財界四天王
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財界四天王(ざいかいしてんのう)とは、池田勇人内閣を表裏で支えた4名を指す。経済記者の重鎮、三鬼陽之助によって命名された。
四天王[編集]
- 小林中(日本開発銀行元総裁、アラビア石油元社長)
- 水野成夫(経済同友会元幹事、産経新聞元社長、フジテレビ元社長)
- 永野重雄(日本商工会議所元会長、富士製鐵元社長)
- 櫻田武(日経連元会長、日清紡績元社長)
概略[編集]
財界四天王の呼称は、1961年(昭和36年)『文藝春秋』新年号で三鬼陽之助により初めて使用された。それ以後、池田内閣のご意見番として君臨する4名を示す言葉として広く使用されるようになった。
そもそも、池田勇人を支持するきっかけとなったのは、財界四天王の師匠、宮島清次郎(日本工業倶楽部元会長、日清紡績元社長)の存在に尽きる。宮島は吉田茂元首相と東京帝国大学時の同級生であり、一緒に下宿する程の大親友であった。さらに第1次吉田内閣当時には資金援助もしていた。そのような関係もあり、吉田は第三次内閣を組閣する際、財界の重鎮となっていた宮島に大蔵大臣就任を要請した。宮島は若き頃、一時は犬養毅元首相に師事し、代議士経験もあるなど政治に精通していたものの、これを拒否。逆に櫻田武の推挙により池田勇人を大蔵大臣に推薦し就任させた。ここから、財界四天王と池田勇人との深い関係が始まる。
財界四天王は池田勇人内閣時、財務面でのバックアップのみならず、政策にも大きくかかわった。池田勇人の死後も、池田派により結成された宏池会の後見人として、政治の世界に影響力を持ち続けた。
関係[編集]
小林、水野、永野、櫻田は、それぞれ個性が非常に強いカリスマであった。よって、思想の食違いで揉めることも多々あったようだが、根本で互いを認め合う素晴らしい関係だった。さらに永野と櫻田は同じ広島県出身の上、第六高等学校・東京帝国大学時代と同じ柔道部仲間であり、特別に親交が深かった。