「関東二十日会」の版間の差分
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− | 同年12月下旬、関東会は、関東会加盟7団体の名で、「[[自由民主党 (日本)|自民党]]は即時派閥抗争を中止せよ」と題する警告文を、自民党衆参両議院200名に出した。自民党[[衆議院]][[議員]]・[[池田正之輔]]は、この警告文を、激しく非難した。警告文は、自民党の治安対策特別委員会で、議題に取り上げられた。これは、暴力団が連帯して政治に介入してきた、初めての事件だった。[[河野一郎]] | + | 同年12月下旬、関東会は、関東会加盟7団体の名で、「[[自由民主党 (日本)|自民党]]は即時派閥抗争を中止せよ」と題する警告文を、自民党衆参両議院200名に出した。自民党[[衆議院]][[議員]]・[[池田正之輔]]は、この警告文を、激しく非難した。警告文は、自民党の治安対策特別委員会で、議題に取り上げられた。これは、暴力団が連帯して政治に介入してきた、初めての事件だった。[[河野一郎]]派を除く衆議院議員と[[参議院]]議員は「関東会からの警告文は、児玉誉士夫と親しい河野一郎を擁護するものだ」と判断し、検察と警察当局に関東会壊滅を指示した。 |
1964年6月20日、[[港区 (東京都)|港区]]芝公園で、関東会定例総会が行われた。初代理事長藤田卯一郎に代わって、磧上義光が二代目理事長に就任した。だが、6月24日には磧上は逮捕された。 | 1964年6月20日、[[港区 (東京都)|港区]]芝公園で、関東会定例総会が行われた。初代理事長藤田卯一郎に代わって、磧上義光が二代目理事長に就任した。だが、6月24日には磧上は逮捕された。 |
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関東二十日会(かんとうはつかかい)は、1972年(昭和47年)に結成された、関東地方に本部を置く博徒系暴力団の親睦連絡組織。マフィアにおける“コミッション”と同じ性質のものと捉えられている。前身は関東会。
来歴[編集]
関東会[編集]
1963年12月21日、松葉会、錦政会、住吉会、日本国粋会、義人党、東声会、および北星会が、右翼活動家・児玉誉士夫の提唱する「関東会」に参加。
同日、関東会の結成披露が熱海のつるやホテルで行われた。藤田卯一郎が関東会初代理事長に就任。児玉誉士夫らが1961年に結成した青年思想研究会(略称は青思会)常任諮問委員・平井義一元衆議院議員、青思会諮問委員・白井為雄、青思会常任実行委員・中村武彦、青思会常任実行委員・奥戸足百、松葉会顧問・関根賢、および三代目並木一家・並木量次郎総長が関東会結成披露に出席。
同年12月下旬、関東会は、関東会加盟7団体の名で、「自民党は即時派閥抗争を中止せよ」と題する警告文を、自民党衆参両議院200名に出した。自民党衆議院議員・池田正之輔は、この警告文を、激しく非難した。警告文は、自民党の治安対策特別委員会で、議題に取り上げられた。これは、暴力団が連帯して政治に介入してきた、初めての事件だった。河野一郎派を除く衆議院議員と参議院議員は「関東会からの警告文は、児玉誉士夫と親しい河野一郎を擁護するものだ」と判断し、検察と警察当局に関東会壊滅を指示した。
1964年6月20日、港区芝公園で、関東会定例総会が行われた。初代理事長藤田卯一郎に代わって、磧上義光が二代目理事長に就任した。だが、6月24日には磧上は逮捕された。
1965年1月24日、芝浦の料亭「芝浦園」で、森田政治らの動議により、関東会は解散宣言を行った。
関東二十日会[編集]
1972年3月、松葉会大幹部・永作捨己と稲川会・石井隆匡理事長が話し合い、松葉会幹部と稲川会幹部との食事会が行われることになった。その後、東京向島の料亭「桜茶屋」で、松葉会幹部と稲川会幹部との食事会が開催された。
その後、國粹会から稲川会に、國粹会幹部と稲川会幹部との食事会の提案がなされ、國粹会幹部と稲川会幹部との食事会が開催された。そして住吉連合会・堀政夫総裁から稲川会に、住吉連合会幹部と稲川会幹部との食事会の提案がなされ、住吉連合会幹部と稲川会幹部の食事会が開催された。
同年10月20日、向島の料亭「桜茶屋」で、稲川会、國粹会、東亜会、交和会、義人党、住吉会、松葉会、二率会、双愛会が参加し、博徒系暴力団の親睦団体・関東二十日会が結成された。結成日が20日だったことから、会の名前は関東二十日会とされた。
関東二十日会は、毎月の当番の暴力団を決め、毎月20日午後6時から、当番月の暴力団が決めた場所で、会合を持つようになった。暴力団抗争事件が起ると、当番月の暴力団が、抗争の仲裁に当たることになった。
1984年、稲川会・稲川聖城会長は、稲川会事務局長・田中敬に、関東二十日会と的屋組織との親睦会を開催するよう指示した。田中敬は、住吉連合会局長・佐藤吉郎を通じて、堀政夫に協力を要請した。堀政夫は、極東三浦連合会・松山眞一総長、極東三浦連合会最高顧問・大山光一、極東三浦連合会・池田亨一会長と話し合い、1984年2月14日に関東二十日会と的屋組織との会合を行うことが決まった。
同年2月14日午後1時30分、東京都新宿区の京王プラザホテル42階の「藤の間」で、関東二十日会30人と神農会(飯島連合会、姉ヶ崎連合会、極東関口会、極東三浦連合会など関東の100数十団体の的屋の親睦会)33人との「合同食事会」が行われた。稲川会からは、稲川聖城、稲川会本部長・長谷川春治、稲川会副理事長・森田祥生、稲川会常任理事長・森泉人、田中敬の5人が出席した。会食に先立ち、堀政夫が挨拶を行った。乾杯の音頭は、田中敬がとった。
以後、毎年2月に、関東二十日会と関東神農同志会との「合同食事会」が開かれるようになった。
1992年(平成4年)2月、義人党が解散。1994年、交和会が、稲川会入りし、稲川会興和一家となった。2005年9月、國粹会が関東二十日会を脱退した。
歴代理事長[編集]
- 関東会初代(1963年12月21日〜1964年6月20日) - 藤田卯一郎(松葉会初代会長)
- 関東会二代目(1964年6月20日〜1965年1月) - 磧上義光(住吉会初代会長、住吉一家五代目総長)
参考文献[編集]
- 山平重樹『ヤクザ大全 その知られざる実態』幻冬舎<幻冬舎アウトロー文庫>、1999年、ISBN 4-87728-826-0
- 山平重樹『義侠ヤクザ伝 藤田卯一郎』幻冬舎<幻冬舎アウトロー文庫>、2003年、ISBN 4-344-40476-9
- 山平重樹『一徹ヤクザ伝 高橋岩太郎』幻冬舎<幻冬舎アウトロー文庫>、2004年、ISBN 4-344-40596-X