今川氏輝
今川 氏輝(いまがわ うじてる、永正10年(1513年) - 天文5年3月17日(1536年4月7日))は、戦国時代の駿河の守護大名・戦国大名。今川家の第10代当主。父は第9代当主・今川氏親。母は寿桂尼。弟に彦五郎、玄広恵探、象耳泉奘、義元、氏豊ら。子はいない。幼名は竜王丸。仮名(通称)は五郎。
生涯[編集]
今川氏親の長男。母は正室の寿桂尼。氏親の嫡男であったため、仮名(通称)は今川家歴代当主が名乗る五郎を称した。だが生来より病弱で、氏親は氏輝の早世を恐れて次男の彦五郎を万一氏輝に何かあった場合の代理当主として残していた。大永5年(1525年)11月20日に元服する[1]。大永6年(1526年)6月23日に氏親が死去したため、家督を相続して当主となった。
当主就任時はまだ数えで14歳という若年のため、実際の政務は生母の寿桂尼が後見人として携わった[2]。政務に関する文書の発給なども寿桂尼が行なっている。勿論氏輝も当主として発給はしているが、若年で病弱だった事から氏輝には統治能力が欠けていたのではないかと見られている[3]。なお、寿桂尼が氏輝期の実際の政務を担当したため、寿桂尼は「女戦国大名」「戦国の姫君」と呼ばれている[4]。氏輝期は氏親期の政策がそのまま踏襲され、検地や寺社統制、商業振興、法度に基づく紛争処理の迅速化なども行なわれている。また、氏輝自身が本当に新設したのかどうか疑われているが、天文3年(1534年)に当主の身辺を警護し戦場では親衛隊となる騎馬武者、いわゆる馬廻を創設したとされている[5]。
氏輝は天文元年(1532年)から実際の政務に携わるようになり、対外戦争においては甲斐の武田信虎との抗争を繰り返し[5]、氏親期と同様に北条氏綱との同盟関係を維持して甲斐出兵を行なっている[6]。北条氏綱と共に朝廷に3万疋を献上している。京都の公家や文人との交流も活発に行ない、自ら歌人である冷泉為和の門弟となり、毎年1月13日の今川氏歌会始など他で宗長や為和の指南する歌会にたびたび参列した[6]。享禄3年(1530年)2月、近衛尚通から『古今和歌集』を贈られており、自らも『新古今和歌集』を秘蔵するなど、文化・古典への造詣も深かった[6]。
天文5年(1536年)2月5日、為和らと共に北条氏綱主催の歌会に参列するため小田原城に向かった[7]。この時の小田原での歌会は長期に渡り、2月13日の氏綱の次男・北条為昌主催の歌会、2月14日の氏綱の嫡男・北条氏康主催の歌会、3月5日に熱海で開かれた歌会にも出席したという[7]。このように長期滞在に渡った理由は今川・北条間の同盟関係の再確認や武田信虎との共同戦線についての協議などがあったのではないかと推測される[8]。
しかし小田原から駿府に帰国してわずか半月足らずの3月17日、氏輝は急死した[8]。享年24。死因に関しては不明であるが、氏輝の死去と同時に代理当主になる予定の弟の彦五郎までもが死んでいるため、その死に関しては様々な説がある。当時の記録である『高白斎記』では「17日今川氏輝、同彦五郎同時死す」とあり、『今川為和集』では「今月(3月)17日、今川氏輝死去。同彦五郎同日遠行」、『妙法寺記』では「駿河の屋形御兄弟死去めされ候」とあり、その死がどのようなものか詳細は記されていない。
氏輝には子が無かったため、没後わずか2ヵ月後に弟の玄広恵探と義元が家督をめぐって争う花倉の乱が勃発。義元が勝利して氏輝の跡を継ぐ事になる。
脚注[編集]
参考文献[編集]
- 有光友学 『今川義元』 (吉川弘文館人物叢書)2008年 ISBN 978-4642052474