酒井忠次

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酒井 忠次(さかい ただつぐ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての三河武将徳川氏の家臣である。

生涯[編集]

大永7年(1527年)、徳川氏の前身である松平氏譜代家臣の酒井忠親の子として三河井田城内で生まれる。元服後、徳川家康の父・松平広忠に仕え、酒井小五郎のち左衛門尉と称している。

徳川家康が今川義元への人質として駿府に赴くとき、家康に従う家臣の中では最高齢者として同行した。

永禄3年(1560年)5月の桶狭間の戦いの後、家康に重んじられ、永禄6年(1563年)の三河一向一揆では、酒井氏の多くが一向一揆に与したのに対し、忠次は家康にあくまでも従った。永禄7年(1564年)には、吉田城攻めで戦功を立て、戦後、吉田城主となっている。これにより、忠次は「東三河の旗頭」として、三河東部の諸松平家・国人を統御する役割を与えられる。

以後、元亀元年(1570年)の姉川の戦い、元亀3年(1572年)の三方ヶ原の戦い天正3年(1575年)の長篠の戦いなどに参加し、戦功を立てている。特に長篠の戦いでは、別働隊を率いて武田勝頼の背後にあった鳶巣山砦を陥落させ、勝頼の叔父河窪信実らを討ち取る大功を挙げている。

家康の厚い信任を受けていた忠次は天正7年(1579年)に家康の嫡子・松平信康の件で織田信長からの詰問を受けたとき、大久保忠世とともに弁解の使者に立てられて安土城に赴いている。この際、忠次は信康を十分に弁護できず、信康の切腹を防げなかったと言われる。もっとも、この信康切腹に関しては諸説があるところであり、信康の切腹は家康の意思であるという説もある。

以後も家康の重臣として仕え、天正10年(1582年)に起きた本能寺の変の直後、岡崎に戻った家康が明智光秀を討とうとした際には先陣を務めたという。また、天正壬午の乱天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いにも出陣するなど、家康の主な戦いには全て参加している。

天正13年(1585年)に同じく家康の宿老であった石川数正が出奔してからは家康第一の重臣とされ、天正14年(1586年)には家中では最高位の従四位下・左衛門督に叙位任官されている。天正16年(1588年)、長男家次家督を譲って隠居する。しかし、以後も京都におり、秀吉からは京都桜井の屋敷と在京料として1000石を与えられている。

天正18年(1590年)に家康が関東に移封された時には既に隠居しており、家次に下総臼井3万石が与えられている。

慶長元年(1596年)10月28日、京都で死去した。享年70。

出自・子孫[編集]

酒井氏は、もともと安城譜代と呼ばれる松平家中における最古参の宿老であり、忠次も松平氏とは深い血縁関係にある。即ち、忠次の正室は家康の祖父・松平清康と夫人・於富の方の間の娘碓井姫である。また、於富の方は松平清康の正室となる前は水野忠政の正室であり、家康の母於大の方の実母であるから、忠次は家康にとっては父母双方の妹の夫、義理の叔父ということになる。

この碓井姫との間に酒井家次、本多康俊といった子が生まれており、特に家督を相続した家次は下総臼井藩3万石から越後高田藩10万石となり、子孫は最終的に出羽庄内藩17万石と譜代屈指の大身として重きを成した。また、この他に庶流が出羽において3藩を立藩している。また、伊奈本多氏を継いだ康俊の系譜も幕末まで続いている。

人物・逸話[編集]

  • 徳川四天王十六神将ともに筆頭とされ、家康第一の功臣として称えられている。
  • 三方ヶ原の戦いでは城に戻った忠次は浜松城の太鼓を打ち鳴らし、味方を鼓舞したという。
  • 忠次の愛槍は「甕通槍 (かめとおしやり) 」といい、甕もろとも突き抜けて敵を倒した、という逸話がある。
  • 海老すくいという踊りが得意であり、重臣であるにもかかわらず諸将の前で踊りを見せ、大いに盛り上げたという。
  • 嫡男家次が与えられた臼井3万石は当時、徳川四天王のほかの3人が10万石規模であったことに比して小禄であった。これに忠次が抗議した際、「お前も我が子が可愛いか」と信康事件の不手際を責められたという。ただし、上述のように信康事件は信長の命令ではないという説もある。

演じた俳優[編集]

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