財田川事件
財田川事件(さいたがわじけん)は、1950年(昭和25年)2月28日に起きた強盗殺人(刺殺)事件とそれに伴った冤罪事件である。
死刑に疑問を抱いた1人の裁判長矢野伊吉が、反対運動の非難の中で職を捨て、弁護士となって無罪を晴らした事件である。
事件経緯[編集]
1950年2月28日、香川県三豊郡財田村(現三豊市)の闇米ブローカー・杉山重雄(当時63歳)が寝巻き姿のまま惨殺され、現金1万3000円を奪われた。
発見者は買出しに来た高知の女性だったが、この女性は事件に巻き込まれるのを恐れて逃げ出す。財田駅前で、食堂を経営している杉山の妻(別居中)にこのことを告げ、一目散に地元へ帰っている。
捜査記録では、午後7時頃同じく買出しの男が第一発見者となっている。当時は食糧難で米ブローカの杉山には様々な人達が尋ねて来たのであろう。
(事件から28年後、ジャーナリストのサクマ・テツ氏は、この女性を発見、インタビューをしている。それによると、買出しで杉山宅を教えてもらい尋ねた。だが応答が無いため上がりこむと、杉山が新聞紙をのせて寝ているので、取ってみると血だらけで死んでいた。口から「さす」が2寸(約6センチ)ほど出ていた。怖くなって一目散に逃げ帰ったと告白している。注:「さす」とは米鑑定に使う道具で、米俵などに突き刺して数粒の米を取り出すもの)。
早速、警察が現場検証を行う。杉山は、頭・喉・胸など全身に30箇所の刺創・切創を受けていた。上半身には5枚の衣類を着用していたが、下半身はメリヤス製パンツのみ。また、自分の枕以外に二つ折りにした座布団があった。杉山は家族と別居生活をしており、状況から「情交のもつれ」、「怨恨」の線が考えられた。が、捜査はまったく進展しなかった。
同年4月1日、財田村の隣町の三豊郡神田村(こうだむら、現、山本町)で、強盗傷害事件が発生する。この事件で逮捕されたのが、谷口繁義(当時19歳)と仲間の二人であった。当時、谷口と仲間は地元では有名な不良青年で、この2人は『財田の鬼』と近隣で嫌がられていた。警察は本件とは別に杉山殺人の容疑で取り調べる。杉山殺人事件時のアリバイが焦点となったが、谷口の仲間は当日のアリバイが明確になり白となる。が、谷口のアリバイは明確にできず警察は谷口犯人説へ一気に傾いた。
取り調べは2年前の免田事件同様、過酷を極めた。谷口に対して殴る・蹴る・脅迫と2ヶ月間も続く。結局、谷口は心身的に限界がきて、ついに「自白」をするのである。8月22日、谷口は強盗殺人罪で起訴された。
裁判[編集]
1950年11月6日に高松地方裁判所丸亀支部で第一回の公判が行われた。裁判で谷口はアリバイと拷問による自白だと強く主張し、冤罪であると訴えた。これに対し検察側は、取調べ中にまったく出ていなかった、谷口が犯行時に着用したとする国防色ズボンに微量ではあるが被害者と同じO型の血痕が付着しているという物的証拠があり有罪であると主張した。
この血痕鑑定は、当時日本の法医学の権威であると賞賛されていた古畑種基東京大学教授による鑑定であったが、後に実際の検査は古畑教授の門下生の大学院生が行っていたことが判明した。後にこの物的証拠は弁護側から谷口の衣類押収の際に捏造されたものと主張したが、後述のように多くの証拠品が破棄されているため、真実は不明だが捏造が事実であったとの疑いがある。
この物的証拠と捜査段階での自白が信用できるとして、1952年(昭和27年)2月20日、高松地方裁判所丸亀支部は死刑判決を下した。谷口は控訴したが1956年(昭和31年)6月8日、高松高等裁判所で控訴を棄却され、1957年(昭和32年)1月22日、最高裁判所も上告を棄却し、谷口の死刑判決が確定した。
後に問題とされたのは、素行不良との風評から地元において犯人との噂話があったことを根拠に、農協強盗事件で起訴された谷口を起訴後に勾留したうえ、さらに別件逮捕するなど長期勾留を継続したことと、そして代用監獄による警察施設での食事を含む24時間の過酷な管理下におき、精神的肉体的限界のもとで自白を迫ったことなど捜査機関の行き過ぎた取調べである。また検察側もこのような不適切な違法捜査を是認したばかりか、上塗りすら行ったという。また裁判所も当時の法医学の権威であった古畑教授の鑑定を安易に信用した過失があった。なお古畑教授の鑑定で有罪となり後に真犯人が判明し冤罪が確定した弘前大学教授夫人殺人事件も再審で『シャツの血痕は警察が事件後に人為的に付けた捏造である』と判断していたことから、現在の血痕鑑定では血痕そのものだけでなく、どのようにして血痕が付着したかについても鑑定が行われるようになっている。
再審請求[編集]
死刑が確定した後、谷口は大阪拘置所に移送された。これは四国の行刑施設に死刑設備(絞首台)がなかったための措置である。
1969年、GHQ占領下で起訴された死刑確定事件6件7名に対して恩赦検討開始。大阪拘置所では、谷口のほかに放火殺人で死刑確定となったYHの合計2人が検討されたが、結局、恩赦を受けたのはYHのみだった。
その後法務省刑事局は、谷口の死刑執行に向けて法務大臣に提出する死刑執行起案書を作成するために必要となる、裁判に提出しなかった記録を送付するように高松地方検察庁丸亀支部に対して命令した。しかし、高松地検は記録を紛失(破棄した疑惑もある)したため、法務大臣への稟議書が出せず死刑執行手続きが法的に不可能になった[1]。そのため、谷口の処刑は無期限延期の状態となった。
一方、谷口は1964年(昭和39年)に「3年前の新聞記事によれば古い血液で男女を識別する技術が開発されたとあるが、自分は無実であるからズボンに付着した血液の再鑑定をおこなってほしい」と記した手紙を高松地裁に差し出した。その手紙は最高裁判決から12年後の1969年(昭和44年)、高松地裁丸亀支部長であった矢野伊吉裁判長によって5年ぶりに発見された。
矢野は疑わしく思える部分から再審の手続きを済ませ、再審に乗り出したが、開始直前に反対運動が起こり、「手紙ごときで再審はおかしい、引っ込め」などの暴言をうけた。矢野は裁判長を辞め、弁護士として再出発し、谷口の弁護人となって新たに再審請求をおこなった。
捏造された証拠物件[編集]
公判中、谷口は「自白は強要されたもの」として容疑を完全に否定、無罪を訴えた。だが、昭和27年1月25日、高松地裁は「古畑東大教授」の血液鑑定その他の状況から谷口に死刑判決を下した。昭和31年6月6日の二審で死刑判決。昭和32年1月22日の最高裁で死刑が確定した。
昭和44年、高松地裁の判事に就任した矢野伊吉は偶然、谷口の無罪を訴える手紙を発見した。谷口の純粋な気持ちを読み取った矢野は、谷口を救済すべく判事を辞任。以降、谷口の弁護士として再審請求活動を行う。
矢野によれば事件には以下のような不可解な点があったという。事件の捜査を行ったのは元特別高等警察出身の警察官達であったが、同じメンバーが担当した榎井村事件(1946年(昭和21年)に発生した殺人事件)も1994年に再審無罪になっている。
- 長期勾留と拷問による自白強要(このような自白強要は現在の刑事訴訟法では排除法則によって真実であっても証拠にならない)
- 自白調書が捜査機関によって不正作成されている
- 犯行を告白した手記が偽造されている(谷口は尋常小学校卒で漢字が殆ど書けず作文能力が稚拙だったのに、ある程度まとまった文章でかかれている。そのうえ作為的な文法ミスがある)
- 物的証拠を捏造している
- 高松地検丸亀支部による公判不提出捜査記録の破棄(そのため死刑手続自体が不可能になった)
- 弟と一緒に就寝していたというアリバイが成立する(親族による証言のため採用されなかった)
まず、自白そのものは「拷問による強制自白」であること。そして、犯行当時谷口が着用していたとするズボンに付着した血痕は、谷口を犯人とするため警察・検察側が被害者の血痕を後で付着させたのではないかという疑惑。また谷口が獄中で書いた手記が、裁判で証拠にされた手記とはまったく違うものだった。谷口は小学校しか出ていなく漢字は書けない。が、裁判に提出された手記は、漢字を多用し事実関係がよくできていた。これらも後日警察によって捏造した可能性が極めて高い。
無罪[編集]
1976年(昭和51年)10月12日、最高裁は谷口の自白に矛盾があるとする「3つの疑問と5つの留意点」を指摘して高松地裁に差し戻した。
1979年(昭和54年)6月7日に高松地裁は再審開始を決定し、検察側の即時抗告を1981年3月14日に棄却したため再審が始まった。
再審の公判では谷口は改めて拷問による自白を訴え、矢野は谷口の自白と現場検証の矛盾を突いた。また、地裁で出廷していた東大の教授が科学の進歩によりこれまで解明できなかった血痕に関して、谷口の衣類に別の血痕が混じっており、警察・検察がばら撒いたことを示唆した。また捜査機関による自白調書の信用性に対する疑問も主張した。
再審の結果1984年(昭和59年)3月12日に高松地裁は、被告人の自白には真実ではないとの疑いがある上、唯一の物的証拠であるズボンも事件当日に着用していた証拠はないとして、本事件と被告人とを結び付けえる証拠は存在しないとして、無罪を言い渡された。
しかし矢野は谷口の無罪判決を聞くことなく1983年(昭和58年)3月に他界(享年71)していた。なお谷口は獄中生活34年目にして無罪放免された。その後、谷口は2005年(平成17年)7月26日に病死(享年74)した。
最高裁判例[編集]
- 事件名=再審請求棄却決定に対する即時抗告棄却決定に対する特別抗告事件
- 事件番号=昭和49(し)118
- 裁判年月日=1976年(昭和51年)10月12日
- 判例集=刑集30巻9号1673頁
- 裁判要旨= 刑訴法435条6号にいう「無罪を言い渡すべき明らかな証拠」であるかどうかの判断にあたっては、確定判決が認定した犯罪事実の不存在が確実であるとの心証を得ることを必要とするものではなく、確定判決における事実認定の正当性についての疑いが合理的な理由に基づくものであるかどうかを判断すれば足りる。
最高裁で再審を棄却した決定に対し差し戻した事例 - 法廷名=第一小法廷
- 裁判長=岸盛一
- 陪席裁判官=下田武三 岸上康夫 団藤重光
- 多数意見=全員一致
- 意見=なし
- 反対意見=なし
- 参照法条=刑訴法435条6号
脚注[編集]
参考文献[編集]
関連項目[編集]
- 他の死刑冤罪事件