SKK昭和組工作所
SKK昭和組工作所(えすけいけいしょうわぐみこうさくじょ)は、日本占領下の西ボルネオで活動していた日本の造船会社。1943年1月から、工場の建設とともに造船を開始し、1年間で海務院型機帆船(100トン型)3隻を建造。1944年に工場の規模を拡大し、200トン船の建造も行ったが、1944年9月頃、連合軍の空襲を受けて艤装中の船が炎上・沈没。1945年4月下旬以降の空襲でも主要な標的となり、艤装中の船3隻のうち2隻が焼失・沈没、同年6月30日に工場の責任者が機銃掃射で殺害された。
造船所建設[編集]
1943年1月頃から、ポンティアナク市に工場を建設するとともに造船を開始し、5ヵ月後に海務院型機帆船(100トン型)・興海丸を興南海運に引き渡すなど、1年間で3隻を建造した[1]。
1944年には船台の数を増設して8ヵ所とし、バトゥアンパルにも工場が建設され、設備が整い、人員も増員されて、200トン船の建造も行われた[2]。
- 1944年の正月過ぎには、バトゥアンパルで日本人が約30人、中国人・現地人が約200人働いていて、日本人の宿舎と事務所、船台2台が完成していた[3]。
- 1944年中に、機械工場と鍛冶工場の整備、船台の増設、水源地の設営などを行った[3]。
空襲による被害[編集]
1944年9月頃に連合軍の空襲があり、バトゥアンパルで造船後、ポンティアナクで艤装中だった200トン船に積まれていた重油の入ったドラム缶30本ほどが機銃掃射を受けて炎上、船は沈没した[4]。
その後はしばらく空襲は途絶えたが[2]、1945年4月29日の天長節以降、終戦まで定期的に空襲が行われ[4]、空襲ではいつも、昭和組の造船工場を機銃掃射して焼夷弾を落とした後、日南造船を空襲し、戻ってきて再び焼夷弾を落とし、終わると帰っていった[2]。
昭和組には艤装中だった機帆船が3隻あり、カムフラージュして河岸に繋留してあったが、うち2隻は空襲によって焼失・沈没した[5]。同年6月30日の空襲では警報が鳴らず、機銃掃射を受けたSKK昭和組工作所の責任者・井上光夫が即死した[6]。
翌7月1日には社員が現地召集を受けて、歩哨に立たされるようになった[7]。