藤原真楯

提供: Yourpedia
移動: 案内検索

藤原 真楯(ふじわら の またて、霊亀元年(715年) - 天平神護2年3月12日766年4月29日))は、奈良時代の政治家。藤原北家の祖房前の三男として生まれる。真楯は天平宝字4年(760年)頃に賜った名で、それ以前の名は八束(やつか)である。

聖武天皇に才能を認められ寵愛を得るものの、同時代の有力者は仲麻呂(恵美押勝)で、最も栄えていたのは南家であった[1]。また、当時の北家の嫡流は大臣にまで昇っていた兄の永手であり、氏族間の均衡が望まれて親子・兄弟で要職を占めることに批判がなお強かった奈良時代後期において大納言まで昇った事はその才覚による部分が大きいと言える。そして後年藤原氏で最も繁栄する藤原道長頼通親子などを輩出したのは、彼を祖とする北家真楯流である。

萬葉集』に短歌7首、旋頭歌1首の計8首収録。同書の補注などから大伴家持とは個人的親交があったと推測されている。

系譜[編集]

  • 妻:佐味奈て麻呂の女 (※「て」は「氏」の下に「一」)
    • 男:藤原真永
    • 男:藤原永継(長継)

略歴[編集]

  • 天平5年(733年) 親交のあった山上憶良の病気見舞いに河辺東人を派遣。 
  • 天平12年(740年) 春宮大進、従五位下。
  • 天平12年(740年) 関東行幸従駕に際し、赤坂頓宮にて従五位上。
  • 天平13年(741年) 右衛士督。
  • 天平15年(743年) 正五位上(当時、式部大輔を兼ねる)。
  • 天平16年(744年) 従四位下。
  • 天平18年(746年) この頃、大和
  • 天平19年(747年) 治部卿。
  • 天平20年(748年) 元正太上天皇崩御に際し装束司
  • 天平勝宝元年(749年) 参議。
  • 天平勝宝4年(752年) 摂津大夫。
  • 天平勝宝6年(754年) 従四位上。
  • 天平宝字元年(757年) 橘奈良麻呂の乱後、正四位下。
  • 天平宝字2年(758年) 藤原仲麻呂らと官号改易に関与(当時、参議・中務卿)。
  • 天平宝字3年(759年) 正四位上。
  • 天平宝字4年(760年) 従三位、大宰帥。「真楯」の名を下賜。
  • 天平宝字6年(762年) 中納言、中務卿。
  • 天平宝字8年(764年) 正三位、式部卿、勲二等、授刀大将。
  • 天平神護2年(766年) 大納言。
  • 天平神護2年(766年)3月12日 52歳で死去。称徳天皇より大臣としての葬儀を賜わる。

脚注[編集]

  1. 『続日本紀』の真楯薨伝には仲麻呂と不仲で一時家に閉じこもっていたことが記されているが、実際には仲麻呂政権下でも順調に出世している。吉川敏子はこれは兄の永手伝の混入の結果であり、後に仲麻呂の唐風への官名改称には賛同していること、淳仁天皇(実質は仲麻呂から)「恵美押勝」と同様の形式である唐風の「真楯」の名を授かっている点からも、両者には深刻な対立は無かったとしている(吉川敏子「仲麻呂政権と藤原永手・八束(真楯)・千尋(御楯)」(初出『続日本紀研究』294号、1994年 『律令貴族成立史の研究』塙書房、2006年 ISBN 978-4-8273-1201-0 所収))。

関連項目[編集]