小早川秀秋
小早川 秀秋(こばやかわ ひであき)は、安土桃山時代の大名。丹波亀山城主、筑前名島城主を経て備前岡山藩主。名は関ヶ原の戦いの後に秀詮(ひであき)と改名している[1]。
若年ながら豊臣秀吉の身内として重きをなしたが、関ヶ原の戦いでは戦闘中に東軍に寝返り徳川家康に勝利をもたらす契機を作ったことで知られる。
目次
生涯
豊臣家の公達
天正10年(1582年)、木下家定(高台院の兄)の5男として近江国の長浜に生まれる。母は杉原家次の娘、幼名は辰之助。
天正13年(1585年)に義理の叔父である羽柴秀吉の養子になって幼少より高台院に育てられ、元服して木下秀俊、のちに羽柴秀俊(豊臣秀俊)と名乗った。天正16年(1588年)4月、後陽成天皇の聚楽第行幸では内大臣・織田信雄以下6大名が連署した起請文の宛所が金吾殿(秀俊)とされた。またこの際、秀吉の代理で天皇への誓いを受け取っている。[2]。
天正17年(1589年)、豊臣秀勝の領地であった丹波亀山城10万石を与えられた。天正19年(1591年)、豊臣姓を下賜され、文禄元年(1592年)には従三位・権中納言兼左衛門督に叙任し、「丹波中納言」と呼ばれた。
諸大名からは関白豊臣秀次家に次ぐ、豊臣家の継承権保持者とも見られていた。
養子入り
文禄2年(1593年)、秀吉家に豊臣秀頼が生まれたことにより運命は急変する。 秀吉幕下の黒田孝高から小早川隆景に、「秀俊を毛利輝元の養子に貰い受けてはどうか。」との話が持ち掛けられる。 これを聞いた隆景は、元就の四男穂井田元清の子である秀元を、毛利家の後継ぎとして秀吉に紹介した上で、秀俊を自身の小早川家の養子に貰い受けたいと申し出て認められる[3]。
文禄3年(1594年)、秀吉の命により秀俊は小早川隆景と養子縁組させられ小早川秀秋となった。また、養子縁組を契機に隆景の官位、すなわち小早川家の家格・待遇が急上昇し、官位は中納言となり、以後五大老の一角となった[2])。
文禄4年(1595年)、秀秋は豊臣秀次事件に連座して丹波亀山城を没収される。しかし、同年の内に隆景が主な家臣を連れて小早川家の本貫である安芸三原へ隠居した。秀秋はその所領30万7,000石を相続する形で筑前(名島城)国主となった。小早川氏の家督相続にあたって付家老の山口宗永が隆景直臣の鵜飼元辰らから引き継ぎを受け、検地を実施して領内石高が定められた。なお、筑前東部の5万石については隆景の隠居領であり隆景の家臣が残っていたが、慶長2年(1597年)6月の隆景没後に、小早川家でも外様衆の村上氏・日野氏・草刈氏・清水氏が秀秋に仕官した[4]。
慶長の役
慶長2年(1597年)2月1日、秀秋は秀吉より朝鮮出兵の命令を受け、5月22日に大坂より筑前へ帰り、6月29日に名護屋を発ち、7月17日に釜山へ上陸している。
慶長の役では当初、釜山周辺の守備を任され梁山倭城の普請を担当した。また、12月からの蔚山城の戦いでは明の大軍に包囲された蔚山倭城の救援に向かい、秀秋は自ら馬に乗り退却する明・朝鮮連合軍を激しく追撃し、数多くの敵兵を討ち取るなど武功を上げたとする書(大河内秀元「朝鮮記」寛文3年成立)もあるが、「浅野家文書」「黒田家文書」などこの戦いに関する一次史料群には秀秋の活躍に関する記述は見当たらない。
秀秋は慶長2年(1597年)12月4日付で帰国命令を受けており、慶長3年(1598年)1月29日より帰国の途についたが、秀秋帰国後も小早川勢は500人ほどの残留部隊が寺沢正成の指揮下で釜山の守備に就いたが、寺沢らも5月中には帰国している。4月20日付けの山口宗永の書状では約700人規模の4部隊を日野左近・清水五郎左衛門・仁保民部少輔・村上三郎兵衛(村上景親)の指揮下で順次派遣して西生浦へ駐屯させ、毛利吉成の指示に従う体制を命令している[5]。
なお、隆景没後の朝鮮在陣期に名乗りを秀俊から秀秋へ改名している。[6]
越前転封と筑前復帰
帰国した秀秋には秀吉より越前北ノ庄15万石への転封が命ぜられた。秀秋の転封により筑後の旧小早川領は太閤蔵入地となり石田三成が代官となった(後に浅野長政も代官に加わる)。この転封は蔚山城の戦いにおける秀秋の軽率な行動が原因とされるが前項で述べた通り帰国は蔚山城の戦い以前にすでに決定されており実際には無関係であると考えられる。[6] この大幅な減封により多くの家臣に暇を出すこととなり、長く付家老として秀秋を補佐してきた山口宗永もこの時、加賀大聖寺城主となって秀秋の元を離れている。隆景以来の家臣の高尾又兵衛や神保源右衛門らは、代官として派遣されてきた石田三成の家臣として吸収された[4]。
しかし、慶長3年(1598年)8月の秀吉の死去で、豊臣政権が五大老による合議で運営されはじめると、秀吉遺命として翌慶長4年(1599年)2月5日付け徳川家康ら五大老連署の知行宛行状が発行されて、旧領の筑前名島30万7,000石へ復帰した[7]。
旧領に復帰した秀秋は農民保護対策を打ち出し、文禄慶長の役で疲弊した農村の復興に努めるが、ほどなく関ヶ原を迎えることになる。
関ヶ原の戦い
秀秋は慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは当初、西軍として伏見城の戦いに参加した後、本戦では1万5,000[8]の軍勢を率いて関ヶ原の南西にある松尾山に布陣した。
関ヶ原本戦が始まったのは午前8時ごろであり、午前中は西軍有利に戦況が進展する中、傍観していた。度々使者を送ったにも関わらず傍観し続ける秀秋に家康は苛立っていた[9]といい、秀秋の陣へ鉄砲を撃ち掛けたとも言う。ただし、この点について現代の実地調査では、地理的条件や当時使用されていた銃の銃声の大きさや、現場は合戦中であり騒々しいことから推測すると、秀秋の本陣まで銃声は聞こえなかった、もしくは家康からの銃撃であるとは識別できなかった可能性が高いことも指摘されている[10]。
こうしたやり取りはありながらも、秀秋は最終的には家康の催促に応じ、松尾山を下り、西軍の大谷吉継の陣へ攻めかかった。この際、小早川勢で一手の大将を務めていた松野重元は主君の離反に納得できなかった為、無断で撤退している。秀秋に攻めかかられた大谷勢は寡兵ながらも平塚為広・戸田勝成とともによく戦って小早川勢を食い止めたが、秀秋の離反から連鎖的に生じた脇坂安治・朽木元綱・小川祐忠・赤座直保らの離反を受け、大谷・平塚・戸田の諸将は討死した。
これにより大勢は決し、夕刻までに西軍は壊滅、石田三成は大坂を目指し[[伊吹山お、翌日以降に行われた石田三成の本拠佐和山城攻めなどでも秀秋は出陣している。
この秀秋の離反については、当初から家老の稲葉正成・平岡頼勝と東軍の黒田長政が中心となって工作が行われており、長政と浅野幸長の連名による「我々は北政所(高台院)様の為に動いている」と書かれた書状が現存しているが、高台院は西軍を支持していたとの白川亨、三池純正らの研究もあり、その傍証も多く存在するため、この書状の内容については今後の研究が待たれている(内容では北政所のために東軍につけとは言っていない)。また、本戦の開始前より離反することを長政を通じて家康に伝えており、家康も奥平貞治を目付として派遣している。
一方で石田三成、大谷吉継ら西軍首脳も秀秋の行動に不審を感じていたらしく、豊臣秀頼が成人するまでの間の関白職と、上方2ヶ国の加増を約束して秀秋を慰留する書状も現存している。また、松尾山は12日の時点で「中国勢を置く」との増田長盛宛石田三成書状が確認されており、それまで陣取りしていた大垣城主・伊藤盛正を追い出して着陣している。関ヶ原決戦が計画的なものでなく、突発的なものであったとする説では、石田三成は小早川秀秋が松尾山に陣取ったことで腹背に脅威を得、大垣城を出ざるを得なかったとする。
小早川秀秋、裏切りについて発言
- (関ヶ原での裏切りについての会見)
1600年、前年度の賄賂として徳川家康に約300000億円を納めていたことに加え、関ヶ原の戦いで西軍から、東軍に裏切り、西軍の武将らを改易、処刑、晒し首 (大谷吉継や平塚為広などは奮戦の末討死) に追い込んだ事が発覚し、同年7月1日に記者会見を開いた。しかし、会見中に感情的になり、涙ながらに語る異例の記者会見となった。会見では「誰ガデー! 誰が寝返りをジデモ! オナジヤオナジヤオモデェー!」「ンァああッ! ハッハッハッハー! この日本ンフンフンッハアアアアアアアアアアァン! アゥッアゥオゥウアアアアアアアアアアアアアアーゥアン! コノビボンああああ!ああ…ビボンァゥァゥ……アー!徳川ドドを……ウッ……ガダゼェダイ!!!......ゾボおおおお.....一心ドゥエエエエエ!!!!!」と述べ、関ヶ原での裏切りにより日本を平和にし、徳川勢を勝たせたいとの思いを語るなど、徳川家康に対する好意を涙ながらに主張した。世論の徳川化問題についても「徳川化問題はぁ……グズッ……我が国(領地)のみンドゥッハッハッハッハッハアアアアァァ! 我が国のみンゥッハー! グズッ我が国のみならずぅう! 豊臣……日本人の問題やないですかぁ……命がけでッヘッヘエエェエェエエイ! アァアン! アダダニハワカラナイデショウねえ!!!!」と述べ、徳川化問題は領国だけでなく日本全体での取り組みが必要と指摘するとともに、この問題に対する意気込みを涙ながらに主張した。なお、追求されていた関ヶ原の裏切りに関する謝罪は無かった。
岡山藩主
戦後の論功行賞では備前と美作と備中東半国にまたがる、播磨の飛び地数郡以外の旧宇喜多秀家領の岡山藩55万石に加増・移封された。なお、戦後まもなく、秀秋から秀詮へと改名している。
岡山に移った秀秋は居城岡山城を改築するとともに、検地の実施、寺社の復興、農地の整備など急速な近代化を進めたという[11]。 しかし、間もなく家老の稲葉正成が出奔し、同じく家老の杉原重政が村山越中守に斬殺されるなどの事件も起きている。そして、秀秋自身も関ヶ原の戦いからわずか2年後の慶長7年(1602年)に早世した(享年21)。関ヶ原の戦いで敗北した石田三成のたたりだといわれる。要出典この早世に関して、大谷吉継が関ヶ原の合戦において自害する際、秀秋の陣に向かって「人面獣心なり。三年の間に祟りをなさん」と言って切腹しており、この祟りによって狂乱して死亡に至ったという説がある[12]。
死後
秀秋の死後、小早川家は無嗣断絶により改易された。これは徳川政権初の無嗣改易である。
異説として秀秋の死後に側室から生まれた羽柴秀行という子がおり、秀秋の兄木下勝俊に養われ、その家臣となったという伝承もある。小早川氏は明治になり毛利本家からの願い出により、再興の勅命が下って毛利本家からの養子により再興している。
正室である長寿院は毛利輝元の養女であり、文禄3年(1594年)秀秋の小早川家への養子入りにともなって結婚したものであるが、この結婚は毛利家にとって気苦労の多いものだったらしい。秀吉の死で情勢が変化したことにより、慶長4年(1598年)9月頃、秀秋に別の女性から子供が生まれ、これに家康が介入し江戸下向を勧めたことを契機として、同年中に離縁がまとまり実家に帰ったようである。秀秋生前の慶長7年(1602年)8月、興正寺18世准尊に再嫁している[13]。
旧臣たちは関ヶ原での裏切りを責められたため仕官先がなかったといわれるが、実際には大名となって立藩した平岡頼勝がいる他、前田家や紀伊徳川家の家臣となった者もいる[14]。
なお、東京国立博物館には秀秋所用と伝わる「猩々緋羅紗地違い鎌模様陣羽織」(しょうじょうひ らしゃじ ちがいがま もよう じんばおり)が所蔵されている。鮮やかな猩々緋地の羅紗の陣羽織で、背中いっぱいに「違い鎌」紋様を、敵をなぎ倒す尚武的意義と諏訪明神の神体として置布刺繍で貼付けてある。大胆な意匠が印象的な逸品で、当時の武将の戦陣装束をよく今に伝えている( → 画像)。
主な家臣
- 山口宗永 - 丹波以来の筆頭家老。越前減封時に加賀大聖寺の独立大名に取り立てられた。関ヶ原の戦いで討死。
- 松野重元 - 丹波以来の家臣。関ヶ原の戦いにおいて小早川勢より離脱。
- 稲葉正成(通政) - 岡山転封後に逐電。後妻は春日局であり、後に大名となる。
- 平岡頼勝 - 秀秋の死後浪人となり、家康に召しだされて大名となる。
- 長崎元家
- 西部和泉守
- 杉原重政- 岡山転封後に上意討ちに遭う。
- 伊藤重家
- 堀田正吉
- 志賀親次 - 関ヶ原後、福島家を経て肥後細川家に仕官。
- 溝江長氏 - 朝倉家家臣。主家滅亡後は信長に下り秀吉に属す。後に小早川秀秋の臣に。
- 波部又右衛門 - 丹波の土豪から家臣となり、筑前入部に従う。
- 木下延貞 - 小早川秀秋の実兄で客分。慶長7年(1602年)10月の同年同月に、弟の秀秋同様謎の死を遂げる。
- 滝川辰政 - 滝川一益の子。岡山転封後、姫路藩池田家に仕官。
脚注
- ↑ 「秀詮」が終の名だが、改名の翌年に本人が死去してその使用期間がきわめて短かったため、一般にはより認知された「秀秋」と書き表すことがほとんどである。
- ↑ 2.0 2.1 矢部健太郎「小早川家の「清華成」と豊臣政権」(『国史学』196号、2008年)
- ↑ 小早川隆景 (PHP文庫)
- ↑ 4.0 4.1 中野等「小早川秀俊の家臣団について」(『戦国史研究』27号、1994年)
- ↑ 本多博之「小早川秀秋の筑前支配と石高制」(『九州史学』117号、1997年)
- ↑ 6.0 6.1 本多博之「小早川秀秋発給文書に関する一考」(『安田女子大学紀要』25号、1997年)
- ↑ 堀越祐一「知行充行状にみる「五大老」の性格」(『國學院大學紀要』48号、2010年)
- ↑ 旧参謀本部『日本戦史』による。なお、『関原軍記大成』『改正三河後風土記』では8000となっている。
- ↑ 『黒田家譜』による
- ↑ 三池純正『敗者から見た関ヶ原合戦』、(洋泉社、2007年5月)ISBN 978-4862481467
- ↑ 『備前軍記』による。ただし『備前軍記』は信憑性に疑問が持たれる史料であり、検地を実施したという確実な一次史料は現在発見されていない。
- ↑ 『関原軍記大成』
- ↑ 西尾和美「豊臣政権と毛利輝元養女の婚姻」(川岡勉、古賀信幸編 『日本中世の西国社会1 西国の権力と戦乱』第4章、2010年)
- ↑ 近世武家の世界・コラム
関連史料
- 『小早川家文書』
- 『木下家譜』
- 『寛政重修諸家譜』
- 『岡山市史』
外部リンク
- 小早川秀秋陣跡
- 松尾山・小早川秀秋陣跡 関ケ原町地域振興課
- 歴代岡山城主 岡山市デジタルミュージアム
- 壊れたファイルへのリンクがあるページ
- 1582年生
- 1602年没
- DQN
- 西軍の面々を見くびる人物
- 西軍の面々を翻弄する人物
- 西軍の面々の疲弊を謀る人物
- 西軍の面々を手玉に取る人物
- 西軍の面々を目の敵にする人物
- 西軍の面々 を悪者扱いする人物
- 西軍の面々 に対決姿勢をとる人物
- 裏切り以外に関心を持たない人物
- 裏切り以外に関心を持つべき人物
- 石田三成への誹謗中傷をやめない人物
- 石田三成への個人攻撃をやめない人物
- 石田三成を過剰なまでに危険視する人物
- 石田三成が枕を高くする事を許せない人物
- 石田三成の足を引っ張る事しか考えない人物
- 石田三成にサイバー攻撃の口実を与えた人物
- 裏切りよりも遊戯王に夢中になるべき人物
- 裏切りよりもデュエマに夢中になるべき人物
- 裏切りよりもバトスピに夢中になるべき人物
- 裏切りよりもヴァンガードに夢中になるべき人物
- 裏切りよりも妖怪ウォッチに夢中になるべき人物
- 徳川家のサーバーが少々重くなる程度では懲りない人物
- 徳川家が潰れない限り誹謗中傷を止めない人物
- 徳川家の存続を強く希望する人物
- 徳川家が無くなると困る人物
- 豊臣氏を疲弊させた元凶
- 裏切りを戦場とする人物
- OCN利用者
- UCOM利用者
- SANNET利用者
- 朝日ネット利用者
- BBエキサイト利用者
- JCNコアラ葛飾利用者
- イー・モバイル利用者
- 長期荒らしメンバー
- ネット犯罪者
- ネット恐喝者
- ネットビースト
- ネットフォボス
- ネットストーカー
- モバー
- スパマー
- メシウマ
- アウトロー
- サイコパス
- ネット弁慶
- 引きこもり
- ジャンキー
- 決め付け厨
- ショタコン
- ストーカー
- パラサイト
- マゾヒスト
- 幸福の科学
- ガスライター
- バックスタバー
- 2ちゃんねらー
- かっぱえびせん
- マルチポスター
- ヘイトクライマー
- 社会不適応者
- 権力志向者
- 聴覚障害者
- 対話不能者
- 対話拒否者
- 犯罪予備軍
- 自宅警備員
- 小児性愛者
- 同性愛者
- 嫌われ者
- 白獅子会
- 少年愛者
- 無神論者
- 創価学会
- 日蓮正宗
- 底無し沼
- こけ未練
- 讒毀者
- 前科者
- 転落者
- 卑怯者
- 偽善者
- 中二病
- 奸計家
- 二枚舌
- つんぼ
- ヒール
- 荒らし
- 非モテ
- ニート
- ホモ
- ひも
- 無職
- 狂人
- 悪魔
- 蛆虫
- 鬼畜
- 粘着
- 専属
- 文盲
- 誣告マニア
- 歪曲マニア
- 粘着マニア
- 烙印マニア
- 詮索マニア
- 粗捜しマニア
- 根比べマニア
- 肥大化マニア
- モビングマニア
- 古傷抉りマニア
- 魔女狩りマニア
- 誹謗中傷マニア
- 個人攻撃マニア
- 編集合戦マニア
- バッシングマニア
- 足引っ張りマニア
- 揚げ足取りマニア
- レッテル張りマニア
- チキンレースマニア
- ネットいじめマニア
- 根掘り葉掘りマニア
- レイアウト破壊マニア
- ガスライティングマニア
- バトルロワイヤルマニア
- ソーシャルリンチマニア
- ソーシャルメディアスクラムマニア
- 誹謗中傷依存症患者
- 誹謗中傷中毒患者
- いじめ依存症患者
- ヒール渇望症患者
- ADHDの人物
- LGBTの人物
- 狂気の人物
- 狂暴な人物
- 狡猾な人物
- 執拗な人物
- 傲慢な人物
- 冷酷な人物
- 陰湿な人物
- 我儘な人物
- 無責任な人物
- 懲りない人物
- 無反省の人物
- 偏執狂の人物
- 執念深い人物
- 依存症の人物
- 後ろ向きの人物
- 良心が無い人物
- 諦めが悪い人物
- 非協調的な人物
- 被害妄想の人物
- 学習障害の人物
- 人格障害の人物
- 精神障害の人物
- 発達障害の人物
- 引籠もりの人物
- 解雇された人物
- 努力をしない人物
- 倫理観が無い人物
- 心理が歪んだ人物
- 暇を持て余す人物
- 難癖を付ける人物
- 破滅を目指す人物
- 心に愛が無い人物
- 群馬県出身の人物
- 所沢市在住の人物
- 葛飾区勤務の人物
- 虚言癖を持つ人物
- 統合失調症の人物
- ダークサイドの人物
- 罪を自覚しない人物
- 罪の意識が無い人物
- 社会復帰途上の人物
- 人の反感を買う人物
- 人から恨まれる人物
- 反省ができない人物
- 説得が通じない人物
- 信頼の置けない人物
- 自己主張の強い人物
- 田代砲大歓迎の人物
- インターネットの人物
- 常に不満を抱える人物
- 解離性統一障害の人物
- 聞く耳を持たない人物
- 色眼鏡を外さない人物
- 悪魔に魂を売った人物
- 自己顕示欲の強い人物
- 田母神砲大歓迎の人物
- 往生際が良くない人物
- 職業運に恵まれない人物
- 説得を受け入れない人物
- 誹謗中傷をやめない人物
- 円満解決を望まない人物
- アルコール依存症の人物
- 平和より戦争を好む人物
- 誹謗中傷を趣味とする人物
- 誹謗中傷を生業とする人物
- 全てを悪意に解釈する人物
- インターネット依存症の人物
- 努力を正当に評価しない人物
- 他の趣味を見付けるべき人物
- ハピネスチャージが必要な人物
- ネットから遮断されるべき人物
- 戸塚宏に扱いてもらうべき人物
- 田代政を反面教師にすべき人物
- 田代砲の嵐に闘志を燃やす人物
- 精神障害者福祉手帳を持つ人物
- 所沢市立所沢小学校出身の人物
- ブロック処分が全然堪えない人物
- 某・霊能者に呪殺されるべき人物
- 職業訓練を本気で受けるべき人物
- 大藪順子と接する資格の無い人物
- 小林美佳と接する資格の無い人物
- 心の中の悪魔を燃やされるべき人物
- 誹謗中傷をライフワークとする人物
- 他人の努力を平気で蹂躙出来る人物
- 切磋琢磨という発想を持たない人物
- 島田紳助に本当に潰されるべき人物
- 義家弘介の再教育を受けるべき人物
- 辻井伸行の爪の垢を飲ませたい人物
- 田母神俊雄に愛国心を学ぶべき人物
- 他人の人権を平気で蹂躙出来る人物
- 星椎水精に浄霊をしてもらうべき人物
- ふんどしカメラに夢中になるべき人物
- 実は巨悪に挑む勇気を持たない小心者
- 春名風花のしっぽで癒されるべき人物
- 何かにやり甲斐をを見付けるべき人物
- 初音ミクにみっくみくにされるべき人物
- 相手を打ちのめさないではいられない人物
- 夢中に成れる物事を他に見付けるべき人物
- アパッチ野球軍に入って扱かれるべき人物
- 自分の編集が最新でないと満足出来ない人物
- 長田百合子に根性を叩き直してもらうべき人物
- 長谷川穂積に一遍どつき回された方がいい人物
- 土曜休日の昼間に外出せずにPCに張り付く人物
- ネルソン・マンデラの遺骨を煎じて飲ませたい人物
- 事件・事故・災害の被害者の神経を逆なでする人物
- ユアペディアで無期限投稿ブロック処分となったユーザー
- ウィキペディアで無期限投稿ブロック処分となったユーザー
- 所沢市立所沢小学校pta父親委員会
- Yourpedia加害者の会
- 所沢市国際交流協会
- ユアペディアン
- 厨房
- NTTドコモスマホユーザー
- ウィキペディア
- 媚びる人物
- 猛将・堀秀政とは完全に正反対な人物
- ウィキペディアン
- ウィキホリック
- 全ウィキサイトホリック
- 全ウィキサイトで無期限投稿ブロック処分となったユーザー
- ソックパペッター
- MediaWiki の敵
- 女の敵
- 堀秀政の敵
- 豊臣氏の敵
- 小早川氏の敵
- 男の敵
- コミュニティ の敵
- ネットの管理人 の敵
- 現実世界の管理人 の敵
- 利用者
- ユアペディア
- ユアペディアの利用者
- アンサイクロペディア
- コピペディア
- 2ちゃんねるで投稿禁止処分を下された人物
- YahooBB会員
- 群馬インターネット会員
- mixi会員
- facebook会員
- Twitterの利用者
- Google+の利用者
- ネット中毒者
- Mikomaid
- 大野晋吾
- 大野慶吾
- 富岡市在住の人物
- 富岡市立富岡小学校出身の人物
- 富岡市立富岡小学校pta父親委員会
- 新島学園中学校・高等学校出身の人物
- 長野大学出身の人物
- 青年会議所出身の人物
- 富岡青年会議所出身の人物
- 富岡ユネスコ
- 富岡市国際交流協会
- 鏡獅子会
- カブラJFC
- PTA役員の人物
- 妻子がいる人物
- コスプレイヤー
- 羞恥プレイヤー
- ヘリテイジ仮面
- 悪の組織デビルシャドウ
- ロリコン
- アスペルガー障害の人物
- メンタルヘルス
- 躁病の人物
- 回避性パーソナリティ障害の人物
- 卑屈な人物
- 真如苑信者
- ユアペディア被害者の会
- 見た目は大人、頭脳は子供
- 犯罪者
- 殺人鬼
- 朝鮮人
- クソジジイ
- キチガイ
- 在日コリアン
- 創価学会に折伏をしてもらうべきでもない人物
- 死ね
- 氏ね
- オウム真理教
- 顕正会
- 霊友会
- チンカス
- ゴキブリ
- 社会のゴミ
- 白痴
- 売国奴
- 非国民
- 国賊
- クズ
- 役立たず
- バカチョン
- 工作員
- 腐れ外道
- 公害
- 精神異常者
- 知恵遅れ
- キモヲタ
- 産業廃棄物
- 左翼
- 死刑囚候補