鏡岩源之助
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鏡岩源之助(かがみいわ げんのすけ、生年不詳 - 安政2年8月19日(1855年9月29日))は江戸時代後期の大相撲力士。最高位は西前頭8枚目。美濃国羽栗郡(現岐阜県羽島郡笠松町)出身。本名:加藤助三郎(かとう すけさぶろう)。父は小結鏡岩濱之助。
父の鏡岩濱之助は雷電爲右エ門を倒した事もあるほどの優れた力士だったが、源之助自身は乱暴者として地元民から嫌われていたという。
初め中山道加納宿(現:岐阜県岐阜市の岐阜駅近辺)で妓楼を経営していたが、後に力士に転向した。そして文政9年(1826年)1月場所に「鏡岩源之助」の四股名で西幕内付け出しとして初土俵。しかし彼の実力は父に遠く及ばず、同年10月場所に二段目に陥落し、その場所を最後に江戸相撲から姿を消した。
その後、文政10年(1827年)6月に大坂相撲で西関脇の地位で出場。天保6年(1835年)7月には父と同じ「鏡岩濱之助」の四股名で京都相撲に出場した。
廃業後は加納宿に戻ってふたたび妓楼を経営していたが、自分の悪評を知って大いに恥じ、父の13回忌にその墓前で改心を誓った。その後は鏡岩山妙寿寺(現在の岐阜市加納八幡町にあったが廃寺になっている)を建立して仏門に入った。晩年は中山道を行きかう旅人にお茶を振舞い、自分と同じ等身の木像(うたれ坊)を旅人に木棒で打たせて、自身の罪滅ぼしを行なった。
なお、うたれ坊は現在でも岐阜市加納清水町の妙泉寺に安置されている。
成績[編集]
- 幕内成績:6敗4休
- 幕内在位: 1場所
参考文献[編集]
- 「相撲」編集部編『大相撲人物大事典』ベースボールマガジン社、2001年。
- 日本相撲協会監修『相撲大事典』現代書館、2011年。