田中耕太郎
田中 耕太郎(たなか こうたろう、1890年(明治23年)10月25日 - 1974年(昭和49年)3月1日)は、日本の法学者。第2代最高裁判所長官。日本国憲法施行後、皇族と内閣総理大臣経験者を除いて、唯一の大勲位菊花大綬章受章者である。また文化勲章も受章している。位階は正二位。
経歴[編集]
裁判官田中秀夫の長男として鹿児島県鹿児島市に生まれる。佐賀県杵島郡北方町(現:武雄市)出身。福岡県立中学修猷館(後の福岡県立修猷館高等学校)卒業。第一高等学校と海軍兵学校の両方とも合格し、父の勧めで、第一高等学校へ進学。卒業後、東京帝国大学法学部に進学。首席で卒業し、恩賜の銀時計を授かる。
内務省に勤務するが、1年半で退官。1917年(大正6年)に東京帝国大学大学助教授となり、欧米留学後、1923年(大正12年)に同大学教授に就任、商法講座を担当した。1937年(昭和12年)同大学法学部長に就任。
1945年(昭和20年)10月には文部省学校教育局長に転ずる。1946年(昭和21年)5月に第1次吉田内閣で文部大臣として入閣。文相として日本国憲法に署名。6月に貴族院議員に就任。1947年に参議院選挙に立候補をし、第6位で当選。緑風会に属し、緑風会綱領の草案を作成。その後も文相として教育基本法制定に尽力した。
1950年(昭和25年)に参議院議員を辞職して、最高裁判所長官に就任。閣僚経験者が最高裁判所裁判官になった唯一の例である[1]。長官在任期間は3889日で歴代1位。
最高裁長官時代の田中の発言として有名なものとして、後に「世紀の冤罪」として世間を賑わせた八海事件の際に、マスコミが検察側や判決に対して展開した批判や、弁護士の正木ひろしが著書『裁判官 人の命は権力で奪えるものか』で述べた批判に対しての「雑音に惑わされるな」という発言や、松川事件の下級審判決を「木を見て森を見ざるもの」という発言などがある。
砂川事件で政府の跳躍上告を受け入れ、一審破棄・合憲(統治行為論を採用)の判決を下すが、当時の駐日大使ダグラス・マッカーサー2世と外務大臣藤山愛一郎両名による“内密の話し合い”と称した、日米同盟に配慮し優先案件として扱わせるなどの圧力があった事が2008年4月に機密解除となった公文書に記されている[2][3]。
1961年から1970年には、国際司法裁判所判事として活躍した。5つの事件と1つの勧告的意見に関わり、2つの個別的意見と2つの反対意見を残した。特に、1966年の「南西アフリカ事件」(第二段階)判決に付けた長文の反対意見は、有名であり、非常に権威のあるものとして、今日でもしばしば引用される。
人物[編集]
妻は峰子(松本烝治の娘)。この妻の影響を受けて、無教会主義キリスト教から、カトリックに変わる。以後、カトリックの立場からの反共産主義を唱える。なお、大学時代、「お月さまの妖精」と自ら呼んだ女性に恋いこがれたエピソードもある。 実弟に、飯守重任(元鹿児島地方裁判所・家庭裁判所所長)がいる。
第二次世界大戦末期には、南原繁、高木八尺らと東京帝大の知米派教授グループによる対米終戦交渉、カトリック信者としての人脈を生かしてのローマ教皇庁を通じた対外和平工作にも関与した。敗戦まで16年獄中にいた日本共産党幹部の志賀義雄が一高の同窓生であることもあって、食料や本などの差し入れを続け、戦時中は軍部にとって要注意人物とされた。しかし、最高裁判所長官就任後に、「田中長官、共産主義の仮面を痛撃『目的は憲法の否定』」と報じられるなど、田中自身は戦前も戦後も、一貫して反共主義者であった。
松本烝治門下であり、門下生に鈴木竹雄、西原寛一など日本を代表する商法学者がいる。
学説[編集]
専門は、商法学であり、教育基本法をはじめとする各種立法にも参加したが、他方、トミズムに立脚した法哲学者としても広く知られ、『世界法の理論』全三巻(1932年-1934年)においては、法哲学・国際私法・法統一に関する論を展開した。商法学者として研究を始めた彼は、手形上の法律関係が、証券に結合された金銭支払いを目的とする抽象的債権が転転流通する性質から、売買等の通常の契約関係と異なることや、その強行法規性、技術法的性質、世界統一的性質を基礎づけたことで知られている。商取引の国際性・世界性に着目し、商法という実定法研究から、名著『世界法の理論』(学士院賞、朝日賞受賞)にいたるような法哲学研究にまで領域を広げていった。実質的意義の商法について「商的色彩論」を提唱したことでも有名。
栄典[編集]
著作・論文[編集]
- 『田中耕太郎著作集』春秋社全10巻、1966年、同社で『象牙の塔から』、『私の履歴書』ほか多数。
- なお著作集は新青出版で復刻、1998年、著作は数十冊ある。
- 「ソロヴィヨフの法哲学――とくに自然法と実定法の関係について」『法哲学四季報』第1号(1948年)
脚注[編集]
- ↑ 最高裁判所裁判官就任後に閣僚に就任した例は高辻正己が1973年から1980年まで最高裁判所裁判官に在任し、1988年に法務大臣に就任した例がある
- ↑ 『「米軍違憲」破棄へ米圧力 59年の砂川裁判 一審判決直後 解禁文書で判明 駐日大使 最高裁長官と密談』しんぶん赤旗
- ↑ 『砂川裁判:米大使、最高裁長官と密談 破棄判決前に』毎日.jp 2008年4月30日
関連項目[編集]
参考文献[編集]
- 山本祐司『最高裁物語(上・下)』(日本評論社、1994年)(講談社+α文庫、1997年)
最高裁判所長官 | ||
前任: 三淵忠彦 1947年8月4日-1950年3月2日 |
田中耕太郎 1950年3月3日-1960年10月24日 |
後任: 横田喜三郎 1960年10月25日-1966年8月5日 |