長崎円喜
長崎 円喜(ながさき えんき、弘安元年(1278年)? - 元弘3年/正慶2年5月22日(1333年7月4日))は、鎌倉時代後期から末期にかけての武士。北条氏得宗家被官である御内人・内管領。長崎氏の一族。父は長崎光綱。円喜(圓喜・円基)は法名で、俗名は系図類では高綱(たかつな)とされる[1]が、当時の文書では盛宗(もりむね)と記されている[2]。
『太平記』や『保暦間記』において、嫡子高資と共に絶大な権力をふるい、鎌倉幕府を滅亡に導く悪役として知られる。
生涯[編集]
史料上の初見は一族である平頼綱が滅ぼされた平禅門の乱の翌年、永仁2年(1294年)2月、9代執権・北条貞時の使者として御持僧親玄を訪れた記録である。同年、貞時の側室播磨局の着帯の儀式に父光綱と共に主席者筆頭として参列している。正安4年(1302年)、得宗家の分国である武蔵国守護代を務めている記録がある。
永仁5年(1297年)に父光綱が没しているが、光綱が務めた世襲の職である得宗家執事(内管領)・侍所所司は工藤杲禅、尾藤時綱が任じられており、高綱は父の地位を継ぐ事はなく、光綱没後の数年間は長崎氏不遇の時代であった。
嘉元3年(1305年)、嘉元の乱で貞時が内管領の北条宗方を滅ぼした後、徳治2年(1307年)頃に宗方に代わって高綱が内管領・侍所所司に就任した。延慶2年(1309年)4月には尾藤時綱と共に寄合衆を務めており、この頃には出家して円喜と号し、「長入道」と称された。出家により侍所所司を長男の高貞に譲ったと見られる。
応長元年(1311年)の貞時死去にあたり、安達時顕と共に嫡子高時の後見を託され、幼主高時を補佐して幕政を主導した。正和5年(1316年)頃に内管領の職を嫡子高資に譲っている。
長崎氏は幕府の軍事・警察権を握る侍所所司、執事として得宗家家政の財政・行政・司法権を一族で掌握し、円喜は子息が実権を握る侍所所司と内管領の権力を背景に寄合衆を主導した。表面的には集団指導体制で運営される高時政権の一員であるが、世襲によって侍所所司・内管領・寄合の三職を一家で独占したことで、それぞれの機関本来の職権以上の権力を行使し、鎌倉の政権を左右する権力を握ったのである。
正中元年(1324年)に正中の変を起こした後醍醐天皇の弁明のため、鎌倉へ下向した万里小路宣房に安達時顕と共に対面し、時顕の詰問に宣房が狼狽したことが『花園天皇宸記』で知られるが、京都ではこの際に比較的穏便な処置がなされたのは、円喜の意向によるものと噂された。
元弘3年/正慶2年(1333年)5月、新田義貞に攻められ鎌倉幕府が滅亡した際、北条一族とともに鎌倉東勝寺で自害した。
脚注[編集]
参考文献[編集]
- 『鎌倉政権得宗専制論』(細川重男、吉川弘文館、2000年、ISBN 978-4642027861)
- 『鎌倉幕府の滅亡』(細川重男、吉川弘文館、2011年、ISBN 978-4642057165)