などは、半野生状態で生息しているが、いずれも家畜として飼育されていたものが逃げ出し、繁殖したものである。モンゴルに生息するモウコノウマ(Equus przewalskii)は、真の野生ウマというべき種であるが、1968年以降、野生状態では1頭も確認されていない。
軽種[編集]
主に乗用や、乗用の馬車をひくために改良された品種で、軽快なスピードとある程度の耐久力をもつように改良されている。多くがアラブを母体としている。
中間種[編集]
軽種と重種の中間的な性質を持ち、軽快さと比較的温厚な性質を持つ。
- セルフランセ
- スタンダードブレッド
- クォーターホース
- ハクニー
- ハンター
- ノルマン
- フリージアン
重種[編集]
主に農耕や重量物の運搬のために改良された品種。中世ヨーロッパでは重い甲冑を着込んだ重装備の騎士の乗馬とされた。大きな個体では体重1トンを超えることも珍しくない。また、軽種よりも美味とされ、食用として用いられるのは重種馬が多い。
北海道特有の競馬競走の一種、ばんえい競馬で用いられているのは、この重種でもペルシュロンやベルジャンの混血馬や、これらと北海道和種などの在来種の混血(重半血)が多い。軽種馬以外の登録を管轄する日本馬事協会では、平成15年(2003年)度以降に生産されるばんえい競馬向けの馬については、純系種同士の馬による配合馬のみ一代限りで「半血(輓系)種」とし、それ以外については「日本輓系種」として登録されている。
ポニー[編集]
ポニーは、肩までの高さが147センチメートル以下の馬の総称である。かつては、14ハンド2インチ(14.2ハンドと表記する)=約147センチ(1ハンドは4インチ=10.16センチメートル)に満たないウマをポニーと称し、それ以上のものを馬として機械的に分類していた。近現代になって血統登録による品種の分類が確立するまでは、例えば下に示すシェトランドポニーでも大柄であれば「馬」と考えられていた。今でも日常的には、品種に関わらず小柄な馬をポニーと称することが多い。
- シェトランドポニー
- ウェルシュマウンテンポニー
- ハクニーポニー
- コネマラポニー
- アメリカンミニチュアホース
在来種[編集]
日本在来種は以下の8種。北海道和種以外は非常に飼育頭数が少ない。日本では馬の品種改良の概念が存在しなかったため、時代が下るごとに小型化する傾向があり、全てポニーに含まれる。
- 北海道和種(北海道):「道産子(どさんこ)」の俗称で親しまれている。
- 木曽馬(長野県木曽郡、岐阜県)
- 野間馬(愛媛県今治市野間)
- 対州馬(長崎県対馬市)
- 御崎馬(宮崎県都井岬)
- トカラ馬(鹿児島県トカラ列島)
- 宮古馬(沖縄県宮古島)
- 与那国馬 (沖縄県与那国島)
人間とウマ[編集]
人間によるウマ利用の歴史[編集]
Equus(エクウス:ウマ属)の学名で呼ばれるウマやロバの直接の先祖は、200万年前から100万年前にあらわれたと考えられている。ヒトは古い時代からウマを捕食し、あるいは毛皮を利用していたことが明らかにされており、旧石器時代に属するラスコー洞窟の壁画にウマの姿がみられる。純粋な野生のウマは、原産地の北アメリカを含め、人間の狩猟によりほとんど絶滅した。
紀元前4000年から3000年ごろ、すでにその4,000年ほど前に家畜化されていたヒツジ、ヤギ、ウシに続いて、ユーラシア大陸で生き残っていたウマ、ロバの家畜化が行われた。これは、ウマを人間が御すために使う手綱をウマの口でとめ、ウマに手綱を引く人間の意志を伝えるための道具であるはみがこの時代の遺物として発見されていることからわかっている。同じく紀元前3500年ごろ、メソポタミアで車が発明されたが、馬車が広く使われるようになるのは紀元前2000年ごろにスポークが発明されて車輪が軽く頑丈になり、馬車を疾走させることができるようになってからである。
馬車が普及を始めると、瞬く間に世界に広まり、地中海世界から黄河流域の中国まで広く使われるようになった。これらの地域に栄えた古代文明の都市国家群では、馬車は陸上輸送の要であるだけではなく、戦車として軍隊の主力となった。また、ウマの普及は、ウマを利用して耕作を行う馬耕という農法を生んだ。
一方、メソポタミアからみて北方の草原地帯ではウマに直接に騎乗する技術の改良が進められた。こうして紀元前1000年ごろ、広い草原地帯をヒツジ、ヤギなどの家畜とともに移動する遊牧という生活形態が、著しく効率化し、キンメリア人、スキタイ人などの騎馬遊牧民が黒海北岸の南ロシア草原で活動した。騎馬・遊牧という生活形態もまたたくまに広まり、東ヨーロッパからモンゴル高原に至るまでの農耕に適さない広い地域で行われるようになった。彼ら遊牧民は日常的にウマと接し、ウマに乗ることで高い騎乗技術を発明し、ウマの上から弓を射る騎射が発明されるに至って騎馬は戦車に勝るとも劣らない軍事力となった。遊牧民ではないが、紀元前8世紀にアッシリアは、騎射を行う弓騎兵を活用して世界帝国に発展した。中国では紀元前4世紀に北で遊牧民と境を接していた趙の武霊王が胡服騎射を採用し、騎馬の風習は定住農耕民の間にも広まっていった。さらに騎乗者の足や腰を安定させるための鐙(あぶみ)や鞍(くら)が発明され、蹄鉄が普及して、非遊牧民の間でも、西ヨーロッパの騎士や日本の武士のような騎兵を専門とする戦士階級が生まれた。
15世紀から16世紀に進んだ火薬・銃の普及による軍事革命は騎士階級の没落を進めたが、騎兵の重要性は失われず、また物資の運搬にもウマは依然として欠かせなかった。各国は軍馬に適したウマを育成するために競馬を振興し、競馬を通じて馬種の改良が進められた。20世紀に至り、2度の大戦を経て軍事革新が進んで軍馬の重要性は急速に失われていったが、軍隊、警察においては儀典の場で活躍している。さらに競馬・乗馬は娯楽、スポーツとして親しまれ、世界では現在も数多くの馬が飼育されている。また近年では、世界最小のウマであるアメリカンミニチュアホースを盲導犬のウマ版と言える盲導馬として使用する試みも始まっている。
日本の馬[編集]
日本の古書や伝承には馬にまつわる記述が早くからみられる。『日本書紀』にはアマテラスが岩戸に隠れたのはスサノオが斑駒の皮を剥いでアマテラスの機織小屋に投げ込み、機織女が驚いて死んだためであるとのくだりがある。『古事記』では、スサノオの息子であるオオクニヌシが出雲国からでかける際に鞍と鐙を装した馬に乗っていたと書かれ、「因幡の白兎」(「稻羽之素菟」)で有名な逸話のなかでオオクニヌシが素兎(素菟)に与える「がまの油」は馬の油であるとの説がある。 高千穂地方には、これより以前の神代の時代の神武天皇が龍石という馬に乗っていたとか、垂仁天皇の時代に野見宿禰が馬の埴輪を作ったとか、ヤマトタケルも東征に際して馬に乗っていたという伝承も存在する。
しかし、これらの神話や伝承は馬事文化の始まりを示す学問的な物証とは考えられていない。
考古学的には、縄文時代の貝塚から発見された馬の骨は、その後のフッ素年代法による研究で、鎌倉時代の馬を深い穴の中に埋葬した結果、貝塚の中から発見されたのではないかとする説が有力となっており、弥生時代以前に日本で馬産が行われた、あるいは馬の存在を裏付ける有力な証拠は発見されていない。 「うま」という言葉自体、昔から和語と認識され訓読みとされてきた(今でも教科書・辞典等では訓読みとされている。)が、馬の「マ」という字音が転じたものというのが定説である。
一方、3世紀前半から中期にかけての日本について記述した『魏志倭人伝』では倭国には牛・馬・虎・豹・羊・鵲はいないとの記述があり、これを信頼するならば当時の日本には馬が存在しなかったことになる。
考古学的に馬事文化の存在を示す国内最古の遺物は、箸墓古墳(3世紀中頃)の周壕から出土した木製輪鐙である。4世紀初めの土器と共に出土したため、このころに投棄されたと推定される。 しかし、この木製輪鐙だけが他の出土馬具に比べ出現時期が余りにも早いため、この時期に馬事文化が広く普及していたとは考えられない。稀少な存在として権威を示すために用いられたと考えられる。
5世紀前半の応神天皇・仁徳天皇の陵墓の副葬品として馬具が出土しており、5世紀中ごろになると馬型の埴輪が登場し、古墳の副葬品も鞍、轡、鐙などの馬具の出土も増えることから、日本でこの頃には馬事文化が確実に普及したと考えられる。
大化の改新(646年)による一連の制度の整備によって、駅馬・伝馬といった通信手段としての乗用馬が設立され、各地に馬牧も開かれた(ただし去勢の技術は導入されなかった)。当時律令制のモデルであった大陸の唐朝は、遊牧民出身の軍事集団が政権中核の貴族層を構成し、その軍事制度も遊牧民の軍制を色濃く継承していたため、律令制の導入は最先端の軍事技術としての馬文化(軍馬)の導入という性格も有していた。文献によれば、出雲国風土記ではこの頃、既に神格化された大国主に馬肉を奉納したと記されており、既に馬肉食の文化も存在していたことが伺えるが、大化の改新に際して馬肉食も禁止されている。また『日本書紀』天武天皇5年(675年)4月17日のいわゆる肉食禁止令で、4月1日から9月30日までの間、稚魚の保護と五畜(ウシ・ウマ・イヌ・ニホンザル・ニワトリ)の肉食を禁止されている。
8世紀の文武天皇の時代には、関東に大規模な御料牧場が設けられ、年間200~300頭規模の馬産が行なわれていた。これが明治時代の下総御料牧場の前身である。ただし牧場や馬産といっても、大陸の遊牧民、牧畜民によって発達し、現在も行なわれているような体系的なものではなく、大規模な敷地内に馬を半野生状態で放し飼いにして自由交配させ、よく育った馬を捕らえて献上するというやり方だった。この方法は、優れた馬ほど捕らえられ戦場に送り込まれることになり、劣った馬ほど牧場に残って子孫を残し、優れた馬ほど子孫を残しにくくなるため、現代の馬種改良とは正反対の方法だった。
平安時代には、いわゆる競馬が行われていたというはっきりとした記録があり、盛んに行われていた。「競馬式(こまくらべ)」、「きおい馬」、「くらべ馬」、「競馳馬」等と称して、単に馬を走らせて競う走馬、弓を射る騎射などが行なわれ、勝者と敗者の間では物品をやり取りする賭け行為も行われている。この競馬の起源は尚武(武術の研鑽)にあったと考えられるが、平安時代を通じてもっぱら娯楽へと変遷したと考えられる。一方、宮廷儀礼として様式化された「競馬」はやがて神社にも伝わり、祭礼としての競馬も営まれるようになった。このなかでは、賀茂別雷神社(上賀茂神社)で毎年五月に行われる賀茂競馬が有名である。賀茂競馬は古代から中世を通じて継続し、応仁の乱による荒廃の際でも万難を排して開催され、日本の馬事文化における極めて伝統的な行事として確固たる地位を築いている。
10世紀に武士が誕生すると、大鎧を着て長弓を操る武芸、いわゆる「弓馬の道」が正当な武士の家芸とされ、朝廷や国衙による軍事動因や治安活動は、この武士の騎馬弓射の戦闘力に依存するようになった。彼ら平安時代中葉から鎌倉時代にかけての武士の馬術への深い関心は、軍記物語に記された一ノ谷の戦いで馬に乗ったまま崖を駆け下りた源義経の鵯越え(ひよどりごえ、なお畠山重忠は馬を背おって下りたという)などの逸話によって多くの日本人によく知られている。馬事はふたたび武術としての性格をもちはじめ、武士のたしなみとして「競馬」、騎射、流鏑馬、犬追物などが盛んになり、やがて鎌倉競馬として厳格に体系化された。また、領主としての土着性が強かった初期の武士にとっては、馬が排出する馬糞は自己が経営する農地の肥料としても貴重なものであった。
この武士による競馬の伝統は中世を通じて維持され、政治史にあわせた盛衰はあるものの江戸時代中期まで続いた。特に徳川家康、徳川家光、徳川吉宗らは武芸としての馬事を推奨し、江戸の高田に馬術の稽古場をつくったり(高田馬場)、朝鮮や中国から馬術や馬を取り入れた。
一方、馬産に関しては、鎌倉時代・室町時代を通じて続く戦乱期には、優れた馬ほど武士に召し上げられて死ぬことにより、馬種の改良は進むというよりは、むしろ後退する有様だった。源義経の愛馬として名が残る青海波は体高が約140センチで大きな馬であったと伝えられるが、このサイズは現在のサラブレッドの平均的な体高である160~170センチと比べるとかなり小型である。ただし、モンゴルのような内陸ユーラシアの遊牧民の優秀な軍馬が必ずしも大型馬ではなく、小型馬であることも多かったことも考慮する必要はある。室町後期、戦国時代になると、優秀な馬を大量に育成することが戦国武将の重要な関心事となる。下北の蠣崎氏は15世紀から代々モンゴル馬を輸入したといわれており、薩摩の島津貴久や、南部駒の産地を支配した伊達政宗は、ペルシャ種馬を導入して在来種の改良を行った。しかし、全体としての馬産の方法論は前時代のままであり、淘汰による体系的な品種改良という手法は導入されていない。江戸時代の8代将軍徳川吉宗は長崎の出島の貿易でオランダ商人からアラビア種の馬を輸入し品種改良しようとした。なお、後代の話となるが、14代将軍徳川家茂の時代にフランスで流行病によって蚕が全滅した際に、江戸幕府が代わりの蚕を援助したことの謝礼として品種改良の一助になればとフランスからアラビア馬が贈呈されたが、当時の幕府首脳にフランス側の意図を理解出来る者がおらず、全て家臣や諸侯等への贈り物にしてしまったという話が伝えられている。
関東の御料牧場は、戦国時代に関東を制覇した北条氏政によって整備され、上総・下総の広い地域にまたがっていた。これを監督していた千葉氏は後に豊臣氏に滅ぼされて新領主である徳川氏の直轄地域(千葉野、後の小金牧・佐倉牧)となり、同氏が幕府を開いた江戸時代に入ると代官が設置されて最盛期には年間2000~3000頭規模の馬産を行った。
ところで、江戸期の太平の時代になると、軍馬としての馬の需要は減り、一方で市民経済の発展に伴って荷馬に用いられるものが増えてきた。西洋とは異なり日本では馬車は発達せず、馬に直接荷を背負わせる方法が主流であったため、背丈の高い馬よりも、荷を乗せやすい背丈の低い馬が好まれた。また、農馬は田の耕作や馬糞を田畑への肥料とするため飼養された。このごろの馬の平均の体高は僅か130センチほどであり、現代の乗用馬の基準からいくとかなり小型であり、中には昔話に馬を背中にくくりつけ、かついで山を下りる話もあるくらい小さな農馬もいたらしい。
明治維新以降に軍馬の改良をすすめ日本在来馬の禁止など施策を計り、本格的な品種改良を伴う洋式競馬も創設された(詳しくは競馬の歴史 (日本)参照)。太平洋戦争後の経済復興期に日本国内の道路網の舗装が整備されて自動車が普及するまで、ウマは農耕、荷役、鉄道牽引などに用いる最もポピュラーな実用家畜であり、ピーク時には国内で農用馬だけで150万頭が飼育されていた。昭和20年(1945年)、連合国軍最高司令官総司令部指令により国による馬の施策、研究、団体の解散が実施された。終戦直後の昭和25年に飼育されていたウマは農用馬だけで100万頭を超すが、昭和40年代初頭には30万頭に、昭和50年には僅か42000頭まで減った。平成13年の統計では、国内で生産されるウマは約10万頭で、そのうち約6万頭が競走馬で、農用馬は18000頭にすぎない。
平成17年現在では日本在来馬は8種、約2000頭のみとなった。
昔から馬を大切にしていた地方では現代でも、馬は「蹴飛ばす」=「厄を蹴飛ばす縁起物」などと重宝しているところもある。
食用[編集]
馬肉を参照。
乳用[編集]
モンゴル高原の遊牧民の間ではウマは重要な乳用家畜の一つであり、馬乳は馬乳酒(アイラグ)などの乳製品の原料とされる。
民間医療薬として[編集]
民間療法として、馬肉には解熱効果があるとされ、捻挫などの患部に湿布として使用される。女子柔道家の谷亮子が使用したことでも有名。また馬肉パックと称して美肌効果を期待する向きもある。また馬脂(馬油は商品名)は皮膚への塗布用のものが販売されている。人間に最も近い自然の油であるため、大やけど、日焼け、虫刺され、しもやけ、しみ、しわ、白髪等に効果があると言われる。
尾毛[編集]
太く長いので、ヴァイオリンや胡弓、ヴィオール、二胡など擦弦楽器の弓毛に用いられる。またモンゴルの馬頭琴など、騎馬民族の擦絃楽器では弓毛に加え、弦も本来馬尾毛である。この他、織物に使用することがある。
伝承・民話・神話[編集]
- Category:架空の馬
- スーホの白い馬(モンゴル民話)
- 天津馳駒 (南アルプス甲斐駒ケ岳)
- 名馬磨墨(するすみ)・池月(いけづき)伝説(日本各地)
- ユニコーン
- ペガサス(ギリシア神話)
- ケンタウロス(ギリシア神話)
- ケルピー(スコットランド神話)
- ウッチャイヒシュラヴァス(インド神話)
- スレイプニル(北欧神話)
- ヨハネの黙示録の4人の馬乗り(新約聖書)
有名な馬[編集]
ウマの登場する諺、故事成語、慣用句、四字熟語など[編集]
- 寝牛起馬
- 南船北馬
- 駑馬十駕
- 意馬心猿
- 馬首人身
- 寸馬豆人
- 馬子にも衣装
- 馬車馬のよう
- 馬の背を分ける
- 馬が合う
- 馬を牛に乗り換える
- 馬乗りになる
- 馬には乗ってみよ、人には添うてみよ
- 馬耳東風(馬の耳に念仏、馬に経文、馬の耳に風)
- 馬を水辺に連れて行くことは出来るが水を飲ませることは出来ない
- じゃじゃ馬(駻馬)
- 名馬に癖(難)あり
- 天高く馬肥ゆ
- 老馬の智用うべし
- 鞍掛け馬の稽古
- 将を射んと欲すれば先ず馬を射よ
- 人を射るには先に馬を射よ
- 肥馬の塵を望む
- 焉馬の誤まり
- 癖ある馬に乗りあり
- 人間万事塞翁が馬
- 尻馬に乗る
- 生き馬の目を抜く
- 犬馬の労
- 牛は牛づれ馬は馬づれ
- 老いたる馬は路を忘れず
- 鹿を指して馬となす(馬鹿)
- 痩せ馬の先走り(道急ぎ)
- 瓢箪から駒(駒=子馬)
- 千里の駒
- 隙過ぐる駒
- 馬並み
楽曲[編集]
- おうまはみんな(童謡、作詞:中山和子、アメリカ民謡)
- おうま(童謡、作詞:林柳波、作曲:松島つね)
- チャグチャグ馬コ(岩手県民謡)
- シャンシャン馬道中唄(宮崎県民謡)
- 愛馬進軍歌(戦時歌謡、久保井信夫作詞、新城正一作曲)
- 草競馬(スティーブン・フォスター)
- めんこい仔馬(作詞:サトウハチロー、作曲:仁木他喜雄)
- 走れコウタロー(ソルティー・シュガー)
- 奔馳在千里草原 (中国二胡曲)
映画[編集]
- 『緑園の天使』National Velvet(1945年 アメリカ 監督:クラレンス・ブラウン、主演:エリザベス・テイラー)
- 『チャンピオンズ』Champions(1984年 イギリス・アメリカ 監督:ジョン・アービン、主演:ジョン・ハート)
- 『優駿 ORACION』(1988年 日本、監督:杉田成道、主演:斉藤由貴)
- 『ワイルドハート 彼女は空を翔けた』Wild Hearts Can't Be Broken(1991年 アメリカ 監督:スティーブ・マイナー、主演:G・アンウォー)
- 『黒馬物語』Black Beauty(1994年 アメリカ 監督:キャロライン・トンプソン、主演:ドックスキーピンタイム)
- 『モンタナの風に抱かれて』The Horse Whisperer(1998年 アメリカ 監督:ロバート・レッドフォード、主演:ロバート・レッドフォード)
- 『シービスケット』Seabiscuit(2003年 アメリカ 監督:ゲイリー・ロス、主演:トビー・マグワイア)
- 『オーシャン・オブ・ファイヤー』Hidalgo(2004年 アメリカ 監督:ジョー・ジョンストン、主演:ヴィゴ・モーテンセン)
- 『夢駆ける馬ドリーマー』Dreamer:Inspired by a True Story(2006年 アメリカ 監督:ジョン・ゲイティンズ、主演:カート・ラッセル)
TV[編集]
- 『黒馬物語』Black Beauty(1972~1973年、イギリス、原作: アンナ・シュウエル、NHKの少年ドラマシリーズで放映(1974~1975年))
- 『ファイト』(2005年、日本、NHK朝の連続テレビ小説。主人公が様々な逆境に遭いながらも馬との関わりを通じながら、自分や家族の幸せをつかむ成長の過程を描いたドラマ。)
ドキュメンタリー[編集]
- 「シービスケット あるアメリカ競走馬の伝説」(ローラ・ヒレンブランド)
小説[編集]
- ジョン・スタインベック 『赤い子馬』
- テォドール・シュトルム 『白馬の騎手』
- 宮本輝 『優駿』新潮文庫
- 樋口修吉 『アバターの島』
- 吉岡平 『エクウス』
キャラクター[編集]
- ゆうきまさみ(『じゃじゃ馬グルーミン★UP!』の登場馬)
- つの丸(『みどりのマキバオー』の登場馬)
- ウマゴン(『金色のガッシュ!!』)
- カルディオ(『金色のガッシュ!!』)
- ノッコ(『W3』)
- 騎士シグマ(『DRAGON QUEST -ダイの大冒険-』)
- ホースオルフェノク(木場勇治)(『仮面ライダー555』)
- ポニータ、ギャロップ(ポケットモンスター)
- よしだみほの描く、実在する競走馬をデフォルメしたイラスト・キャラクター(『馬なり1ハロン劇場』等)
- ウマ系住民全て(『どうぶつの森』シリーズ)
- ハロン、ブレーメンズの馬(『Pop'n music』)
馬鬼(桃太郎電鉄及び伝説)電鉄はCPU。伝説では雑魚として登場
その他[編集]
軍用馬[編集]
軍事に使用される馬。歴史的には戦車(戦闘馬車)や騎馬兵の乗用動物として駆使され、モンゴル帝国が騎馬弓兵で世界を圧し、英国やフランスの騎士や日本の武士が弓馬を専らにした。第二次世界大戦までは世界各国軍に当たり前に存在した。アメリカの騎馬隊が有名で、アメリカ陸軍に歴史的経緯上、騎馬隊という名称が残り、軍パレードなどセレモニーに駆り出されるような場合以外はさほど活躍しない。その場合軍用馬は血統正しい競走馬から選ばれ徴用される。そして軍の施設で管理され、飼育される。
警察馬[編集]
警察が市内パトロールの為に使用した。現在でも一部の国の衛視が使っているが、日本では明治時代から昭和初期までで、それ以降は警察車両に取って代わられたので、殆ど無用となってしまった。しかし、警視庁には伝統を重んじる姿勢から交通機動隊の中に騎馬隊を作り、馬を徴用している。しかし、活躍の場は交通パレードの時の市中警戒に使用される程度。実はそれ以外の日も時折、警察官が馬に跨り、市街地を警備することもあるが、車道の交通の妨げになることが多いので大々的にはやらない。海外では、ニューヨークやロンドンなどの大都市で使用されている。これは騎乗することにより遠くまで見渡すことができ、威圧感もあることと、もともと街中に乗馬のための設備がそろっていることによる。
なお、カナダ国家警察は現在でも王室カナダ騎馬警察を称している。
姓[編集]
中国の百家姓のひとつに「馬」(マー)がある。陸上競技の「馬軍団」(馬家軍)も、軍閥の馬家軍も馬姓の人の率いた集団である。 日本にも、「馬田」(まだ、ばだ)、「白馬」(はくば)など、馬が付く姓がある。
関連項目[編集]
- 日本在来馬
- 午(十二支)
- 神馬
- 絵馬
- 流鏑馬
- 竹馬
- メリーゴーランド(回転木馬)
- 馬具
- 野次馬
- 馬とび
- 馬頭鬼
- 馬頭観音
- 磨墨塚
- 幸主名馬尊
- 馬頭琴
- 相馬野馬追
- 馬鹿
- 馬車鉄道
- 馬事公苑
- エポナ
- 馬術
- エドワード・マイブリッジ - 走行する馬の4本の脚が同時に地面を離れることを写真で証明
- テオドール・ジェリコー - 『エプソンの競馬』で、走行中の馬の脚の写実性が話題となった
- バビショウ(馬尾松)
- バフンウニ(馬糞海胆)