家老

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家老(かろう)とは、武家の家臣団のうち最高の地位にあった役職で、複数人おり合議によって政治経済を補佐した。

概要[編集]

武家社会の勃興した鎌倉時代よりみられるが、室町時代までは年寄(としより、おとな)・宿老(しゅくろう)・執事(しつじ)などと呼ばれた。通常、家臣団の中でも重臣と呼ばれる有力な家臣が任ぜられた。また主家の譜代家臣が任ぜられるのが通常で、主家の分家などの一門の者が、家老職に就くことは原則的にはなかった。

しかし次第にこの原則は崩れ、財政難などから、藩主の庶子は、養子縁組先がないと、家老はおろか給人級の家臣として分家させられることも珍しくなくなった。分家筋で家老職をはじめ家臣の役職に就くことは、主家の親戚から家臣になったことを意味し、主家断絶時の相続権が無くなったと見なされることが通例であった。

江戸時代になると、幕府の置かれた江戸には、各・将軍家の旗本屋敷(江戸屋敷)が置かれ、ここに在勤した家老を江戸家老江戸詰家老などと呼んだ。

一方、知行地に在勤した家老を国家老在所家老と呼んだ。主君が城主以上のときは、留守居家老たる城代家老が置かれたが、主君が城主格や、無城のときは、留守居たる在所家老は存在したが、城代家老との名称は用いなかった。

城代家老と、国家老の両方が設置されているときは、城代家老のほうが格上なのが通例である。複数人いた家老のうち最も地位の高いものは筆頭家老家老首座一番家老など呼ばれた。政治・経済の中心となって差配する家老を藩によっては、仕置家老と呼んだ。城代家老と仕置家老が併置された藩にあっては、どちらが格上かは、一義的に断定できない。

家老は、御三家付家老や、御三卿付きの家老を除き、将軍の陪臣であるから、将軍に謁見の資格がないのが大原則である。

しかし、例外もあり親藩や、譜代大名の家老連綿の家系の多くには、幕府から、将軍家の旗本の格式を与えられ、将軍に謁見の資格を持ち、関所で下馬することを免除された。徳川四天王の家老の中には、旗本の格式だけでなく幕府からも併せて家禄を受ける場合もあった。
一方、外様大名の家老連綿の家系の場合は、将軍に謁見の資格を与えられるのは、万石以上や特別な由緒を持つ者に限られた極めて稀な例であった。

江戸時代初期までは、家老と年寄が未分化であった藩も多かったが、次第に年寄の上層部が家老として、分化するようになり、年寄と呼称される役職は、家老そのものではなく、家老に次ぐ役職である場合が一般化していった。年寄職と、中老職が同義として、使用される藩もあった。 小藩の場合は、家老に次ぐ年寄は、置かれないことがほとんどであった。

大藩の家老[編集]

大藩の家老大名並みに1万石以上の石高を有し、自身の知行地にや陣屋を持つものもあった。1万石以上の知行地を持つ家臣を大名分と呼んだ。
江戸時代の家老として最も高禄であった家系は、加賀100万石の本多家5万石である。上杉景勝(120万石)の家老、直江兼続(直轄6万石 寄騎領24万石 計30万石)の養子となった本多政重(5,000石)が、関ヶ原の合戦後に大減封を受けた上杉家を退去して、加賀藩前田氏に仕官して、本多姓に復したのが始まりである。「加賀藩の領地の一部(越前)を幕府に返還せよ」との命令を撤回させた交渉の勲功で、大加増を受けた。

小藩及び、幕府旗本の家老[編集]

小藩(1万石)の家老は、家老連綿の家格の出身者の場合で、おおむね300石前後の蔵米取りの者が多かった。もっとも田畑を給人地として与える割合の大きい藩では、家禄はさらに低く抑える例もあった。
ここでいう給人地とは、地方知行制で云う給人地(=領地)を指すのではなく、家格に応じて支給される田畑のことである。
この制度を導入していた小藩では、家老などの上級層は、家老であっても小身な者が多かったので、江戸時代後期となり、商品経済が浸透して物価高となると、その家臣(つまり陪臣)に農作業をさせて、中級層以下の藩士は、自ら家族と共にこれに当たり、半ば農民化していたのである。

幕府旗本の場合は、3,000石以上の大身旗本、及び家禄が約400石ながら、交代寄合であった徳川将軍家の本家筋に当たる松平太郎左衛門の家系など特別な場合を除き、家老は置かれないのが通例である。おおむね500石以上、3,000石未満の旗本の場合は、家臣の最高位の職名は、用人であった。家老を設置した将軍家の旗本は、およそ250家(2%未満)であり、その家老は80石から、多くても100石強程度であった。

付家老[編集]

また、分家した家に本家より監視・監督する役割を担って配された家老を付家老と呼ぶ。付家老は、本藩(本家)と支藩(分家)の両方から、家禄を受けている場合と、出仕先の支藩からのみ家禄を受けて、支藩に次第に取り込まれていく場合とがある。
将軍家から、徳川御三家に遣わされていた付家老は、幕府と藩の双方から家禄を受けていた。尾張藩成瀬氏や、紀伊藩水野氏及び、安藤氏のように城主となり、官位、官職を受けていた付家老もいた。これらは、家老と言えど大名と同等の格式を与えられ、主家の参勤交代随伴時においても、大名並みの格式と威光を放ったとされる。なお、水戸藩の中山家や尾張藩の成瀬家などの『五家』は大名への昇格、独立を画策して連携するようになる。
 御三卿付きの家老は、御三卿が将軍家の家族という扱いであったため、江戸城留守居と並ぶ、将軍家旗本の最高の役職とされたが、3,000石級以下の旗本で、有能な者が任じられることも珍しくなかった。

家老格[編集]

江戸時代において家老職は譜代重鎮の家臣による世襲、もしくは有力な譜代の家臣(家老職を出せる家格の家臣)による交代制となった。
しかし、譜代の家臣ではなくとも家中(かちゅう)で実力を認められて家老に準ずる地位に登用されるものもおり、彼らを家老格家老並家老列などと呼ぶこともあった。
また自分の家が連綿としてきた家格以上の役職である家老に抜擢された者を、「一代家老」と呼ぶこともある。
家老格という呼称には、家老職を出せる家格(家老級の家柄)という意味と、一代家老という意味で使用される場合の2通りに使われることがある。加賀藩前田家のような大藩になると家老職を出せる家格(家老級の家柄)は、70家にも及んだ。

一代家老[編集]

江戸時代も年代が経つにつれて、一代家老が登用される例が微増して行き一代家老に対して、家老連綿の家柄である門閥出身の家老を、永代家老と呼んだ。
家老の異称として奉行、執政参政を使うこともあった。

有能な者が実力によって、一代家老(家老格)に登用された代表例として、幕末に活躍した長岡藩河井継之助秋儀(郡奉行奉行格加判)、薩摩藩調所笑左衛門広郷(後に永代家老入り)、長州藩村田四郎左衛門清風、そして、古くは元禄期の赤穂浪士の討ち入りで、有名になった赤穂藩大野九郎兵衛知房寛政期の米沢藩上杉治憲の改革のブレーンであった莅戸善政などが挙げられる。

なお、一代家老を数代輩出した家老並の家格の家が永代家老に昇格する藩も存在する。

家老制の弊害[編集]

家老は、特別な大藩を除き2人から数人程度置かれたが、政治改革や世継ぎ問題に絡んで派閥抗争が起きた。このような抗争が「お家騒動」の元凶となり、最悪の場合、改易にまで至ることがあった。
また家老は、主君のための責任要員的な性格があったとの指摘もあり、主君の身代わりとして責任を取ることもあった。場合によっては切腹斬首、最悪の場合は切腹や斬首の上に家格降格や家名断絶を受ける形で、その責めを全うすることもあった。

また、徳川家斉治世中は御三家の付家老は自身らの独立のために将軍の子女を藩主や藩主正室にするように画策し、藩内対立や将軍の子女を迎えることによる藩財政悪化に引き起こしている。

徳川家における家老[編集]

徳川家ではこれに当たる役職を老中と呼んでいた。江戸幕府開府後も、幕閣最高位の役職としてこの名を踏襲した。また、臨時の役職として老中の上に大老が置かれた。ちなみに徳川氏がまだ三河国の一地方大名であった時代は、酒井家が家老(老中)連綿の家柄であった。また石川数正が家康の信任を得て、この職に昇進した。

陪臣の叙爵[編集]

尾張家・紀伊家・水戸家の御三家並びに加賀前田家の家老はそれぞれ決められた定数内で従五位下諸大夫へ叙爵された。前任者が死没・隠居し、欠員が発生した後に、主家より幕府へ推挙され、叙爵した者は死没・隠居するまでその官位を保持していた。通常の諸大夫成の場合、幕府より朝廷への年賀使として高家が上京する際に口宣頂戴奉書をまとめて持参し、その高家が口宣案をまとめて江戸へ持ち帰るが、四品以上に叙爵される場合同様、幕府の許可後、各主家で独自に使者を派遣し、叙爵の手続きをとっていた。


その他、駿河家甲府家館林家松平越後守家松平越前守家の陪臣叙爵があった。

著名な家老[編集]

関連項目[編集]

出典[編集]