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戦後、[[公職追放]]を受け、[[華族#華族制度の廃止|華族制度廃止]]等により爵位と資産の8割以上を喪失した。追放解除後、1956年に[[名古屋市長]]選挙に立候補したが落選。1947年から約20年間にわたり[[共栄火災]]の会長を務めた。<ref>この記事の主な出典は、香山(2016)、香山(2015)、香山(2014)、科学朝日(1991)pp.190-201、小田部(1988)、中野(1977)、徳川(1963)、徳川(1973)および徳川(1974)。</ref>
 
戦後、[[公職追放]]を受け、[[華族#華族制度の廃止|華族制度廃止]]等により爵位と資産の8割以上を喪失した。追放解除後、1956年に[[名古屋市長]]選挙に立候補したが落選。1947年から約20年間にわたり[[共栄火災]]の会長を務めた。<ref>この記事の主な出典は、香山(2016)、香山(2015)、香山(2014)、科学朝日(1991)pp.190-201、小田部(1988)、中野(1977)、徳川(1963)、徳川(1973)および徳川(1974)。</ref>
 
==経歴==
 
==経歴==
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別記事を参照。
 
#[[徳川義親 (経歴1 生い立ち)|生い立ち]]  
 
#[[徳川義親 (経歴1 生い立ち)|生い立ち]]  
 
#[[徳川義親 (経歴2 研究と冒険)|研究と冒険]]  
 
#[[徳川義親 (経歴2 研究と冒険)|研究と冒険]]  
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#[[徳川義親 (経歴6 太平洋戦争)|太平洋戦争]]  
 
#[[徳川義親 (経歴6 太平洋戦争)|太平洋戦争]]  
 
#[[徳川義親 (経歴7 戦争末期・戦後)|戦争末期・戦後]]
 
#[[徳川義親 (経歴7 戦争末期・戦後)|戦争末期・戦後]]
 
 
== 評価 ==
 
== 評価 ==
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=== 政治活動 ===
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小田部(1988)pp.17,51-52,222は、義親はその斬新な改革の主張から、1920年代に「革新華族」の1人と目されるなど、政治的に注目されることはあったが、[[十一会]]を結成して戦時中重要な官職についた[[木戸幸一]]、[[近衛文麿]]、[[原田熊雄]]らとは異なり、宮中や政府中枢に通じる有力なブレーンを持たなかったため合法的な機構・組織を通じての政治的な影響力は弱く、このことが冒険主義的で、陰謀めいた政治行動に結びついた、とし、戦後の華族制度の廃止によって、侯爵としての社会的権威と尾張徳川家の巨額の資産を失った後の義親の活動は精彩を欠き、華族制度の廃止によって「革新華族」としての思想と行動はその歴史的使命を終えた、と評している。
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=== 植物学者として ===
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英国人の植物学者・[[E.J.H.コーナー]](Corner)は、1946年に『[[ネイチャー]]』紙に日本軍による占領期間中の体験記事を寄稿し、また義親の没後に著書'The Marquis: A tale of Syonan-to'(日本語版:コーナー,1982)を出版して、日本占領下の[[シンガポール植物園]]で、[[田中館秀三]]らの庇護により、自身が日本軍の収容所に収容されずに植物園の維持・管理を続けることができ、義親が[[羽根田弥太]]らとともに文化遺産の保護や自然科学の諸研究にいそしんでいたことを紹介した<ref>小田部(1988)pp.159-162、コーナー(1982)p.3</ref>。このことは、「義親が羽根田や田中館、[[郡場寛]]とともに博物館や植物園を戦火や略奪から守り通し、敗戦後、ほとんど無傷のまま返還した」として科学朝日(1991)p.199-200などにも紹介されており、義親は日本植物学会編『日本の植物学100年の歩み』(1982年)でも[[植物生理学者]]として扱われているという<ref>科学朝日(1991)p.190</ref>。
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しかし、義親は、生物学を学んだ華族の多くが幼少期から生物に興味を持っていたのとは異なり、1911年に東京帝国大学理科大学動植物学科に学士入学するまで生物に強い関心を持っていなかったとされ、また徳川生物学研究所の設立後、やがて植物学からは遠ざかり、研究所のスポンサーに徹したとされている<ref>科学朝日(1991)pp.194,198</ref>。特に、徳川(1963)p.101で、徳川生物学研究所の設立後、貴族院議員としての俗用が多くなったため、1927年4月以降は「理科を思いきって、また歴史に逆戻り」し、以後は林政史の研究の続きをした、と述懐している点が注目される。1927年以降も、『徳川生物学研究所輯報』に紹介されている植物学の研究論文の中には、共著者に義親の名を冠している論文が散見されるが、もし徳川(1963)p.10の記述が本当であれば、論文の執筆には本人は関わっていなかった可能性がある。
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=== パトロンとして ===
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義親は様々な人物・活動のパトロンとなったが、「経歴」の節で紹介した他に、徳川(1973)巻末の「徳川義親関係略年表」には以下の資金提供が紹介されている。
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*1918年 名古屋市の米価廉売資金に2万円寄附
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*1921年11月 [[済生会]]へ3万円寄附
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*1922年 [[八雲中学校]]建設に6万円寄附
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*1923年9月 [[震災救護局]]に15万円寄附
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*1925年3月 [[東照宮]]300年祭記念会に1万円寄附
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*1925年7月 [[名古屋公会堂]]建設に10万円寄附
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*1928年8月 八雲産牛馬組合へ土地4町4反7畝と1万円寄附
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*1930年6月 [[聾教育振興会]]へ2万円寄附
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徳川(1963)pp.145-146は、[[パトロン]]はどうあるべきかを論じ、「その人の成功を助けるもので、自分のため、自分のなぐさみのためにするものであってはいけない。援助すればそれでいいのである。『いい』と思ったからこそ助けるのであって、成功さえすればそれでいい、なまじっかな世話はやかない方がいいのである。」としている。特に[[ヴァイオリニスト]]・[[諏訪根自子]]の留学を支援したことについて、「バイオリンなんて好きでもなんでもなかった」が、「彼女が気の毒だったので」支援した、「パトロンがいちいち口を出したら、当人もやりきれまい。ただよくなってくれたらいい。」と述懐し、日本社会党の結成についても同じことだった、としている。
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=== 影武者 ===
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義親は尾張徳川家の当主として、旧尾張藩士の家柄だったり、同家の家職に就いたりしていた人を使役する立場にあったため、義親の事跡とされていることで本当に本人がしたことなのか判然としないことがままあり、その中には関連書籍の中で「ネタばらし」されている事項もある。
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義親が88歳のときに公刊された『最後の殿様‐徳川義親自伝』(徳川,1973)は、中野(1977)p.243によると、タイトルに相反して、自伝ではなく中野の筆によるものであり、義親は、親しい友人・知人に「中野君に書いてもらった。ぼくはまる儲かりだ」と語っていた、とされている。
 
== 家族 ==
 
== 家族 ==
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妻・米子との間に2男3女をもうけた<ref>小田部(1988)p.22</ref>。
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*長男・[[徳川義知|義知]](五郎太)は[[松平恒雄]]の次女・正子と結婚<ref>小田部(1988)p.22</ref>。
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**孫娘(義知の長女)・美千子は、[[堀田正恒]]の6男・[[徳川義宣|義宣(よしのぶ)]]と結婚し、義宣は尾張徳川家の第21代当主、八雲産業社長、徳川美術館長となった<ref>小田部(1988)pp.23-24</ref>。
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*長女・絹子は旧公卿の[[大炊御門家|大炊御門]]経輝(侯爵)と結婚した<ref>小田部(1988)p.24</ref>。
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*次女・春子は[[西郷吉之助]](侯爵)と結婚した(のち離婚)<ref>小田部(1988)p.24</ref>。
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*次男・義龍は[[大給松平家|大給]]左(おぎゅう きちじ)伯爵の養子となり、[[朝香宮]][[大給湛子|湛子(きよこ)]]と結婚した<ref>小田部(1988)p.24</ref>。
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*三女・百合子は[[佐竹氏|佐竹]]義栄(侯爵)と結婚した<ref>小田部(1988)p.24</ref>。
 
== 栄典 ==
 
== 栄典 ==
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*1908年4月 従五位<ref>中野(1977)pp.37-38</ref>
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*1915年6月 従四位<ref>中野(1977)p.61。家人から「四位さま」と呼ばれるようになった(同)。</ref>
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*1921年11月 紺綬褒章<ref>徳川(1973)巻末</ref>
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*1924年5月 [[瑞宝章|勲三等瑞宝章]]<ref>『官報』3533号、大蔵省印刷局、1924年6月4日、[http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2955681 NDLJP:2955681] 掲載頁不詳</ref>
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*1927年11月 紺綬褒章飾版<ref>徳川(1973)巻末</ref>
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*1933年7月 [[正三位]]<ref>中野(1977)pp.145-146</ref>
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*1934年4月 [[旭日中綬章]]<ref>中野(1977)p.157</ref>
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*1935年12月 ダルジャ・カラバット(Darjah Kerabat)第1等勲章(ジョホール王族勲章)<ref>中野(1977)pp.158-159</ref>
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*1940年4月 [[勲二等瑞宝章]]、支那事変[[従軍記章]]<ref>中野(1977)p.200</ref>
 
== 著作物 ==
 
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2017年9月1日 (金) 13:03時点における版

徳川 義親(とくがわ よしちか、1886年10月5日 - 1976年9月6日)は、尾張徳川家第19代当主、戦前の侯爵貴族院議員。1908年に尾張徳川家の家督を継ぐと、同家の愛知県下の財産を大胆に処分し、豊富な財力を背景に徳川美術館徳川林政史研究所徳川生物学研究所などを創設。1918年以降、毎年のように徳川農場のあった北海道八雲町で熊狩りをし、「熊狩りの殿様」として知られるようになった。豊富な財力を背景に、ヴァイオリニスト諏訪根自子や、ジョン・バチェラーによるアイヌの研究・保護活動、西川吉之助の口話法によるろう教育など、様々な人物・活動のパトロンとなり、1921年にマレー半島で「虎狩り」をして、「虎狩りの殿様」と称された。

1924年に社会主義者石川三四郎を支援して貴族院改革案を作成、1925年の治安維持法案に反対するなどして注目されたが、愛知県下の財産処分を巡る旧藩士との対立や、貴族院での政治的孤立もあり、1927年のダンス不敬事件により貴族院議員を辞職した。その後は、右翼団体を主催する清水行之助大川周明を支援して1931年の三月事件の黒幕となり、南進論を提唱する石原広一郎らと神武会明倫会を創設するなど、国家革新運動に傾斜。1938年に大和倶楽部を設立し排英運動を推進、1942年に日本軍政下のマラヤ第25軍軍政顧問となった。

戦後、公職追放を受け、華族制度廃止等により爵位と資産の8割以上を喪失した。追放解除後、1956年に名古屋市長選挙に立候補したが落選。1947年から約20年間にわたり共栄火災の会長を務めた。[1]

経歴

別記事を参照。

  1. 生い立ち
  2. 研究と冒険
  3. 革新華族
  4. 満州事変
  5. 日中戦争
  6. 太平洋戦争
  7. 戦争末期・戦後

評価

政治活動

小田部(1988)pp.17,51-52,222は、義親はその斬新な改革の主張から、1920年代に「革新華族」の1人と目されるなど、政治的に注目されることはあったが、十一会を結成して戦時中重要な官職についた木戸幸一近衛文麿原田熊雄らとは異なり、宮中や政府中枢に通じる有力なブレーンを持たなかったため合法的な機構・組織を通じての政治的な影響力は弱く、このことが冒険主義的で、陰謀めいた政治行動に結びついた、とし、戦後の華族制度の廃止によって、侯爵としての社会的権威と尾張徳川家の巨額の資産を失った後の義親の活動は精彩を欠き、華族制度の廃止によって「革新華族」としての思想と行動はその歴史的使命を終えた、と評している。

植物学者として

英国人の植物学者・E.J.H.コーナー(Corner)は、1946年に『ネイチャー』紙に日本軍による占領期間中の体験記事を寄稿し、また義親の没後に著書'The Marquis: A tale of Syonan-to'(日本語版:コーナー,1982)を出版して、日本占領下のシンガポール植物園で、田中館秀三らの庇護により、自身が日本軍の収容所に収容されずに植物園の維持・管理を続けることができ、義親が羽根田弥太らとともに文化遺産の保護や自然科学の諸研究にいそしんでいたことを紹介した[2]。このことは、「義親が羽根田や田中館、郡場寛とともに博物館や植物園を戦火や略奪から守り通し、敗戦後、ほとんど無傷のまま返還した」として科学朝日(1991)p.199-200などにも紹介されており、義親は日本植物学会編『日本の植物学100年の歩み』(1982年)でも植物生理学者として扱われているという[3]

しかし、義親は、生物学を学んだ華族の多くが幼少期から生物に興味を持っていたのとは異なり、1911年に東京帝国大学理科大学動植物学科に学士入学するまで生物に強い関心を持っていなかったとされ、また徳川生物学研究所の設立後、やがて植物学からは遠ざかり、研究所のスポンサーに徹したとされている[4]。特に、徳川(1963)p.101で、徳川生物学研究所の設立後、貴族院議員としての俗用が多くなったため、1927年4月以降は「理科を思いきって、また歴史に逆戻り」し、以後は林政史の研究の続きをした、と述懐している点が注目される。1927年以降も、『徳川生物学研究所輯報』に紹介されている植物学の研究論文の中には、共著者に義親の名を冠している論文が散見されるが、もし徳川(1963)p.10の記述が本当であれば、論文の執筆には本人は関わっていなかった可能性がある。

パトロンとして

義親は様々な人物・活動のパトロンとなったが、「経歴」の節で紹介した他に、徳川(1973)巻末の「徳川義親関係略年表」には以下の資金提供が紹介されている。

徳川(1963)pp.145-146は、パトロンはどうあるべきかを論じ、「その人の成功を助けるもので、自分のため、自分のなぐさみのためにするものであってはいけない。援助すればそれでいいのである。『いい』と思ったからこそ助けるのであって、成功さえすればそれでいい、なまじっかな世話はやかない方がいいのである。」としている。特にヴァイオリニスト諏訪根自子の留学を支援したことについて、「バイオリンなんて好きでもなんでもなかった」が、「彼女が気の毒だったので」支援した、「パトロンがいちいち口を出したら、当人もやりきれまい。ただよくなってくれたらいい。」と述懐し、日本社会党の結成についても同じことだった、としている。

影武者

義親は尾張徳川家の当主として、旧尾張藩士の家柄だったり、同家の家職に就いたりしていた人を使役する立場にあったため、義親の事跡とされていることで本当に本人がしたことなのか判然としないことがままあり、その中には関連書籍の中で「ネタばらし」されている事項もある。

義親が88歳のときに公刊された『最後の殿様‐徳川義親自伝』(徳川,1973)は、中野(1977)p.243によると、タイトルに相反して、自伝ではなく中野の筆によるものであり、義親は、親しい友人・知人に「中野君に書いてもらった。ぼくはまる儲かりだ」と語っていた、とされている。

家族

妻・米子との間に2男3女をもうけた[5]

栄典

著作物

著書

  • 徳川(1973) 徳川義親『最後の殿様 徳川義親自伝』講談社、1973年、全国書誌番号:73011083
  • 徳川(1963) 徳川義親「私の履歴書‐徳川義親」日本経済新聞社『私の履歴書 文化人 16』1984年、pp.85-151、ISBN 4532030862 初出は1963年12月。
  • 徳川(1959b) 徳川義親『とくがわエチケット教室』黎明書房、1959年、NDLJP:9543592 (閉)
  • 徳川(1959a) 徳川義親『尾張藩石高考』徳川林政史研究所、1959年、NDLJP:2490629 (閉)
  • 徳川(1958) 徳川義親『木曽の村方の研究』徳川林政史研究所、1958年、NDLJP:3008795 (閉)
  • 徳川(1942b) 徳川義親『新国民礼法』目黒書店、1942年、NDLJP:1450596
  • 徳川(1942a) 徳川義親『きのふの夢』那珂書店、1942年、NDLJP:1123504 (閉)
  • 徳川(1941b) 徳川義親『日常礼法の心得』実業之日本社、1941年、NDLJP:1449739
  • 徳川(1941a) 徳川義親「4 日常生活における礼法の修練」東京高等師範学校附属国民学校初等教育研究会『国民科修身教育の実践‐国民学校礼法教授要項案』大日本出版、1941年、NDLJP:1275481 (閉)、pp.20-26
  • 徳川(1940) 徳川義親『七里飛脚』国際交通文化協会、1940年、NDLJP:1685487 (閉)
  • 徳川(1939) 徳川義親『江南ところどころ』モダン日本社、1939年、NDLJP:1878583 (閉)
  • 徳川・朝倉(1937) 徳川義親・朝倉純孝『馬来語四週間』大学書林、1937年、NDLJP:1222953 (閉)
  • 徳川(1931) 徳川義親『じゃがたら紀行』郷土研究社、1931年、NDLJP:1879360 (閉)
  • 徳川(1926) 徳川義親『馬来の野に狩して』坂本書店出版部、1926年、NDLJP:983300
  • 徳川(1924) 徳川義親『貴族院改造私見概要』私家版、1924年、NDLJP:1910485 (閉)
  • 徳川(1921) 徳川義親『熊狩の旅』精華書院、1921年、NDLJP:964324
  • 徳川(1915) 徳川義親『木曽山』私家版、1915年、NDLJP:950927

雑誌記事

  • 植物学関係の論文については、徳川生物学研究所#徳川義親の研究を参照。
  • 徳川(1974) 徳川義親「"最後の殿様"徳川義親氏に聞く」共済保険研究会ほか編『共済と保険』vol.16、no.9、通巻185号、1974年9月、pp.41-60、NDLJP:2648882/21 (閉)
  • 徳川(1971) 徳川義親「びっくりした話」名古屋郷土文化会『郷土文化』vol.26、no.1、通巻100号、1971年6月、pp.4-5、NDLJP:6045131/4 (閉)
  • 徳川(1958) 徳川義親「親友大川君のこと」『新勢力 大川周明特集号』v.3、no.12、新勢力社、1958年11月[21]
  • 徳川(1942) 徳川義親「南方建設の進展」『太平洋』太平洋協会、1942年7月[22]
  • 徳川(1942) 徳川義親「南方経営私見」『太平洋』太平洋協会、1942年2月[23]
  • 徳川(1911) 徳川義親「説苑 吾妻国考を読みて」日本歴史地理学会『歴史地理』vol.17、no.4、吉川弘文館、1911年4月、pp.59-60、NDLJP:3566387/42 (閉)

新聞記事

  • 1942年のマライ半島視察旅行の紀行文[24]
    • 徳川(1942-08-07) 徳川義親「馬来縦断記 (12)」『朝日新聞』1942年8月7日
    • 徳川(1942-07-25) 徳川義親「馬来縦断記 (1)」『朝日新聞』1942年7月25日
  • 徳川(1942-02-09) 徳川義親「文化啓発の手引役」『朝日新聞』1942年2月9日[25]
  • 徳川(1942-02-04) 徳川義親「(赴任の抱負)」『朝日新聞』1942年2月4日[26]
  • 1921年-1922年の欧州旅行前半の紀行文[27]
    • 徳川(1922-06-29) 徳川義親「西に旅して (NA)」『報知新聞』1922年6月29日
    • 徳川(1922-02-07) 徳川義親「西に旅して (1)」『報知新聞』1922年2月7日

徳川資料

義親は軍政顧問時代も日記をつけ続けており、また軍政顧問在任期間中の軍政関係資料を保存して日本に持ち帰った[28]。軍政関係資料(徳川資料)は防衛庁戦史部に寄贈され、マレー・スマトラの軍政の実態を知る上で貴重な資料となっている[29]

参考文献

下記の4つの論文をもとに若干の加筆修正を行なったもの[30]
  • 大石(1993) 大石勇「徳川義親と八雲町の『熊彫』」『徳川林政史研究所研究紀要』no.27、1993年、pp.93-158
  • 大石(1992) 大石勇「伝統工芸『熊彫』の創生‐大正14年度、北海道八雲町の農村美術運動」『徳川林政史研究所研究紀要』no.26、1992年、pp.155-191
  • 大石(1991) 大石勇「徳川義親と八雲町の農村美術運動」『徳川林政史研究所研究紀要』no.25、1991年、pp.135-196
  • 大石(1990) 大石勇「北海道八雲町における農村美術運動‐大正末期北海道八雲町における農村美術運動の展開」『徳川林政史研究所研究紀要』no.24、1990年、pp.215-269
  • 科学朝日(1991)科学朝日編『殿様生物学の系譜』朝日新聞社、1991年、ISBN 4022595213
  • 伊香(1989) 伊香俊哉「書評 小田部雄二著『徳川義親の十五年戦争』」立教大学史学会『史苑』vol.49、no.2、1989年9月、pp.100-103、DOI 10.14992/00001260
  • 小田部(1988) 小田部雄次『徳川義親の十五年戦争』青木書店、1988年、ISBN 4250880192
  • 中野(1977) 中野雅夫『革命は芸術なり‐徳川義親の生涯』学芸書林、1977年、全国書誌番号:78013751
  • 山口(1932) 山口愛川「投出しの尾張侯」『横から見た華族物語』一心社出版部、1932年、pp.19-22、NDLJP:1466470/21
  • 編注:以下の論文は参照したが、ヨイショが過剰な印象があり、また参照している文献が少ないため、あまり参考にならなかった。
    • 大石(1998) 大石勇「昭和恐慌と凶作の東北農村‐北海道農民が観た凶作地」『徳川林政史研究所研究紀要』no.32、pp.1-35
    • 大石(1997) 大石勇「東南アジアの視座から見た太平洋戦争」『徳川林政史研究所研究紀要』no.31、pp.1-28
    • 大石(1996) 大石勇「シンガポールにおける日本の軍政‐東南アジア民俗理解への道と軍政の相克」『徳川林政史研究所研究紀要』no.30、pp.11-36
    • 大石(1995) 大石勇「太平洋戦争(時)下の昭南島‐第25軍最高軍政顧問徳川義親と軍政」『徳川林政史研究所研究紀要』no.29、pp.21-51
    • 大石(1994b) 大石勇「大正13年、徳川義親の貴族院改造運動‐徳川義親「貴族院改造私見」を中心に」『徳川林政史研究所研究紀要』no.28、pp.37-61

関連文献

  • 川渕(2000) 川渕依子『手話讃美‐手話を守り抜いた高橋潔の信念』サンライズ出版、2000年、ISBN 4883250792
  • コーナー(1982) E.J.H.コーナー(著)石井美樹子(訳)『思い出の昭南博物館‐占領下シンガポ−ルと徳川侯』〈中公新書〉中央公論社、1982年、全国書誌番号:82050003
  • 中野(1973) 中野雅夫『昭和史の原点‐2 満州事変と10月事件』講談社、1973年、全国書誌番号:73023190
  • 中野(1972) 中野雅夫『昭和史の原点‐1 幻の反乱・三月事件』講談社、1972年、全国書誌番号:73004214
  • 中野(1963) 中野雅夫『橋本大佐の手記』みすず書房、1963年、NDLJP:2989228 (閉)

脚注

  1. この記事の主な出典は、香山(2016)、香山(2015)、香山(2014)、科学朝日(1991)pp.190-201、小田部(1988)、中野(1977)、徳川(1963)、徳川(1973)および徳川(1974)。
  2. 小田部(1988)pp.159-162、コーナー(1982)p.3
  3. 科学朝日(1991)p.190
  4. 科学朝日(1991)pp.194,198
  5. 小田部(1988)p.22
  6. 小田部(1988)p.22
  7. 小田部(1988)pp.23-24
  8. 小田部(1988)p.24
  9. 小田部(1988)p.24
  10. 小田部(1988)p.24
  11. 小田部(1988)p.24
  12. 中野(1977)pp.37-38
  13. 中野(1977)p.61。家人から「四位さま」と呼ばれるようになった(同)。
  14. 徳川(1973)巻末
  15. 『官報』3533号、大蔵省印刷局、1924年6月4日、NDLJP:2955681 掲載頁不詳
  16. 徳川(1973)巻末
  17. 中野(1977)pp.145-146
  18. 中野(1977)p.157
  19. 中野(1977)pp.158-159
  20. 中野(1977)p.200
  21. 小田部(1988)p.216
  22. 小田部(1988)p.218
  23. 小田部(1988)p.218
  24. 小田部(1988)pp.145,218
  25. 小田部(1988)p.145
  26. 小田部(1988)p.144
  27. 香山(2015)p.40
  28. 小田部(1988)p.131
  29. 小田部(1988)p.131
  30. 大石(1994a)p.249