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*コーナー(1982) E.J.H.コーナー(著)石井美樹子(訳)『思い出の昭南博物館‐占領下シンガポ−ルと徳川侯』〈中公新書〉中央公論社、1982年、{{全国書誌番号|82050003}} | *コーナー(1982) E.J.H.コーナー(著)石井美樹子(訳)『思い出の昭南博物館‐占領下シンガポ−ルと徳川侯』〈中公新書〉中央公論社、1982年、{{全国書誌番号|82050003}} | ||
*中野(1977) 中野雅夫『革命は芸術なり‐徳川義親の生涯』学芸書林、1977年、{{全国書誌番号|78013751}} | *中野(1977) 中野雅夫『革命は芸術なり‐徳川義親の生涯』学芸書林、1977年、{{全国書誌番号|78013751}} | ||
+ | *大東亜建設審議会(1942) 大東亜建設審議会「大東亜建設審議会関係講演会速記録」於内閣総理大臣官舎、1942年6月9日、[http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/3465284/15 NDLJP:3465284/15]、pp.21-33。 | ||
*南洋及日本人社(1938) 南洋及日本人社『南洋の五十年』章華社、1938、[http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1462610 NDLJP:1462610] | *南洋及日本人社(1938) 南洋及日本人社『南洋の五十年』章華社、1938、[http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1462610 NDLJP:1462610] | ||
*山口(1932) 山口愛川「投出しの尾張侯」『横から見た華族物語』一心社出版部、1932年、pp.19-22、[http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1466470/21 NDLJP:1466470/21] | *山口(1932) 山口愛川「投出しの尾張侯」『横から見た華族物語』一心社出版部、1932年、pp.19-22、[http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1466470/21 NDLJP:1466470/21] | ||
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2017年9月4日 (月) 15:30時点における版
徳川 義親(とくがわ よしちか、1886年10月5日 - 1976年9月6日)は、尾張徳川家第19代当主、戦前の侯爵・貴族院議員。1908年に尾張徳川家の家督を継ぐと、同家の愛知県下の財産を大胆に処分し、豊富な財力を背景に徳川美術館や徳川林政史研究所・徳川生物学研究所などを創設。1918年以降、毎年のように徳川農場のあった北海道八雲町で熊狩りをし、「熊狩りの殿様」として知られるようになった。豊富な財力を背景に、ヴァイオリニストの諏訪根自子や、ジョン・バチェラーによるアイヌの研究・保護活動、西川吉之助の口話法によるろう教育など、様々な人物・活動のパトロンとなり、1921年にマレー半島で「虎狩り」をして、「虎狩りの殿様」と称された。
1924年に社会主義者の石川三四郎を支援して貴族院改革案を作成、1925年の治安維持法案に反対するなどして注目されたが、愛知県下の財産処分を巡る旧藩士との対立や、貴族院での政治的孤立もあり、1927年のダンス不敬事件により貴族院議員を辞職した。その後は、右翼団体を主催する清水行之助や大川周明を支援して1931年の三月事件の黒幕となり、南進論を提唱する石原広一郎らと神武会・明倫会を創設するなど、国家革新運動に傾斜。1938年に大和倶楽部を設立し排英運動を推進、1942年に日本軍政下のマラヤで第25軍の軍政顧問となった。
戦後、公職追放を受け、華族制度廃止等により爵位と資産の8割以上を喪失した。追放解除後、1956年に名古屋市長選挙に立候補したが落選。1947年から約20年間にわたり共栄火災の会長を務めた。[1]
目次
経歴
別記事を参照。
評価
政治活動
小田部(1988)pp.17,51-52,222は、義親はその斬新な改革の主張から、1920年代に「革新華族」の1人と目されるなど、政治的に注目されることはあったが、十一会を結成して戦時中重要な官職についた木戸幸一、近衛文麿、原田熊雄らとは異なり、宮中や政府中枢に通じる有力なブレーンを持たなかったため合法的な機構・組織を通じての政治的な影響力は弱く、このことが冒険主義的で、陰謀めいた政治行動に結びついた、とし、戦後の華族制度の廃止によって、侯爵としての社会的権威と尾張徳川家の巨額の資産を失った後の義親の活動は精彩を欠き、華族制度の廃止によって「革新華族」としての思想と行動はその歴史的使命を終えた、と評している。
植物学者として
英国人の植物学者・E.J.H.コーナー(Corner)は、1946年に『ネイチャー』紙に日本軍による占領期間中の体験記事を寄稿し、また義親の没後に著書'The Marquis: A tale of Syonan-to'(日本語版:コーナー,1982)を出版して、日本占領下のシンガポール植物園で、田中館秀三らの庇護により、自身が日本軍の収容所に収容されずに植物園の維持・管理を続けることができ、義親が羽根田弥太らとともに文化遺産の保護や自然科学の諸研究にいそしんでいたことを紹介した[2]。このことは、「義親が羽根田や田中館、郡場寛とともに博物館や植物園を戦火や略奪から守り通し、敗戦後、ほとんど無傷のまま返還した」として科学朝日(1991)p.199-200などにも紹介されており、義親は日本植物学会編『日本の植物学100年の歩み』(1982年)でも植物生理学者として扱われているという[3]。
しかし、義親は、生物学を学んだ華族の多くが幼少期から生物に興味を持っていたのとは異なり、1911年に東京帝国大学理科大学動植物学科に学士入学するまで生物に強い関心を持っていなかったとされ、また徳川生物学研究所の設立後、やがて植物学からは遠ざかり、研究所のスポンサーに徹したとされている[4]。特に、徳川(1963)p.101で、徳川生物学研究所の設立後、貴族院議員としての俗用が多くなったため、1927年4月以降は「理科を思いきって、また歴史に逆戻り」し、以後は林政史の研究の続きをした、と述懐している点が注目される。1927年以降も、『徳川生物学研究所輯報』に紹介されている植物学の研究論文の中には、共著者に義親の名を冠している論文が散見されるが、もし徳川(1963)p.10の記述が本当であれば、論文の執筆には本人は関わっていなかった可能性がある。
虎狩りの殿様
1921年のマレー旅行の目的について、後世の本人の回想に基づく記録では、原因不明の蕁麻疹に悩み、医師に転地療養を勧められたためで、『朝日新聞』を通して「義親が虎狩りをしに来る」という誤報を伝え聞いて待ち構えていたジョホールのスルタンに誘われて成り行きで狩猟をすることになった、と説明されていることが多い[5]。
しかし、当時の旅行記(徳川,1926)によると、義親らが最初に狩猟許可を得るためジョホールを訪問したときスルタンは不在だったとされていることから、アポなし訪問だったことが伺われ、またスルタンを再訪して狩猟の許可を得た後、かなりの期間を狩猟に費していることから、当初からマレー半島での狩猟を主な目的としていたと思われる。小田部(1988)p.33は中野(1977)p.76や徳川(1963)p.113などの『朝日新聞』誤報説を否定している。他方で、小田部(1988)p.33や徳川(1942a)は、旅行の本当の目的は、軍用地図の作成のための資料収集だったとし、科学朝日(1991)pp.190-191は「会議出席のため」だったとしているが、徳川(1942a)や科学朝日(1991)は1929年にジャワ島での「会議」に出席した後に行なわれた2度目の旅行と1921年の最初の旅行を混同していると考えられ、徳川(1926)からは、1921年の旅行で軍事情報の収集に努めたという雰囲気はあまり感じられない。
マレーで虎狩りをした話は世間に流布し、帰国後、理容業界の組合から「虎狩り」が「虎刈り」に通じるという語呂合わせから会長職就任を打診され、これを承諾したとの逸話がある[6]。
また、中野(1977)p.76は、マレーでの虎狩りの後、義親は無駄に生物の生命を奪うことを反省し、虎狩の殿様といわれるようになったが、狩猟らしい狩猟はやめた、としている。しかし、義親はマレー旅行の後で宮内庁主猟官に任命され1925年9月まで在任しており[7]、1926年に加藤高明が亡くなったときには伊豆半島で猟をしていたという話があり[8]、1929年の2度目のマレー旅行のときにも狩猟をしている(徳川,1931)。また徳川(1973)p.120では、戦争を契機に殺生をやめた、としているが、1949年に義親は大日本猟友会の会長に就任している[9]。
パトロンとして
義親は様々な人物・活動のパトロンとなったが、「経歴」の節で紹介した他に、徳川(1973)巻末の「徳川義親関係略年表」には以下の資金提供が紹介されている。
- 1918年 名古屋市の米価廉売資金に2万円寄附
- 1921年11月 済生会へ3万円寄附
- 1922年 八雲中学校建設に6万円寄附
- 1923年9月 震災救護局に15万円寄附
- 1925年3月 東照宮300年祭記念会に1万円寄附
- 1925年7月 名古屋公会堂建設に10万円寄附
- 1928年8月 八雲産牛馬組合へ土地4町4反7畝と1万円寄附
- 1930年6月 聾教育振興会へ2万円寄附
徳川(1963)pp.145-146は、パトロンはどうあるべきかを論じ、「その人の成功を助けるもので、自分のため、自分のなぐさみのためにするものであってはいけない。援助すればそれでいいのである。『いい』と思ったからこそ助けるのであって、成功さえすればそれでいい、なまじっかな世話はやかない方がいいのである。」としている。特にヴァイオリニスト・諏訪根自子の留学を支援したことについて、「バイオリンなんて好きでもなんでもなかった」が、「彼女が気の毒だったので」支援した、「パトロンがいちいち口を出したら、当人もやりきれまい。ただよくなってくれたらいい。」と述懐し、日本社会党の結成についても同じことだった、としている。
影武者
義親は尾張徳川家の当主として、旧尾張藩士の家柄だったり、同家の家職に就いたりしていた人を使役する立場にあったため、義親の事跡とされていることで本当に本人がしたことなのか判然としないことがままあり、その中には関連書籍の中で「ネタばらし」されている事項もある。
義親が88歳のときに公刊された『最後の殿様‐徳川義親自伝』(徳川,1973)は、中野(1977)p.243によると、タイトルに相反して、自伝ではなく中野の筆によるものであり、義親は、親しい友人・知人に「中野君に書いてもらった。ぼくはまる儲かりだ」と語っていた、とされている。
家族
妻・米子との間に2男3女をもうけた[10]。
- 長男・義知(五郎太)は松平恒雄の次女・正子と結婚[11]。
- 長女・絹子は旧公卿の大炊御門経輝(侯爵)と結婚した[13]。
- 次女・春子は西郷吉之助(侯爵)と結婚した(のち離婚)[14]。
- 次男・義龍は大給左(おぎゅう きちじ)伯爵の養子となり、朝香宮湛子(きよこ)と結婚した[15]。
- 三女・百合子は佐竹義栄(侯爵)と結婚した[16]。
趣味
栄典
- 1908年4月 従五位[19]
- 1915年6月 従四位[20]
- 1921年11月 紺綬褒章[21]
- 1924年5月 勲三等瑞宝章[22]
- 1927年11月 紺綬褒章飾版[23]
- 1933年7月 正三位[24]
- 1934年4月 旭日中綬章[25]
- 1935年12月 ダルジャ・カラバット(Darjah Kerabat)第1等勲章(ジョホール王族勲章)[26]
- 1940年4月 勲二等瑞宝章、支那事変従軍記章[27]
著作物
著書
- 徳川(1973) 徳川義親『最後の殿様 徳川義親自伝』講談社、1973年、全国書誌番号:73011083
- 徳川(1963) 徳川義親「私の履歴書‐徳川義親」日本経済新聞社『私の履歴書 文化人 16』1984年、pp.85-151、ISBN 4532030862 初出は1963年12月。
- 徳川(1959b) 徳川義親『とくがわエチケット教室』黎明書房、1959年、NDLJP:9543592 (閉)
- 徳川(1959a) 徳川義親『尾張藩石高考』徳川林政史研究所、1959年、NDLJP:2490629 (閉)
- 徳川(1958) 徳川義親『木曽の村方の研究』徳川林政史研究所、1958年、NDLJP:3008795 (閉)
- 徳川(1942b) 徳川義親『新国民礼法』目黒書店、1942年、NDLJP:1450596
- 徳川(1942a) 徳川義親『きのふの夢』那珂書店、1942年、NDLJP:1123504 (閉)
- 徳川(1941b) 徳川義親『日常礼法の心得』実業之日本社、1941年、NDLJP:1449739
- 徳川(1941a) 徳川義親「4 日常生活における礼法の修練」東京高等師範学校附属国民学校初等教育研究会『国民科修身教育の実践‐国民学校礼法教授要項案』大日本出版、1941年、NDLJP:1275481 (閉)、pp.20-26
- 徳川(1940) 徳川義親『七里飛脚』国際交通文化協会、1940年、NDLJP:1685487 (閉)
- 徳川(1939) 徳川義親『江南ところどころ』モダン日本社、1939年、NDLJP:1878583 (閉)
- 徳川・朝倉(1937) 徳川義親・朝倉純孝『馬来語四週間』大学書林、1937年、NDLJP:1222953 (閉)
- 徳川(1931) 徳川義親『じゃがたら紀行』郷土研究社、1931年、NDLJP:1879360 (閉)
- 徳川(1926) 徳川義親『馬来の野に狩して』坂本書店出版部、1926年、NDLJP:983300
- 徳川(1924) 徳川義親『貴族院改造私見概要』私家版、1924年、NDLJP:1910485 (閉)
- 徳川(1921) 徳川義親『熊狩の旅』精華書院、1921年、NDLJP:964324
- 徳川(1915) 徳川義親『木曽山』私家版、1915年、NDLJP:950927
雑誌記事
- 植物学関係の論文については、徳川生物学研究所#徳川義親の研究を参照。
- 徳川(1974) 徳川義親「"最後の殿様"徳川義親氏に聞く」共済保険研究会ほか編『共済と保険』vol.16、no.9、通巻185号、1974年9月、pp.41-60、NDLJP:2648882/21 (閉)
- 徳川(1971) 徳川義親「びっくりした話」名古屋郷土文化会『郷土文化』vol.26、no.1、通巻100号、1971年6月、pp.4-5、NDLJP:6045131/4 (閉)
- 徳川(1958) 徳川義親「親友大川君のこと」『新勢力 大川周明特集号』v.3、no.12、新勢力社、1958年11月[28]
- 徳川(1942) 徳川義親「南方建設の進展」『太平洋』太平洋協会、1942年7月[29]
- 徳川(1942) 徳川義親「南方経営私見」『太平洋』太平洋協会、1942年2月[30]
- 徳川(1911) 徳川義親「説苑 吾妻国考を読みて」日本歴史地理学会『歴史地理』vol.17、no.4、吉川弘文館、1911年4月、pp.59-60、NDLJP:3566387/42 (閉)
新聞記事
- 1942年のマライ半島視察旅行の紀行文[31]
- 徳川(1942-08-07) 徳川義親「馬来縦断記 (12)」『朝日新聞』1942年8月7日
- 徳川(1942-07-25) 徳川義親「馬来縦断記 (1)」『朝日新聞』1942年7月25日
- 徳川(1942-02-09) 徳川義親「文化啓発の手引役」『朝日新聞』1942年2月9日[32]
- 徳川(1942-02-04) 徳川義親「(赴任の抱負)」『朝日新聞』1942年2月4日[33]
- 1921年-1922年の欧州旅行前半の紀行文[34]
- 徳川(1922-06-29) 徳川義親「西に旅して (NA)」『報知新聞』1922年6月29日
- 徳川(1922-02-07) 徳川義親「西に旅して (1)」『報知新聞』1922年2月7日
徳川資料
義親は軍政顧問時代も日記をつけ続けており、また軍政顧問在任期間中の軍政関係資料を保存して日本に持ち帰った[35]。軍政関係資料(徳川資料)は防衛庁戦史部に寄贈され、マレー・スマトラの軍政の実態を知る上で貴重な資料となっている[36]。
参考文献
- 本人の著書については著書の項を参照。
- 名古屋市(2017) 名古屋市蓬左文庫トップページ 2017年7月24日更新、2017年9月2日閲覧。
- 香山(2016) 香山里絵「『尾張徳川美術館』設計懸賞」徳川美術館『金鯱叢書』v.43、2016年3月、pp.103-131
- 香山(2015) 香山里絵「明倫博物館から徳川美術館へ‐美術館設立発表と設立準備」徳川美術館『金鯱叢書』v.42、2015年3月、pp.27-41
- 香山(2014) 香山里絵「徳川義親の美術館設立想起」徳川美術館『金鯱叢書』v.41、2014年3月、pp.1-29
- 林政研(2013) 徳川林政史研究所ホーム > 徳川林政史研究所の歴史 2013年7月31日更新版、2017年8月30日閲覧。
- フォーラム(1998) 「日本の英領マラヤ・シンガポール占領期史料調査」フォーラム編『日本の英領マラヤ・シンガポール占領:1941~45年:インタビュー記録』〈南方軍政関係史料33〉龍溪書舎、1998年、ISBN 4844794809
- 中村・増田(1996) 中村輝子・増田芳雄「山口清三郎博士の戦中日記」帝塚山大学『人間環境科学』vol.5、1996年、pp.85-112、恒久リンク:http://id.nii.ac.jp/1288/00000429/
- 大石(1994a) 大石勇『伝統工芸の創生‐北海道八雲町の「熊彫」と徳川義親』吉川弘文館、1994年、ISBN 4642036563
- 下記の4つの論文をもとに若干の加筆修正を行なったもの[37]。
- 大石(1993) 大石勇「徳川義親と八雲町の『熊彫』」『徳川林政史研究所研究紀要』no.27、1993年、pp.93-158
- 大石(1992) 大石勇「伝統工芸『熊彫』の創生‐大正14年度、北海道八雲町の農村美術運動」『徳川林政史研究所研究紀要』no.26、1992年、pp.155-191
- 大石(1991) 大石勇「徳川義親と八雲町の農村美術運動」『徳川林政史研究所研究紀要』no.25、1991年、pp.135-196
- 大石(1990) 大石勇「北海道八雲町における農村美術運動‐大正末期北海道八雲町における農村美術運動の展開」『徳川林政史研究所研究紀要』no.24、1990年、pp.215-269
- 科学朝日(1991)科学朝日編『殿様生物学の系譜』朝日新聞社、1991年、ISBN 4022595213
- 伊香(1989) 伊香俊哉「書評 小田部雄二著『徳川義親の十五年戦争』」立教大学史学会『史苑』vol.49、no.2、1989年9月、pp.100-103、DOI 10.14992/00001260
- 小田部(1988) 小田部雄次『徳川義親の十五年戦争』青木書店、1988年、ISBN 4250880192
- コーナー(1982) E.J.H.コーナー(著)石井美樹子(訳)『思い出の昭南博物館‐占領下シンガポ−ルと徳川侯』〈中公新書〉中央公論社、1982年、全国書誌番号:82050003
- 中野(1977) 中野雅夫『革命は芸術なり‐徳川義親の生涯』学芸書林、1977年、全国書誌番号:78013751
- 大東亜建設審議会(1942) 大東亜建設審議会「大東亜建設審議会関係講演会速記録」於内閣総理大臣官舎、1942年6月9日、NDLJP:3465284/15、pp.21-33。
- 南洋及日本人社(1938) 南洋及日本人社『南洋の五十年』章華社、1938、NDLJP:1462610
- 山口(1932) 山口愛川「投出しの尾張侯」『横から見た華族物語』一心社出版部、1932年、pp.19-22、NDLJP:1466470/21
- 広田(1927) 広田苓洲『不逞侯爵徳川義親の罪を問ふ』社会評論社出版部、1927年、NDLJP:1024484 (閉)
- 第三回汎太平洋学術会議常務委員会(1926) 第三回汎太平洋学術会議常務委員会『第三回汎太平洋学術会議第二要報』第三回汎太平洋学術会議事務所、1926年、NDLJP:1885829 (閉)
- 長江(1921) 長江銈太郎「侯爵 徳川義親君」『東京名古屋現代人物誌 第2編』金鱗社、1921年、pp.149-152、NDLJP:909228/82 (閉)
参考にならなかった文献
- 以下の文献も参照したが、ヨイショが過剰な印象があり、また参照している文献が少ないため、あまり参考にならなかった。
- 大石(1998) 大石勇「昭和恐慌と凶作の東北農村‐北海道農民が観た凶作地」『徳川林政史研究所研究紀要』no.32、pp.1-35
- 大石(1997) 大石勇「東南アジアの視座から見た太平洋戦争」『徳川林政史研究所研究紀要』no.31、pp.1-28
- 大石(1996) 大石勇「シンガポールにおける日本の軍政‐東南アジア民俗理解への道と軍政の相克」『徳川林政史研究所研究紀要』no.30、pp.11-36
- 大石(1995) 大石勇「太平洋戦争(時)下の昭南島‐第25軍最高軍政顧問徳川義親と軍政」『徳川林政史研究所研究紀要』no.29、pp.21-51
- 大石(1994b) 大石勇「大正13年、徳川義親の貴族院改造運動‐徳川義親「貴族院改造私見」を中心に」『徳川林政史研究所研究紀要』no.28、pp.37-61
関連文献
- 川渕(2000) 川渕依子『手話讃美‐手話を守り抜いた高橋潔の信念』サンライズ出版、2000年、ISBN 4883250792
- 中野(1973) 中野雅夫『昭和史の原点‐2 満州事変と10月事件』講談社、1973年、全国書誌番号:73023190
- 中野(1972) 中野雅夫『昭和史の原点‐1 幻の反乱・三月事件』講談社、1972年、全国書誌番号:73004214
- 中野(1963) 中野雅夫『橋本大佐の手記』みすず書房、1963年、NDLJP:2989228 (閉)
脚注
- ↑ この記事の主な出典は、香山(2016)、香山(2015)、香山(2014)、科学朝日(1991)pp.190-201、小田部(1988)、中野(1977)、徳川(1963)、徳川(1973)および徳川(1974)。
- ↑ 小田部(1988)pp.159-162、コーナー(1982)p.3
- ↑ 科学朝日(1991)p.190
- ↑ 科学朝日(1991)pp.194,198
- ↑ 科学朝日(1991)pp.190-191、中野(1977)pp.74-75、徳川(1963)pp.112-113など。徳川(1926)p.4にも旅行当時「健康を害していた」旨の記載がある。
- ↑ 小田部(1988)p.34、科学朝日(1991)p.191。
- ↑ 小田部,1988,p.18,25
- ↑ 小田部,1988,p.43
- ↑ 徳川,1973,p.75,巻末年表、中野,1977,p.230。
- ↑ 小田部(1988)p.22
- ↑ 小田部(1988)p.22
- ↑ 小田部(1988)pp.23-24
- ↑ 小田部(1988)p.24
- ↑ 小田部(1988)p.24
- ↑ 小田部(1988)p.24
- ↑ 小田部(1988)p.24
- ↑ 長江(1921)p.150
- ↑ 長江(1921)p.150
- ↑ 中野(1977)pp.37-38
- ↑ 中野(1977)p.61。家人から「四位さま」と呼ばれるようになった(同)。
- ↑ 徳川(1973)巻末
- ↑ 『官報』3533号、大蔵省印刷局、1924年6月4日、NDLJP:2955681 掲載頁不詳
- ↑ 徳川(1973)巻末
- ↑ 中野(1977)pp.145-146
- ↑ 中野(1977)p.157
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- ↑ 小田部(1988)p.145
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- ↑ 香山(2015)p.40
- ↑ 小田部(1988)p.131
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- ↑ 大石(1994a)p.249