歌舞伎座
株式会社歌舞伎座 Kabuki Theatrical Corp.
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種類 | 株式会社 |
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市場情報 | 東証2部 9661 ~上場中 |
略称 | |
本社所在地 | 104-0061 東京都中央区銀座四丁目12番15号 |
電話番号 | |
設立 | 1949年11月21日 |
業種 | 9050 |
事業内容 | |
代表者 | 大谷信義 |
資本金 | 23億6518万円(2007年2月末) |
売上高 | 27億3500万円(2007年2月期連結) |
総資産 | 137億2200万円(2007年2月期連結) |
従業員数 | 64名(2007年2月末連結) |
決算期 | 2月 |
主要株主 | 松竹14.7%、清水建設7.6% |
主要子会社 | 歌舞伎座事業株式会社、歌舞伎座サービス株式会社 |
関係する人物 | |
外部リンク | http://www.kabuki-za.co.jp/ |
特記事項: |
歌舞伎座 (かぶきざ)は、東京都中央区銀座四丁目にある歌舞伎専用の劇場である。大正時代から松竹の直営で経営を行ってきた。火災や戦災に遭うなど様々な変遷はあったが、今日に至るまで名実ともに代表的な歌舞伎劇場として知られる。
歌舞伎の殿堂[編集]
歌舞伎座は、明治の演劇改良運動の流れを受けて開設された。演劇改良会に参加していたジャーナリスト福地源一郎(桜痴)と金融業者千葉勝五郎の共同経営で、1889年東京市京橋区木挽町に開設された。それまで最も大きな劇場は新富座で、舞台の間口が8間であったが、歌舞伎座は12間と大きく広がった。従来の劇場をはるかにしのぐ規模の歌舞伎座ができることには、他の劇場(新富座、中村座、市村座、千歳座)から反発もあった。福地は経営者であると同時に、歌舞伎劇の脚本も手がけた(福地はその後、経営から離れ、座付き作者に専念した)。市川團十郎 (9代目)、尾上菊五郎 (5代目)らの名優が舞台に立ち、いわゆる「團菊時代」の舞台として、文字通り歌舞伎の殿堂となった。1896年に株式組織化した。
1911年3月に開場した帝国劇場に対抗するため、劇場の改修工事を行い、同年11月に再開した。この間、経営陣が分裂し、関西から東京進出を狙っていた松竹による株の買収が行われた。役員の田村成義がいったん株を買戻したものの、1913年、病気のためやむなく手を引き、松竹の大谷竹次郎が経営を握った(田村は市村座の経営に専念。帝劇・歌舞伎座の向こうを張って、大正の市村座全盛時代を築いた)。
1921年10月、漏電により歌舞伎座は焼失。田村の後継者の好意により市村座を借りて興行を継続。直ちに歌舞伎座の再建工事を行うことになり、1923年には建物躯体が完成したが、折からの関東大震災により積み上げてあった内装用の桧材が全焼し、工事は中断した。ここで敷地が道路拡幅で削られそうになったが、大谷が後藤新平に頼み込んだ結果、何とか完成にこぎつけたという。
1925年1月、新築の大劇場で開場式が行われた。舞台も約15間とさらに広がり、豪華な施設は関東大震災から復興した東京の新名所となった。尾上菊五郎 (6代目)、中村吉右衛門 (初代)らの名優が活躍し、黄金時代を築いた。第二次世界大戦が激しくなると興行も中止され、建物は1945年の東京大空襲で全焼。大きな屋根も焼け落ちた。
戦後しばらく、歌舞伎座は廃墟の姿をさらしていたが、1949年に株式会社歌舞伎座が設立され、松竹から建物を譲り受けて復興工事を行った(土地所有及び歌舞伎興行は松竹が行う)。1950年に竣工し、1951年に興行を再開した。1989年には森昌子のコンサート会場になるなど、かつては歌舞伎以外の催しが行われることもあったが、1993年以降、松竹の方針により「歌舞伎の本拠地」として原則通年歌舞伎を興行する事となり、現在に至っている(隔年開催されている俳優祭なる歌舞伎役者出演のイベントを除く)。
歌舞伎座という名称[編集]
- 従来の劇場は地名や座元の名を冠するのが例であり(新富座、中村座など)、歌舞伎座という名称は異例であった。
- 「歌舞伎座」は、明治座や中村座などと同様の固有名詞である。一部の事典に「歌舞伎座」を普通名詞として(「歌舞伎劇を演ずる一座および劇場」の意味で)説明しているものがあるが、東京の歌舞伎座から転用(誤用)されたものと考えられる。明治時代までこうした用法はなく、歌舞伎事典の類にも、この用法は記述されていない。
- 大阪市には新歌舞伎座があるが別物と考えるべきものである(1932年、大阪歌舞伎座として開業、1958年難波駅前に新築移転する形で開場)。
- 1929年、新宿に新歌舞伎座が造られたが、のちに新宿第一劇場になった。
略年表[編集]
- 1889年(明治22年) - 11月21日開場式、翌日こけら落し
- 1914年(大正3年) - 松竹の直営劇場になる
- 1921年(大正10年) - 漏電により焼失
- 1923年(大正12年) - 再建工事中に、関東大震災に見舞われる
- 1925年(大正14年) - 新築の建物で開場式
- 1945年(昭和20年) - 東京大空襲で大屋根が落ち、内部を焼失
- 1949年(昭和24年) - 株式会社歌舞伎座設立
- 1951年(昭和26年) - 復興し、再開
- 1952年(昭和27年) - 東京証券取引所市場第二部に上場
- 2002年(平成14年) - 建物が国の登録有形文化財(建築物)になる
建物の変遷[編集]
- 第一期(1889年竣工)
- 木造、外観は西洋風の劇場。設計高原弘造、施工大倉組。
- 第二期(1911年竣工)
- 第一期の建物の骨組みを用いたが、外観は全く異なり、帝国劇場に対抗して和風とした。設計柏木多七、施工清水組。1921年に焼失。
- 第三期(1924年12月竣工、1925年1月開場)
- 鉄骨鉄筋コンクリート造で、破風屋根が目立つ桃山様式風の外観。設計岡田信一郎、施工大林組。1945年に戦災を受ける。
- 第四期(1950年12月竣工、1951年1月開場)
- 戦災を受けた第三期の躯体・デザインを生かして復興。設計吉田五十八、施工清水建設。
現在の歌舞伎座は、間口15間、奥行11間の舞台を有し、約2600人を収容できる。なお、松竹では老朽化、バリアフリーへの対応などを理由に、背後に高層ビルを建て、劇場本体も建替える方針を公表した。
- 建屋:4階建(一部5階)
- 構造:鉄骨鉄筋コンクリート造
- 建築面積:3,787m²
定紋[編集]
- 鳳凰。松竹の興行宣伝等では松竹マークが代用される。
その他[編集]
- かつては各地に歌舞伎劇場があったが、現在ではその数は少なくなってしまった(文化財保護や町おこし、村おこしなどの目的で、古くからある歌舞伎劇場の維持・整備に力を入れている自治体も存在する)。
- 都市部の劇場も、ビルの一角に入居するものが多くなっているが、歌舞伎座は独立の劇場という点でも貴重な存在である。
- 戦前・戦後を通してどの与太者も歌舞伎座の木戸御免は出来なかったといわれるが、掛け声のプロである大向うは許されたともいう。
所在地[編集]
〒104-0061 東京都中央区銀座四丁目12番15号
銀座四丁目交差点から、晴海通りを築地方向(東)に徒歩10分。