電子音楽の歴史

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電子音楽の歴史 第二次大戦後:1940-50年代 第二次世界大戦後の数年間、電子音楽は進歩的な作曲家によって作曲され、従来の楽器の表現を超越する方法を実現するものとして迎えられた。 現代的な電子音楽の作曲はフランスで、1948年のレコードを用いたミュジーク・コンクレートの作曲から始まった。これは町の中の音など具体音を録音し、レコードで編集するものである。従って最初のミュジーク・コンクレート作品は、フランスでピエール・シェフェールやピエール・アンリによってレコードを切断して作られた。その他アメリカでは、フランスから渡ったエドガー・ヴァレーズなどがミュジーク・コンクレートなどより編集しやすいテープ音楽を製作している。(デイヴィット・メイゾンとエアハルト・カルコシュカからの出典) 一方で電気的に生成された音による電子音楽(この場合の電子音楽という言葉は狭義で、具体音を使うミュジーク・コンクレートに対して、電子音のみの音楽と言う意味で使われる。)がドイツのケルンにある西ドイツ放送WDRの電子音楽スタジオですでにテープを使って生まれた。こちらの分野ではカールハインツ・シュトックハウゼンやゴットフリート・ミヒャエル・ケー二ッヒが最初期から活躍した。少し遅れてハンガリーから亡命したジェルジ・リゲティも参加し、初期の管弦楽曲「出現」や「大気」、「ロンターノ」の作曲技法の大きな指針となった。イタリア国立放送RAIの電子音楽スタジオでは、ルチアーノ・ベリオ、ブルーノ・マデルナなどが活躍した。 当時のドナウエッシンゲン現代音楽祭ではフランス人はレコードをドイツ人はテープをそれぞれ持参して自作を発表した。この少し後、ポーランドのクラカウのクリストフ・ペンデレツキらは独自に電子音楽を研究し、「広島への原爆の犠牲者にささげる哀歌」などを作曲する技術を開拓している。作曲者本人へのインタビューによると、彼の初期の優れた楽器のための作品群は電子音楽無しでは全く考えられなかった。このミュジーク・コンクレートと、狭義の電子音楽の2語をまとめてテープ音楽と総称る。 1980年代 1980年代よりコンピュータを用いる音楽がそれまでの電子音楽に代わって主流となった。1976年に生まれたパリのポンピドゥー・センターの併設組織IRCAM(イルカム)は、現在なおヨーロッパのコンピュータ音楽の最先端の研究施設である。初代所長はピエール・ブーレーズ。生楽器を演奏して特定の音程や音色をマイクで拾い、瞬時にコンピュータによる音響処理に連動させるソフトウェアMAX(現在の名称はMAX-MSP)は、IRCAMで開発され現在では世界中で使われている。ブーレーズはこのソフトウェアを使った音楽作品としてレポン、二重の影の対話、シュル・アンシーズ、アンテーム2などを書いている。これを現在ダルムシュタットやドナウエッシンゲンではライヴ・エレクトロ二ックと言う分野を特別に設けている。 パリにはもうひとつラジオ・フランス内にINAという組織が持つGRMというコンピュータ音楽研究施設があり、これをINA-GRM(イナグラム)と呼んでいる。こちらはジャン・クロード・リセ、リュック・フェラーリなどの作曲家を生み出した。INA-GRMは現在ではIRCAMと技術を競い合っている。 またイアニス・クセナキスはパリのフランス郵政省内のCEMAMu(数理的自動音楽研究センター)で、タブレットボードに線を描いて入力した図形を電子音響処理する装置UPIC(ユーピック)を開発し、湯浅譲二、高橋悠治及び嶋津武仁といった日本の作曲家たちの創造力を大いに刺激した。 イタリアのルイジ・ノーノはこれとは別にドイツのフライブルクのSWR南西ドイツ放送のハインリッヒ・シュトローベル財団の電子音楽スタジオに頻繁に通い、晩年の「アン・デア・ドナウ」などのライヴ・エレクトロ二ック電子音楽作品や東京で初演された「ノ・アイ・カミノス、アイ・クエ・カミナール」等の傑作管弦楽曲の作曲の大きな助けとした。 アメリカのカリフォルニア大学、コロンビア大学、ドイツのロベルト・シューマン音楽大学やフライブルク音楽大学(メシアス・マエグアシュカ)・フランクフルト音楽大学・シュトットガルト音楽大学(エアハルト・カルコシュカ)・ベルリン工科大学などにも優れたコンピュータ音楽の研究施設があり、和声学・対位法・楽式・12音-セリエル技法等と並ぶ音響作曲法修得としての理論科・作曲科大学院学生の卒業試験の必須科目とされている。