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同年10月『元禄女』([[野村芳亭]]監督)の腰元役でデビューする。 | 同年10月『元禄女』([[野村芳亭]]監督)の腰元役でデビューする。 | ||
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− | + | [[1927年]](昭和2年)、田中絹代に惚れ込んだ清水宏監督に求婚され、母ヤスは渋ったが、城戸四郎が間に入り、周囲公認の試験結婚に入った。清水は新しい出発にさいして、蒲田町女塚四四九番地の新築に移り、絹代はその家に入って、彼との共同生活を始めた。2年間の同棲生活に入るが、清水の女癖の悪さが発覚し、最後は清水が絹代に暴力を振るい、怒った絹代が座敷で放尿し、2人の関係は1年と少しで終わりとなった、 | |
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戦後は1952年の『西鶴一代女』を筆頭として、多くの[[溝口健二]]監督作品に出演した。 | 戦後は1952年の『西鶴一代女』を筆頭として、多くの[[溝口健二]]監督作品に出演した。 | ||
『西鶴一代女』では「この作品と心中するつもりの先生と心中しよう」と | 『西鶴一代女』では「この作品と心中するつもりの先生と心中しよう」と | ||
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1977年(昭和52年)1月12日、順天堂病院に入院し、3月21日に死去した。 | 1977年(昭和52年)1月12日、順天堂病院に入院し、3月21日に死去した。 | ||
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− | 映画監督としての評価は従来までは芳しくなかったが、2020年頃に内外で作品を再評価されつつある<ref>[https://digital.asahi.com/articles/ASPDQ5K1CPDNULZU00G.html 現代に「発見」された監督・田中絹代]朝日新聞,2021年12月26日</ref><ref>[https://www.nikkei.com/article/DGXZQOCD0529F0V01C21A0000000/ | + | 映画監督としての評価は従来までは芳しくなかったが、2020年頃に内外で作品を再評価されつつある<ref>[https://digital.asahi.com/articles/ASPDQ5K1CPDNULZU00G.html 現代に「発見」された監督・田中絹代]朝日新聞,2021年12月26日</ref><ref>[https://www.nikkei.com/article/DGXZQOCD0529F0V01C21A0000000/ 女性監督の先駆、田中絹代再評価]日本経済新聞,2021年10月30日</ref>。カンヌ映画祭のクリスチャン・ジュンヌは「田中絹代」の偉大さを発見したという。香川京子は「都会的ではない、内面的な思考の回路を持って」いたことだという<ref>村川英(2-16)「映画監督 田中絹代」城西国際大学紀要 24(5),pp. 57-74</ref>。 |
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2021年12月29日 (水) 00:26時点における最新版
田中 絹代(本名、たなか きぬよ、1909年11月29日 - 1977年3月21日)は、日本の女優。 50年以上のキャリアを持ち、250以上の映画に出演した。 1940年から1954年まで溝口健二監督の主要作品に出演したことで 世界的に知られる。
経歴[編集]
山口県下関市関後地村に1909年(明治42年)12月29日(戸籍上は11月29日)、 父・田中久米吉と母・ヤスの間に生まれる [1]。
四男四女の末娘であった。父親の久米吉は下関市で呉服商を営んでいたが、 絹代が生まれた1年半後に亡くなった [2]。
1916年(大正5年)4月、下関市立王江尋常小学校に入学する。 同年9月、満6歳の時に大阪市天王寺村(現在の天王寺区)へ移住する。 小学校に通う傍ら筑前琵琶の宮崎錦城に弟子入りし、10歳で名取になり 田中錦城の名前を貰う。 1924年(大正13年)松竹下加茂撮影所へ入社し、14才で映画界に入る。 同年10月『元禄女』(野村芳亭監督)の腰元役でデビューする。 松竹キネマ下賀茂撮影所は業績不振で閉鎖され、田中絹代は野村芳亭監督、清水宏監督とともに松竹キネマ蒲田撮影所に移籍する。 蒲田撮影所に移っても大部屋のままで、撮影所長の城戸四郎に子ども扱いにされ、危うく首になりかけるが城戸四郎の顔を見据えて座り続けて、 首になるのを免れた[1]。
大部屋女優の給料は通常10~15円であるが、絹代は破格の50円であった。 昭和2年4月公開の五所平之助『恥ずかしい夢』で初めて主役となった作品が成功し、主演女優の地位が約束された。昭和2年7月7日の俳優昇格式に17歳で準幹部に昇格した。 1927年(昭和2年)、田中絹代に惚れ込んだ清水宏監督に求婚され、母ヤスは渋ったが、城戸四郎が間に入り、周囲公認の試験結婚に入った。清水は新しい出発にさいして、蒲田町女塚四四九番地の新築に移り、絹代はその家に入って、彼との共同生活を始めた。2年間の同棲生活に入るが、清水の女癖の悪さが発覚し、最後は清水が絹代に暴力を振るい、怒った絹代が座敷で放尿し、2人の関係は1年と少しで終わりとなった、
島津保次郎、清水宏、五所平之助といった監督に起用された。 1928年には16本の映画に出演し、蒲田撮影所の代表的な女優となった。 1929年(昭和4年)の俳優昇格式では20歳で幹部に昇格した。1931年(昭和6年)、日本初の本格的なトーキー映画『マダムと女房』で主演となった。1938年の『愛染かつら』は空前のヒット作となった。 映画のトーキー化ではセリフ回しの不敵際から、過去の多くのスターが脱落するが、田中絹代は乗り切っていく。1935年(昭和10年)1月には大幹部に昇格する。同年1月に『春琴抄 お琴と佐助』(島津保二郎監督)がクランクインする。 1949年には占領下の日本から日米親善芸術使節として渡米した。 戦後は1952年の『西鶴一代女』を筆頭として、多くの溝口健二監督作品に出演した。 『西鶴一代女』では「この作品と心中するつもりの先生と心中しよう」と メイクで老醜をさらけ出し、体当たりの演技で挑んだ。また木下恵介監督『楢山節考』、熊井啓監督『サンダカン八番娼館 望郷』では、老女を見事に演じた。 1977年(昭和52年)1月12日、順天堂病院に入院し、3月21日に死去した。
人物[編集]
- 明治42年の歳末正月の餅つきが始まったときに母が産気づき、餅つきのお湯がそのまま産湯になった。[1]。
- 絹代の名前は、美人でなくともよいから、肌だけは絹餅のようにという願いを込めて付けられた[1]。
- 天王寺小学校では手工の時間にお稽古の本を見つかり、学校の校庭に立たされ、その後は学校に行かなかった[2]。
- 大正9年、栗島すみ子主演『虞美人草』を見て感激し、映画女優になりたいと思うようになった[2]。
- 女優志願を母親ヤスに申し出ると、平家の流れを引く由緒ある家門を理由に烈火のごとく怒り、反対した。説得には1年半かかった[1]。
- 映画『伊豆の踊り子』は戦前戦後の6回映画化されているが、田中絹代が第一号主演女優である。
- 映画監督の[溝口健二]]と結婚するとの噂が流れたが、溝口健二から求婚や求愛の言葉はなかった[1]。
- 舞台の名優であった井上正夫から芝居への出演を勧められ、松竹の大谷竹次郎社長の許可も出ていたが、撮影所の城戸四郎所長の反対で実現しなかった[1]。
- 松竹の大谷竹次郎社長は俳優は自分のセリフだけでなく、相手役のセリフも勉強することを田中絹代に教えた[1]。
- 溝口健二監督作品の『山椒大夫』では役作りのため監督から減食の厳命がでたためやせ細り、空腹のあまり午前中の撮影が終了後に、京都の町でビフテキを食べたところ、録音の際にツヤのある声を溝口監督に見破られた。
- 田中絹代の成功は1に努力、2に努力によるものであった。
- 『春琴抄 お琴と佐助』の撮影では、1日のうち、目をつむっている時間の方が長かったという役づくりへの執念があった[1]。
再発見[編集]
映画監督としての評価は従来までは芳しくなかったが、2020年頃に内外で作品を再評価されつつある[3][4]。カンヌ映画祭のクリスチャン・ジュンヌは「田中絹代」の偉大さを発見したという。香川京子は「都会的ではない、内面的な思考の回路を持って」いたことだという[5]。
監督作品[編集]
監督作品は6本である。
No | 作品名 | 製作年 | 配給 | 主演 | 助演 | 上映時間 |
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1 | 恋文 | 1953年 | 新東宝 | 森雅之 | 久我美子 | 98分 |
2 | 月は上りぬ | 1955年 | 日活 | 笠智衆 | 山根壽子 | 102分 |
3 | 乳房よ永遠なれ | 1955年 | 日活 | 月丘夢路 | 葉山良二 | 110分 |
4 | 流転の王妃 | 1960年 | 大映 | 京マチ子 | 船越英二 | 103分 |
5 | 女ばかりの夜 | 1961年 | 東宝 | 原知佐子 | 淡島千景 | 95分 |
6 | お吟さま | 1962年 | 松竹 | 有馬稲子 | 高峰三枝子 | 101分 |
ランキング[編集]
- 日本映画女優ランキング100 8位[6]
受賞歴[編集]
- 1939年 第1回映画世界社賞演技賞
- 1948年 第2回毎日映画コンクール女優演技賞
- 1949年 第3回毎日映画コンクール女優演技賞
- 1953年 1952年度世界映画社賞女優主演賞
- 1958年 第12回毎日映画コンクール助演女優賞
- 1959年 1958年度キネマ旬報女優賞
- 1961年 第15回毎日映画コンクール女優助演賞
- 1961年 北海道新聞映画賞助演女優賞
- 1970年 紫綬褒章
- 1975年 日本映画テレビ製作者協会特別賞
- 1975年 第29回映画コンクール助演女優賞
- 1975年 第25回ベルリン国際映画祭銀熊賞 (最優秀主演女優賞)[7]
- 1977年 勲三等瑞宝章(死後)
参考文献[編集]
- ↑ 1.0 1.1 1.2 1.3 1.4 1.5 1.6 1.7 1.8 田中絹代(1984)『私の履歴書』日本経済新聞社
- ↑ 2.0 2.1 2.2 石割平(2008)『日本の映画女優Ⅰ 田中絹代』ワイズ出版
- ↑ 現代に「発見」された監督・田中絹代朝日新聞,2021年12月26日
- ↑ 女性監督の先駆、田中絹代再評価日本経済新聞,2021年10月30日
- ↑ 村川英(2-16)「映画監督 田中絹代」城西国際大学紀要 24(5),pp. 57-74
- ↑ 『オールタイム・ベスト映画遺産』,キネマ旬報社,2014-12-22
- ↑ 田中絹代ぶんか館 http://kinuyo-bunka.jp/kinuyo/award.html