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− | [[福島県]][[石川郡 (福島県)|石川郡]][[玉川村]]に生まれる。生家は[[曹洞宗]]の寺院。[[駒澤大学]] | + | [[福島県]][[石川郡 (福島県)|石川郡]][[玉川村]]に生まれる。生家は[[曹洞宗]]の寺院。[[駒澤大学]]卒業仏教学部卒業。道路人夫、郵便配達夫を経て東京市電職員となり、[[東京交通労組]]を結成して労働争議を指導する。同労組中央執行委員から[[社会民衆党]]公認で[[東京市]]議会議員となる。その後、[[立憲政友会]]に籍を移し、[[東京府]]議会議員を経て、[[1940年]]、[[衆議院議員]][[補欠選挙]]で初当選(通算当選6回)。戦前は[[鳩山一郎]]派に所属する。 |
戦後、[[日本自由党]]結成に参加。鳩山が[[公職追放]]後は[[吉田茂]]に接近し、[[党人派]]の側近として重用される。もっとも、[[官僚]]派を重視し貴族的な趣味の持ち主である吉田と容貌から「狸」とあだ名され、変幻自在な政治姿勢の広川とは体質的にあわなかったとされる。[[山崎首班工作事件]]では、当初、民主自由党幹事長・[[山崎猛_(政治家)|山崎猛]]を首班に押しながら、土壇場で吉田に通報して裏切るなど行動に一貫性が無かった。それでも、[[1951年]]には自由党[[総務会長]]、[[第3次吉田内閣]]の[[農林大臣]]を歴任して吉田には重用され、自由党内で約30名余を従えて広川派を形成するなど、大物政治家として一定の地位を確立した。 | 戦後、[[日本自由党]]結成に参加。鳩山が[[公職追放]]後は[[吉田茂]]に接近し、[[党人派]]の側近として重用される。もっとも、[[官僚]]派を重視し貴族的な趣味の持ち主である吉田と容貌から「狸」とあだ名され、変幻自在な政治姿勢の広川とは体質的にあわなかったとされる。[[山崎首班工作事件]]では、当初、民主自由党幹事長・[[山崎猛_(政治家)|山崎猛]]を首班に押しながら、土壇場で吉田に通報して裏切るなど行動に一貫性が無かった。それでも、[[1951年]]には自由党[[総務会長]]、[[第3次吉田内閣]]の[[農林大臣]]を歴任して吉田には重用され、自由党内で約30名余を従えて広川派を形成するなど、大物政治家として一定の地位を確立した。 |
2022年8月18日 (木) 20:42時点における版
広川 弘禅(ひろかわ こうぜん、廣川 弘禪、1902年(明治35年)3月31日 - 1967年(昭和42年)1月7日)は、日本の政治家、僧侶。本名は弘。正三位勲一等旭日大授章。
来歴・人物
福島県石川郡玉川村に生まれる。生家は曹洞宗の寺院。駒澤大学卒業仏教学部卒業。道路人夫、郵便配達夫を経て東京市電職員となり、東京交通労組を結成して労働争議を指導する。同労組中央執行委員から社会民衆党公認で東京市議会議員となる。その後、立憲政友会に籍を移し、東京府議会議員を経て、1940年、衆議院議員補欠選挙で初当選(通算当選6回)。戦前は鳩山一郎派に所属する。
戦後、日本自由党結成に参加。鳩山が公職追放後は吉田茂に接近し、党人派の側近として重用される。もっとも、官僚派を重視し貴族的な趣味の持ち主である吉田と容貌から「狸」とあだ名され、変幻自在な政治姿勢の広川とは体質的にあわなかったとされる。山崎首班工作事件では、当初、民主自由党幹事長・山崎猛を首班に押しながら、土壇場で吉田に通報して裏切るなど行動に一貫性が無かった。それでも、1951年には自由党総務会長、第3次吉田内閣の農林大臣を歴任して吉田には重用され、自由党内で約30名余を従えて広川派を形成するなど、大物政治家として一定の地位を確立した。
しかし、自由党幹事長の増田甲子七や、副総理となる緒方竹虎の台頭によって政治基盤が脅かされると、反吉田で鳩山内閣成立に燃える三木武吉の工作によって、吉田陣営から離反することを決意。1953年には佐藤栄作の自由党幹事長就任に反対の立場をとり、さらにバカヤロー発言問題による吉田の懲罰動議をめぐる採決では、現職閣僚でありながら鳩山派議員に同調して本会議を欠席し、懲罰動議可決の元凶となった。そのため、激怒した吉田により3月2日に農相を罷免された。直後に再び鳩山に接近し、バカヤロー解散を受けて実施された総選挙では分党派自由党から立候補したが、自由党幹事長の佐藤栄作に狙い撃ちされ、自由党公認の対立候補者である元東京都局長の安井大吉を吉田、佐藤が全面的に支援したため落選した。
1955年の総選挙では与党日本民主党から立候補し、鳩山ブームもあいまって自己最高得票でトップで当選し国政に復帰(日本自由党から出馬した安井大吉は落選している)。同年、自由民主党結党に参加するが、この頃にはかつて一派を率いた政治力は既に失われていた。1958年の総選挙では正式赦免された賀屋興宣が東京3区から出馬することになり、選挙区を出身地である福島2区に移して出馬するも、最下位当選者と254票差の僅差で次点で落選した。1960年・1963年の総選挙では再び選挙区を東京3区に戻して立候補するが連続で落選し、完全に失脚した。1967年の総選挙にも自民党公認で出馬予定であったが、選挙直前の1967年1月7日に急死した。なお、この選挙では妻の広川シズエ(本名・廣川志津江)が急遽、夫に代わって出馬し当選したが、1969年の総選挙では同じ自民党から小坂徳三郎が立候補したため大差で敗れ引退した。
関連項目
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