「スバル・サンバー」の版間の差分
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*但し、爆発的に売れた[[スバル・360|てんとう虫]]と同様に売れ行きはうなぎ登りとなり、この頃からサンバーには熱狂的な[[宗教|信者]]が付くようになっていった。しかし、後述の通り[[スバル・1000|尊師様が最終解脱して到達した境地]]以来、3代も続いた[[スバル・レオーネ|ジョジョ5部で途中で死んじゃう人]]に至るまで、[[百瀬晋六|アヤトラー]]の教えを頑なに墨守し、それに疑問を挟まず礼賛する事を教義としていた[[オウム真理教|普通車部門のスバリスト]]とは異なり、'''「水冷化」'''や'''「4ストロークへの転換」「SOHCの採用」'''など[[新約聖書|教義の大幅な変化]]に適切に対応できるだけの柔軟性を有していたのが、サンバーを始めとする軽自動車部門の[[富士重工|スバリスト]]達であった。 | *但し、爆発的に売れた[[スバル・360|てんとう虫]]と同様に売れ行きはうなぎ登りとなり、この頃からサンバーには熱狂的な[[宗教|信者]]が付くようになっていった。しかし、後述の通り[[スバル・1000|尊師様が最終解脱して到達した境地]]以来、3代も続いた[[スバル・レオーネ|ジョジョ5部で途中で死んじゃう人]]に至るまで、[[百瀬晋六|アヤトラー]]の教えを頑なに墨守し、それに疑問を挟まず礼賛する事を教義としていた[[オウム真理教|普通車部門のスバリスト]]とは異なり、'''「水冷化」'''や'''「4ストロークへの転換」「SOHCの採用」'''など[[新約聖書|教義の大幅な変化]]に適切に対応できるだけの柔軟性を有していたのが、サンバーを始めとする軽自動車部門の[[富士重工|スバリスト]]達であった。 | ||
2014年11月28日 (金) 04:48時点における版
スバル・サンバー(すばる・さんばー)とは、富士重工業がかつて開発・発売していた軽自動車であり、世界で最も農道を速く走る車として有名である。現在はダイハツ・ハイゼットベースのパチ物がスバルディーラーで販売されている。
目次
概要
1961年に初代が発売され、1999年発売の最終型は6代目である。車体のプラットフォームはスバル・インプレッサと共通で、とにかく走りが「軽自動車ってレベルじゃねぇぞ!」だからあとで後述するとおりギネスで「世界で最も農道を速く走る車」に認定されている。しかし、調子こいて筆頭株主になったトヨタ自動車に脅されの意向でスバルの軽自動車はすべてダイハツ製になることが決まっており、2012年発売の7代目以降はダイハツ製のつまらない軽トラベースになってしまう。その為、トヨタの本社と工場で暴動が発生してしまった(詳細については後述)。
様々なメカニズム
サンバーの軽トラってレベルじゃない走りを支えるメカニズムである。
- EN型直列四気筒エンジン
- 5代目以後のエンジン。快適に吹き上がる。これぞスバルの軽自動車のエンジンであり、スーパーチャージャーをつけたモデルは、農道での速さは世界一を誇る。しかし、シリンダーの間隔が狭すぎて違法アップロードが出来ないのが唯一の弱点である。
- EK型直列二気筒エンジン
- 4代目以前のエンジン。悲鳴を上げるように吹き上がる。世代によって二輪車だったり四輪車だったりと色々である[1]。二輪車も四輪車も海外に輸出された大排気量エンジンがあり、そこから部品を転用する禁則事項ですが行えたのが公然の秘密であった。しかし、諸般の事情により現存数はそれ程多くない。
- スーパーチャージャー
- 5代目以降に登場した装備で、通称「瓢箪」。文字通りひょうたんが内蔵されており、これを高速で回す事でENエンジンに大量の空気を送り込み、そしてズダーンさせる。サンバートラックは軽トラック市場唯一の過給機搭載車であった時期が長く続いたが、他メーカーとの紳士協定により、中間冷却器(訳:戸田奈津子)は最後まで搭載されなかった。
- 四輪独立サスペンション
- スバル車の常識であり、これのおかげで世界一農道を速く走れる。フロントはストラット、リアはハコスカGT-Rと同じ形である。
- RRレイアウト
- 初代から一貫してエンジンはリアオーバーハングに搭載され、後輪を駆動する方式である。因みにポルシェ911と同じ方式であり、ここから「農道のポルシェ」と呼ばれている。
- パートタイム4WD
- 3代目に初登場。一般道では後輪だけ、悪路では4輪をドライバー自身が選択して駆動する方式だが、この駆動方式のおかげで世界一農道を速く走れる。5代目以降はオプション装備としてデフロックとフリーハブを備えたものもあり、更にスーパーチャージャー、EL付5MTを備えたサンバーは歴戦のスバリストをしてオニオンシリーズフル装備のたまねぎ剣士と称され、「これで勝つるぞ!」と言わしめる程である。
- フルタイム4WD
- 4代目で初登場。一般道では後輪だけ、悪路では4輪を駆動する方式で、切り替えはビスマスカップリングを用いて自動的に行う。この駆動方式のおかげで雨の高速道路でもスポーツカー顔負けの速度で走れる。5代目初期まではコナミコマンドを入力すると強制的に2WDに切り換えられる裏技が存在した。
- EL付き5速マニュアルミッション
- 4WD車のいくつかのグレードに設定されている。1速の下にもう1速下段のギアがある為、実際には6速MTのようなもんである。このMTを積んだ4WD車は林道でも新生日本陸軍のジャンビー顔負けの走破性を発揮する。
- デフロック
- 5代目以降のパートタイム4WD車でもバスやダンプカーなどのごく一部の車体にしか搭載されてないレアアイテム。このレア装備の前には耕したての畑や豪雪地帯の中でもナチス版トヨタの雲丹と土竜を足して2で割ったような四駆に打ち勝てる為、スバリストの中でもさらに重度のオフロードマニアは物欲センサー全開でこれを探し求める程である。
- ECVT
- 5代目のみの装備。
- 中にハムスターが入っており、全力でハムスターホイールを回してエンジン回転を変換しながら輪ゴムで車輪に駆動力を伝える事で動力をロス無く伝達できる…はずだったのだが、肝心のハムスターの持久力が今ひとつだった為[2]、後に6代目では鈴木修の3速ATに置き換えられた。
- ドミンゴ
- 4代目と5代目の改造車。これを選択すると漏れなくスバル普通車部門謹製のEF型直列三気筒エンジン(2連装鉛筆付き)と、リアエアコンや三列シート等の多数の専用装備がおまけとして付いてくる。これは軽自動車ではねぇというツッコミは決して入れてはいけない。あと、サンバーのオマケみたいな事言われるけど、七人乗りミニバンというジャンルを最初に開拓した先行者であり、後継車がいきなり月面走行車に進化するという、意外にまじパネェ車だったりするんだお。
歴史
初代(1961年-1966年)
- 1961年、デビル星人のデビルカーをベースに開発された末、発売された。開発したのはスバリストにとって絶対不可侵の存在であるスバルの尊師様。この頃から、四輪独立サスペンション、RRレイアウトを採用されていたため、国産車でサンバーより農道で速く走る車はなかった[3]。けど外見はカエルっぽい。但し空冷2ストローク360ccエンジンの為、車種によっては「数倍から10倍以上の圧倒的…圧倒的排気量差……!!!」により、まだまだ最新鋭の輸入車[4]からの勝利は覚束ない状況。当時としても既に時代遅れになりつつあったダンボールで出来た車や英国の黄金虫、ヒトラーのゴキブリを撃墜して溜飲を下げる程度がやっとであった。
- 但し、爆発的に売れたてんとう虫と同様に売れ行きはうなぎ登りとなり、この頃からサンバーには熱狂的な信者が付くようになっていった。しかし、後述の通り尊師様が最終解脱して到達した境地以来、3代も続いたジョジョ5部で途中で死んじゃう人に至るまで、アヤトラーの教えを頑なに墨守し、それに疑問を挟まず礼賛する事を教義としていた普通車部門のスバリストとは異なり、「水冷化」や「4ストロークへの転換」「SOHCの採用」など教義の大幅な変化に適切に対応できるだけの柔軟性を有していたのが、サンバーを始めとする軽自動車部門のスバリスト達であった。
2代目(1966年-1973年)
- 1966年登場。通称「ニューサンバー」と呼ばれるが、少し経ったら「ニュー」ではなくなるのに何故かそのまま「ニュー」が付いている(その後、禁則事項ですにより屋根にサイドフラッシャーが追加される)。後に親にも殴られた事のないゆとり世代が「愛機の名前をパクるな」とスバルに抗議した。そんなの知るか。
- 1970年にマイナーチェンジ。通称「ババーンサンバー」に進化し、新たにダミーグリルが装備される。何が「ババーン」なのかさっぱり意味が不明で、詳細も全く不明である(もちろん、真相も闇のままだった)。後にボウケンブラックこと伊能真墨が「剣型プレシャスの名前をもじるな」とスバルに抗議した。そんなのも知るか。
- 1972年に再度マイナーチェンジを受けてダミーグリルがズダーンと大型化。このモデルは通称「すとろんぐサンバー」と呼ばれるが、整形手術に失敗したため人気が一気に落ちてしまった。後に猪木にジャーマンで負けた人が「人のリングネームをパクるな」とスバルに抗議した。うるせー馬鹿!
- 顔や名前、装備はともかくとして、1970年にはR2-D2からフィードバックされた高出力化技術により、空冷2ストロークエンジンは30馬力にパワーうp、ラルフ・ネーダーに叩かれすぎた悲惨な車やナチス製おにぎり程度であれば軽々撃破できる程度に成長した。
- その頃、スバルの普通車部門は大川周明が訳したコーランにより市場でのちょっとした挫折を経験していたが、メッカに礼拝中のスバリスト達は気にも留めなかったらしい。
3代目(1973年-1982年)
- 1973年登場。通称「剛力サンバー」だが、何処がどう「剛力」だか全く分からない(もちろん、これも真相は謎のまま)。後にキツネ目の女が「こんなブサイクに私の名字を名乗らせないで!」とスバルに抗議した。ぽまえの顔よりマシだ。
- 初期のモデルは水冷化という大手術が施され、32馬力となった2ストロークエンジンを搭載。既に2ストの世界では北欧の飛行機屋のやっつけ仕事や扇風機付ディーゼルエンジンですら農道では敵わない存在となっており、2スト自動車で農道でサンバーより速く走る車はない状況となっていた[5]。農道上では米国製マッスルカーや伊国製超音速カー、欧州製スーパーカーをもロックオン可能な様相を見せていたが、好事魔多し。しかし2ストサンバーの農道での余りの速さにドリフト世界一選手権の親玉は驚き、日本の運輸省に圧力を掛け、レギュレーションで2ストエンジンの新車への搭載を全面禁止にしてしまう。車をつまらなくする元凶の始まりであった。
- 1976年、2ストエンジンを全部奪われたサンバーは仕方なく360ccのまま水冷4ストロークSOHCエンジンへの換装を行う。2気筒であった為に振動対策としてとある技術の鉛筆会社に
リコール隠しをバラスぞと圧力を掛け協力を求め、2連装鉛筆の技術提供を受ける事となった。4ストへの転換、他社からの技術供与、共にカリフの教えを引っ繰り返すレベルの、スバル史上三位一体の否定にも等しい方針転換であり、実際にかつての撃墜済み車種に農道での優位を脅かされる程の出力ダウンを伴うものでもあったが、サンバー信者を始めとする軽自動車のスバリスト達はこの決定を割と柔軟に受け入れた。OHCは当時非常にモダンな技術であり、サンバー信者達はGTOで東関東自動車道で140キロ位でマジでR34GTRを抜いた男にも似た優越感に浸る事が出来たからである。一方、グルの教義を墨守し、割り箸で動くエンジンを搭載したジャッキーとマイケル・ホイが乗ったパートタイム4WD車で営林署とかから位しか新規顧客が開拓できなかったそこそこの支持を取り付けていた普通車部門とその信者達は、こうした軽自動車部門の狂喜乱舞を「あな恐ろしや。釈迦に背きし提婆達多の如き愚者共也。」と冷ややかに見つめていた。 - しかし、いくらなんでも「4スト360ccは、やはり外車陣には全く勝負にならない」と言う事で、サンバー開発陣は水冷4ストエンジンの排気量アップを実施する。76年5月に500ccに換装、『大戦隊サンバー5』を名乗るも
テレビ朝日や東映のお叱りを受けた為仕方なく、77年には550ccへ泥縄のような矢継ぎ早な進化をしたので、農道でポルシェを追い回すまでは行かないが、とりあえずは赤いおフェラ豚を農道でズダーンと追い回せるようになった(フェラーリは悪路をまともに走れないから当然だが)。 - 1980年に
レオーネからパクったパートタイム4WDを追加したため、何とか農道でポルシェを追い回せるまでに進化した。この時も普通車部門とその信者達は、「水は高い所から低い所へ流れる物だ」と内心侮蔑の眼差しを向けていた。 - この世代の戦闘力アップに注目したのが、後に「赤いICBM」の異名を取る事となる某運送会社であった。この運送会社はスバルの本社に
脅検閲により削除もとい、協力を要請。スバル本社もサンバーの水冷4ストエンジンの耐久性を大幅に増大させる為の改良を行い、赤帽に提供した。これによりサンバーはその戦闘フィールドを農道から高速道路に広げていき、赤い特攻隊の搭乗員達も、輸出用部品を組み込んで排気量を違検閲により削除させる自助努力を怠らなかった事で、腕利きの搭乗員であれば国産のエマニエル夫人や豊田四姉妹の長女や四女程度なら鼻歌混じりに撃墜できる程の活躍を見せた。 - そのため、イマイからスーパーカーシリーズの一種としてこの型の550ハイルーフが1/24スケールのプラモデルとして発売された。
4代目(1982年-1990年)
- 軽トラック、および軽キャブオーバーバンとしては史上初にして世界初のフロントディスクブレーキを採用したため、農道で世界一素早く止まる車となった。
- 軽トラック、および軽キャブオーバーバン唯一の2ペダルマニュアル(電磁クラッチ式)を何故か廉価グレードで30年近く先駆けて採用。
- ポルシェを寺田陽次郎の遊び場で撃墜する為の切り札として、1000ccEF型3気筒エンジンを搭載したスバル・ドミンゴを西部戦線に投入。後に1200ccまで戦力を増強するも、惜しくもユノディエールでのポルシェ撃墜は成らなかった。しかし、その健闘振りが何故かヒトラーの下僕共に大受けし、欧州戦線でそこそこの戦果を残す。
- エル・カ○ターレの霊言により、ヒトラーの都への到達に成功した航研A-26型機が、ヒトラーの命令で何か色々寄せ集められたメーカーからロールオーバークラッシュ世界一決定戦(略してWRC)を制する原動力となったフルタイム4WDの概念設計を日本に持ち帰った。同時期に群馬のスバル軽開発部門もサンバーのエンジンを2バルブから3バルブに強化する事に成功し、1987年に二つの新技術を搭載した新グレード「トライダーG7」を本土防空戦に投入する。長年の仇敵「P-51マスタング」の農道での撃墜には成功したものの、農道のラスボス「ポルシェ」には惜しくも後一歩届かなかった。
- サンバーの農道での奮戦を尻目に、スバル普通車部門はこの時期迷走を極めていた。他社のDOHC、インタークーラーターボ車達が織り成す泥沼のハイパワー戦争に、SOHCターボ(インタークーラー無し)でラリーが主戦場のムーディ・ブルースは自分の土俵で勝負させてもらえないノモンハン事件の様な状況となり、売り上げは下降線を辿っていた。普通車部門は起死回生の策としてレオーネのEAエンジンをチートして6発に増やしたERエンジン搭載のレイアースの敵女幹部を新たに対ソ戦線に投入するも、市場の若者の要望とかけ離れた方向性に場外ホームラン[6]をすっ飛ばしてしまい、売り上げはノモンハンの野でソ連製戦車に対峙したチハたんハァハァの戦果の如くお察し下さい。ダメハツの5平米車を意識したのか、
スバリストしか顧客がいなかった当時のスバルにしては珍しく至って真面目なコンセプトだったしずてつジャストラインも今ひとつパッとしなかった…。 - 新型車の市場での惨敗に狼狽した普通車部門は、何を血迷ったのかムッソリーニに泣き付いていつも地球に落とされる物みたいな名前のF1チームと、ロンドン生まれを自称する猫みたいな名前の水平対向気検閲により削除な技術者を紹介して貰い、検閲により削除地外特製の水平対向12気筒エンジン搭載車でベルトラン賀正をドライバーに、ドリフト世界一決定戦に殴り込むというインパール作戦の如き
無謀な壮大な挑戦に討って出てしまうがお察し下さい[7]。 - そんな事情もあり、当時のスバルの売り上げは大多数が打倒ポルシェの急先鋒として一人気を吐いていたサンバーを中心とした軽自動車であり、マイケル・J・フォックスがデロリアンの次に愛した車の登場まで、サンバーが事実上スバルの屋台骨に等しい存在となっていた。しかし、この時の普通車部門の屈辱[8]が後に怨念へと変わっていき、ひいてはスバル軽自動車部門全体を破滅に追い遣ってしまう布石もなったのである。
- さらに赤いICBM達は、引き続きこの世代のサンバーもボア検閲により削除やらティラノザウルスからカタツムリや瓢箪を移植したりと、ヤりたい放題の魔改造を施した上で高速道路を爆走。機動戦士Zガンダムやスケバン刑事のラスボス、140km出すとタイムスリップできる車らの錚々たる国産スポーツ車を軒並みバックミラーから掻き消していった。彼らに提供されたサンバーのエンジンヘッド用カバーは真紅に塗られていた為、赤いICBMサンバーは通常の3倍速いとまで呼ばれ、スバリスト達の羨望の的ともなった。しかし、彼らの気検閲により削除じみた酷使と度重なるエンジン換装[9]、鉛筆会社から強奪した技術の実装がイマイチ甘かった事[10]等が祟り、その名声に反してこの時期までの4スト2気筒サンバーの現存数はそれほど多くない(マジで)。
- この世代の販売終了の前年に、偉大なる凡庸の550ccエンジンがEK型2気筒からEN型4気筒へと「変身!ハァッ!」される。競合他社が軒並み2気筒からの乗り換え先に3気筒を選択する中、何故スバルが4気筒を選択したのかは諸説ある[11]が、結果としてこの選択が軽自動車部門のスバリストの賞賛を集めた一方で、軽部門そのものの行く末を左右するルビコン川ともなってしまった[12]。
- この頃になると、赤いテポドンのオーナーグループとしての発言力は相当強力なものになってきており、検閲により削除うpできねぇというだけの理由により、まん丸顔した4気筒からの技術フィードバックが遅れる等サンバーの商品展開にも大きな影響が出ていたが、天皇陛下の教えを真っ向から引っ繰り返された車を前に「造反にこそ理有り」と現実逃避するのがやっとだった普通車部門、ボアピッチぎりぎりの550cc直列4気筒エンジンを出して1年後に唐突に軽規格を660ccに改正されて涙目になった挙げ句、技術者から多数の自禁則事項ですを輩出していた軽自動車部門共に「あったま上げろ!そんなんどうでもいい!」という、台所事情だった。
5代目(1990年-1998年)
- このモデルで
有象無象の関係者の犠牲の果てに660ccにストロークアップされた直列4気筒エンジンを採用し、排気量も660ccに拡大されたので農道最速の名を絶対的なものにした。サイダー会社の失敗作を捨てた事や、潤滑系統全体の設計を見直した(ツァーリの設計を捨てた)事でエンジンの耐久性も増大した為、この世代の現存数は先代のみならず、他社の同時期の競合車種に比べても非常に多い。 - このモデルからスーパーチャージャーエンジンを設定する。ゆい姉さんの愛車と同じエンジン(正確にはそこからカムシャフト一本とインタークーラー、8本のバルブが省かれてるが)なので(特に4WDは)最早農道では敵無し。ゆい姉さんもびっくりだぁ。
- フルタイム4WDは先代の普通車部門謹製の機構(フリーランニングクラッチ式)を捨て、シャア少佐の変名と同じビスカスカップリングへと進化。スーパーチャージャーのフルタイム4WD車は、遂に農道にて長年の悲願であったポルシェ打倒を達成した。
- ポルシェ打倒に飽きたらず、ランドローバーをいまいちどこ走ってるのか分からない世界一決定戦(略してパリダカ)で撃墜する為の切り札として、デフロック、後続車にエビフライをぶつけやすい天窓、5速なのに何故か6速目のあるヘンテコミッションを装備したトライXVをアフリカ戦線に投入。史実のエル・アラメインのような奇跡は起きずあっさり敗退するも、その健闘振りがこっそりパリダカで勝ってるチキン野朗の目に留まっていたようで、後年グレード名だけパクッたインプレッサみたいな車の発売の布石となる。
- 1992年にワゴン風ライトバンモデルのトライXVは「リックディアス」にネーミングがチェンジされた。後にエゥーゴの関係者が「我が軍が開発したモビルスーツの名前を盗用するな!」とスバルに抗議した。そんなものも知るか!
- 1993年4月1日、ギネスブックで正式に「世界で最も農道を速く走る車」に認定された。
- 顔を整形し、昔っぽくした「ディアスクラシック」が売れた。
- 入団から10年以上経過したドミンゴ・グスマンは、天井にテントを載せてみたり、7人乗りをアピールしてみたりと迷走を始めていたが、相変わらず名阪アウトバーンや名四アウトバーンの帝王としてそこそこの存在感は見せていた。
- 乾式として製造されたエレメントをブローバイガスにより湿式として動作させる独自のエアフィルタを装備しているが、それを知らないユーザによりオイルキャッチタンクを追加される改造が後を絶たない。
- この世代には走行中にフロントフェイスがヒトラーの一斗缶になったり、ボディ形状がプロトタイプカーに可変する可変式サンバー(TMS)に改造されるものも後を絶たない。一連のブームの
A級戦犯仕掛け人はジャポニズムを源流としたご近所アール・ヌーボーの提唱者とされる。 - 直列4気筒エンジンは登場当初、赤いコンコルド搭乗員からは「ボアピッチが狭すぎてデカチ検閲により削除挿れられねえよ!」と不評であったが、山田もお勧め4気筒からのスーパーチャージャーの技術移転により彼らの不満は解消された。この後、プーリー径を変更して宗一郎のターボ付きドリフト世界一決定マシン並みの高過給圧とトルエン入り燃料、ナイトラス・オキサイド・システム(NOS)の後付けがサンバー魔改造のトレンドとなっていった。
- この頃になると普通車部門は、古いのは名前だけの大ヒットを前に従来の将軍様の教義を捨てて開き直ってしまい、蒼い巨星やオランウータン等、良くも悪くもスバルらしくない車でスマッシュヒットを飛ばし、軽部門の売り上げを次第に上回っていった[13]。
6代目(1999年-2012年)
- 衝突安全対策に専念するあまりデザイン検討の時間がなくなってしまい、顔面以外はほとんど5代目と代わり映えしない。但し、農道では相変わらずの速さを誇り、スーパーチャージャー/フルタイム4WD車は将来農道に来航するであろう黒船、キ印を絵に描いたような車を仮想敵に見据えたギア比の改良を施される事となった。
- その一方でドミンゴ・グスマンは遂に戦力外通告。それまで育成選手だったシュツルムディアスが正式入団する。
- 遣独潜水艦作戦にて伍長閣下の国よりもたらされ、先代にて鳴り物入りでデビューした新技術、ハムスターホイールは、結局の処シンドラーのリフト並みに扱いが気難しい代物であった事が露呈し、当代ではスズキのお下がり3ATに載せ替えられている。しかし所詮お下がり、オーバードライブを会得していない欠検閲により削除を掴まされてしまい、AT限定免許しか持ってない腐女子人気はお察し下さい。その煽りを食って3ATしか搭載されなかった「ディアスクラシック」は、別にクラシック顔ブームが終わった訳でもないのにモデル中期で突如として力尽きてしまう。サンバーの将来に暗雲が立ち籠め始めた瞬間でもあった。
- 同時期、ゆい姉さんの愛車からモデルチェンジしたヒデの愛車がお察し下さい、拓海のオヤジの愛車が海外で大受けしてレガシーデバイス共々売り上げを伸ばしていった事もあり、この頃からスバルの軽部門の売り上げが普通車部門と逆転する事が常態化しつつあった。但し、ヒデの愛車も全くの役立たずだった訳ではなく、ここからサンバーに技術移転されたローラーブレード内蔵ヘッドやピストンの代わりにビヤ樽を内蔵する等の新機軸で、この世代のサンバーの平均燃費は15km/Lを軽く超えるようになり、農道24時間耐久レースでもより優位な地位を占めるようになった。
- 赤いバンザイ突撃仕様のサンバーは更に熟成が進み、高速道路上では彼らより速く走る運送トラックはもはや存在しない状況とまでなっていたが、余りにも彼らの平均速度が速すぎる事を危惧したロードサービスしか能がないレース会社の勧告により、2003年より運送トラックへのスピードリミッター取り付けが義務付けとなるレギュレーション改正を招いてしまった。
- デビューしてから6年後の2005年、当時の親会社ガンダム量産型(GM)の命令で同じ子会社の鈴木修のキャリー、どぇーす!ベースにされる危機に立たされるも、ジャブローでズゴックにやられた所しか見せ場がないMSと縁を切ったため、難を逃れた。
- 2006年、当時の社長が世の中の全員があんなレンガみたいな車ばかり欲しがる訳がない!という信念の元、軽自動車部門に開発させたてんとう虫二世及びそのおまけがいずれもお察し下さい、煽りを食って仕方なく作ったレンガみたいな車までお察し下さい。サンバーの売り上げは農道のF1レーサーや赤いV1ロケット搭乗員の支持もあり、他社製軽トラックと比較しても手堅いものではあったものの、スバル軽自動車の部門全体の退潮は決定的なものとなり、新たに就任したトヨタ製二足歩行ロボット「溥儀」の暗躍[14]、
自分達さえ禁則事項ですばマイ・ファースト!や淫婦さえ売れれば他の部門の事などどうでもいい旧陸軍関係者を粛清した見返りに新生日本軍の要職を占めた旧海軍関係者並みのえげつなさの普通車部門の検閲により削除なども重なり、多くのスバリストの反対の声を押し切り、スバルの軽自動車の部門撤退へと繋がっていってしまった。 - それから2年たった2007年にトヨタが筆頭株主となり、その翌年の2008年4月10日に記者会見でトヨタの子会社のダイハツから出ているハイゼットをサンバーとして売らされる危機に立たされたことが発表されたため、サンバーファンや固定客、スバリストやトヨタ嫌い、更にはスバルのディーラーマンまでもがトヨタの本社で暴動を起こし、また愛知県内のトヨタの工場を襲撃して2ヶ月間の操業停止に追い込み、合計5万人が逮捕される騒ぎまで発展している[15]。
- しかし、暴動の甲斐無くトヨタ・ダイハツ連合軍によるスバル侵略はかえって悪化し、今ではサンバーのワゴン(ディアス)の名前をパクったダイハツ・アトレーワゴンベースのパチ物「ディアスWGN」が2009年9月3日ごろより、何故かスバルディーラーから出回っているので富士重工業では注意を呼びかけている[16]。
- そして、名古屋を牛耳る某企業のグループに入らされたので、サンバーはダイハツ・ハイゼットに置き換わる予定であり、何故か赤帽トラックではホンダ・アクティが後釜をねらっており、サンバー降ろしが進行している。
- しかし、アメリカのことを無視できない某企業のことだから、小浜氏による抗議があれば、プリウスを販売中止してサンバーを残すかもしれない。
- しかし、今度は中国を無視できないかもしれないから、サンバーを消すことになった。具体的な時期は2012年2月に決まった…。
- そして置き土産にとWRブルーマイカの限定車・通称「サンバーWRXGT3」が発売された。しかし、WRCから逃げたチキン野朗の工作によりNAモデルしか選べなかった。この暴挙によって全農連が泣いた。それでも全日本の熱きサンバー野郎共の購買意欲は恐ろしく、限定500台は社内告知前に既に予約でパンパンだぜな状態になってしまい、慌ててもう500台追加生産ケテーイという、自動車の限定モデル史上前代未聞の珍事が発生する。その追加生産分も、既に塀の中にいた暴動参加者までもがせっかくだから俺もこの青いのを選ぶぜ!とばかりに争奪合戦に参加した為に、発売日前に既に完売。売り切れ後にディーラーにカタログが回ってくるという壮絶な伝説を作り上げた。告知(というよりも噂)から売り切れまでの速度は、Vなんとか2ウーロン茶ヌルヌルやおにぎり職人の熱き魂(オナラターボ付)に次ぐ史上3番目だったとかなんとか。スポーツカーでもないトラックやバンがこんなイカレた記録を作る事など、未来永劫無いだろう。もちろん、スバル普通車部門のクルマであっても、ここまでの偉業を成し遂げる事は恐らく二度と無いであろう事は言うまでもあるまい。
- 2012年2月28日、Xデーが訪れる。サンバー、ひいてはスバルが終了した。4月以降、「サンバー」を名乗るハイゼットがスバルディーラーから売られることとなる。
その後
- 2012年3月16日グンマー県太田市…。かつてサンバーの生産拠点として活況を催していたスバル工場のとある製造ラインで、新たなクルマが産声を上げた。そう、そのクルマこそまさにル・マンからも逃げたチキン野朗との共同合作・スバル・BRZである。
- 農道最速でありながら税金も安く、作物の積載能力にも秀でていたサンバーと違い、BRZは実用性ガン無視のクーペである。・・・敢えて言おう、大人のおもちゃであると。したがって設計思想はまるで対照的である。何せエンジンのレイアウトまで真逆なんだからそう言われてもしゃあないわ。
- こうしたサンバーの栄光を踏みにじるような非情かつ理不尽な製造ラインの配置も、BRZがF1からも逃げたチキン野朗との提携で設計されたクルマであることを考慮するとすべて説明できる。トヨタはサンバーを恐れているのだ。もはや農道では誰一人として―たとえそれが赤べこ軍団であったとしても―サンバーを止めることはできない。自動車業界において、最も恐るべきこの事実を封印するためにのみ、トヨタが造りだした最強の切り札こそが86・BRZ兄弟だったのだ。
- 数年の歳月と莫大な資金を費やしたこの計画は成功裏に終わり、トヨタのもくろみ通りこれ以上新しいサンバーが製造されることは永久に無くなった。しかしそれはサンバーの歴史に終止符を打ったこととは断じてイコールではない。『伝説は、そこに農家が存在する限り走り続ける。あの乾いたエキゾースト・ノートを、田んぼに響かせながら…。』。
- 2013年4月、なんとアオシマから、ヘビーフレイト/ミドルフレイトシリーズの技術を流用した。6代目、2012年モデルの1/24のプラモデルが発売される事が決定した。まさに恐ろしい時代になったもんである。
天空に輝く六連星
- 2013年8月。長年サンバーと共に軽トラ市場で切磋琢磨したライバルの1台であり、3代目サンバーへの技術供与やおにぎりメーカーのガチャピンへの機関供与などケツ下軽トラ界の隠れた良心とも謳われた老兵・ジャングル大帝レオがサンバーの後を追うように入寂(すなわち、鉛筆メーカーの事実上の軽市場撤退)した。これで軽トラ市場に残る軽トラはエンジンが軽いしか能が無いケツ下軽トラ、シンクロがダメになりやすいケツ下軽トラ、宗一郎の反骨精神そのものの3車種のみとなった。三菱・360は度重なるリコールには苦しんだものの、サンバー同様これらと比べても良い面[17]は幾つもあった。しかしサンバー共々グローバリズムの波には打ち勝てなかった。
- 生き残った3車種の運命も勝者の栄光ではなく、迫り来る軽規格廃止の悪夢を前にした、過酷なものである。
- そんな地上の地獄絵図を尻目に、三菱・みずしまはサンバーの眠る天空へと召されていった。そして、先に散っていった軽トラック達と共にプレアデス星団を構成する星の一つとなったのである。ミニキャブに与えられた星はアステローペ。他はガチャピンがエレクトラ、希望の星がマイア、ヤン坊マー坊天気予報がメローぺ、アンドレ・ザ・ヂャイアントがタイゲタ、旧日本軍の末裔がケラエノといった
ポーター以外は割とどうでもいい[18]錚々たる顔触れが続き、その中央にひときわ大きく輝くアルシオーネこそがサンバーである。サンバーは軽トラック六連星[19]の筆頭として、いまなお夜空に輝き続けているのだ・・・。
脚注
- ↑ 実際、初代のエンジンは元々はバニーガールのエンジン製造ラインでスクーター用エンジンの部品を寄せ集めて作られた物だった。
- ↑ …というのは表向きの理由で、
レース界のホーキング博士がドリフト世界一決定戦向けのマシンに冗談半分にこれを搭載したところ、ファステストラップを乱発して
賭けレースが成立しなくなってしまい、ほどなくして搭載を全面禁止された事が直接の原因と言われる。 - ↑ ベース車の360の方が車重が軽く、空力がよいのでそちらの方が速いと思うだろうが、そこは気にしない気にしない。
- ↑ 当時のポルシェ博士の欠陥車ですらも2000cc以上、ジャイアント馬場並みのでかさのアメリカ車に至っては、5000cc以上の排気量であった。
- ↑ ツインキャブ35馬力の恐竜・ティラノザウルスの方が速いと思うだろうが、そこも気にしない気にしない。
- ↑ 大和龍門はこの時期の普通車部門の迷走について、簡潔に「ホームラン級のバカ」とのみ記している。
- ↑ 後にこのチームはドリフト世界一決定戦史上最大の黒歴史及びドリフト世界一決定戦史上最悪の一戦へと繋がっていく。
- ↑ 大東亜戦争で例えるなら、補給が途絶えて全滅寸前の海軍陸戦隊が陸軍暁部隊のまるゆの補給に救われた挙げ句、大本営発表でパレンバンデー並みのドヤ顔放送をされたようなもんである。
- ↑ おにぎり基地外のレース活動のせいで、爆発すると音速を超えられるもののおにぎり三連装車の現存が異常に少ないのと同じ理屈である。
- ↑ 鉛筆がクランクの2倍の速度で回る構造上、ピストンやシリンダーより先に、オイルポンプやウォーターポンプのハウジングに悪魔の爪痕が付いて逝かれる物が多かったそうで…。
- ↑ 単に鉛筆会社経由の技術のダメダメさに嫌気が差した為とも、レアンドロ・ドミンゲスやBOOWYの名曲で既に実績のあったEF型3気筒の格下げに普通車部門が頑として首を縦に振らなかった為とも言われる。
- ↑ EN型のお披露目の際、軽自動車部門内では万歳三唱の蔭で「賽は投げられた!匙も投げられた!!」という呟きが飛び交ったとか…。
- ↑ スバルらしさを全開にした故に無かった事にされている可哀想な車も若干存在するが。
- ↑ 尊師様の教義を強く受けた正大師、正悟師格の古参技術者や関連子会社を軒並みお察し下さいという大ナタを振るった。
- ↑ トヨタが58年ぶりの赤字に転落したのは、不況よりこの一連の事件の損害が大きかったからだと言われている。また、参加者の中には派遣切りに遭い、この騒ぎに乗じてトヨタに対して復讐をしたという元トヨタの派遣社員もいた。
- ↑ この当時、サンバーバンにグレードとしての「ディアス」が復活した為、店頭では顧客にバンディアスを奨めてディアスDQNを露骨にdisっていたディーラーマンも多かったという。
- ↑ 10万キロを超えても容易にヘコたれない鋳鉄製エンジンブロック、ロングストロークでシフトフィールには欠けるがやはりシンクロが頑丈なMTなど。
- ↑ つか、修の隠し子とか、大村昆Mk-Ⅱとか、農道の縦グロとか他に入れるもん山ほどあるだろ。
- ↑ あれ?六連星なのになんで七つあるんだ?と思うだろうが、聖闘士星矢のプレイアデス姉妹は元々七人だし、プレアデス星団自体も姉妹の両親であるアトラスやプレイオネも含めて10個以上は軽くあるので、そんなの気にしたら負けだ。