緒方信一つるし上げ事件
緒方信一つるし上げ事件(おがたしんいちつるしあげじけん)または緒方事件は、1958年8月4日、戦時中昭南特別市の警務部長だった緒方信一がシンガポールに立ち寄った際に、G・H・キアット(呉佛吉)が開いた歓迎会の席上、星洲華僑集体鳴冤委員会理事の荘恵泉にシンガポール華僑粛清事件の遺体の埋葬場所はどこかと詰問され、翌5日にシンガポールを離れる際、空港に荘恵泉や同事件の遺族ら鳴冤委員会のメンバーが集まって緒方を糾弾しようとした事件。
墓参[編集]
1958年に、戦時中昭南特別市の警務部長で、当時文部省大学学術局長となっていた緒方信一は、当時警察協助協会の書記長をしていて戦後も親交のあった[1]余[火卓]華がシンガポールで他界したことを知り[2]、同年8月3日、ジュネーブで開かれた初等教育に関する国際会議の帰途に、墓参のためシンガポールに立ち寄った[3][4]。
荘恵泉の詰問[編集]
その際、親交のあったG・H・キアット(呉佛吉)にも訪星を連絡したところ、呉がシンガポールの各新聞社に連絡したため3日付の新聞記事で告知され[5]、緒方がシンガポールのパヤレバー飛行場 に到着すると、大勢の新聞記者に取り囲まれ、シンガポール華僑粛清事件や泰緬鉄道建設での死者の数や、警察庁長時代、どんな手段で治安維持をはかったのか、など日本軍占領中の事績についてコメントを求められた[6][7][3]。
- 緒方 (1986 379-380)は、「日本の占領中のシンガポールは治安がよくて、晩も戸を開けたまま寝たというが、本当か」「現在のシンガポールの状況をどう思うか」など質問された、としている。
- 緒方 (1981 91)は、記者はニヤニヤ笑いながら、「その時の治安は非常によかったそうだが、今の治安は悪いけれどもどう思うか」などいろいろと質問をした、としている。
- 南洋商報 (1958-08-04 )は、緒方は記者の質問に対して、現在の所属や訪問の目的に関する質問に答えたほかは、上述の死者数や拷問に関する質問には一切答えなかった、としている。
緒方は出迎えた呉に助けられて空港を出た[6]。
翌4日、緒方は、墓参を済ませ、新聞を見て[8]宿泊先のキャセイ・ホテル を訪れた旧警察関係者と面会するなどした。その後、夕刻、呉の自宅で開かれた歓迎会に出席したところ、歓迎会には元136部隊 華人部隊副長で、星洲華僑集体鳴冤委員会の総務部長となっていた荘恵泉も出席していて、緒方に詰め寄って、握手を拒否し、粛清事件の犠牲者の埋葬場所を教えてくれと緒方を問い詰めた。[9][10][11][12]
呉が「緒方は粛清とは関係ない」と取りなし[9]、緒方は事件後の1942年7月にシンガポールに着任したため埋葬場所は知らないと弁明したが、荘は聞き入れず[14][11][12]、自分の弟が当時警察に殺された話をしたので、緒方は"It's a pity."と答えて、うなだれていた[14]。
- 緒方 (1986 380)および緒方 (1981 92)は、その様子が翌5日の『ストレート・タイムス』の1面に大きく取り上げられた、としている(後者によると記事の表題は'Jap Police Chief Says "It is Pity"')が、この記事は確認できていない。ストレート・タイムス (1958-08-05 )は、5面で、荘恵泉が前日(4日)終日緒方を探したが会うことができなかった、と報じ、荘の談話を掲載している。なお前述のように、南洋商報 (1958-08-04 )によれば荘は4日夕方に呉の歓迎会に出席し緒方に会っている。
呉は後に、「緒方は私にはよくしてくれたが、他の人に対してどうだったかは知らない。日本の占領期間中には2人の息子を亡くすなど多くの身内が命を落としており、日本人が好きというわけではないが、緒方は好い人であり、家族が訪日時に世話になったのでお礼のつもりで歓迎会を開いた。荘はよき友人であり、緒方に会って話がしたいと頼まれたので歓迎会に呼んだ」とする文書を『南洋商報 』に寄稿した[15]。
空港での騒動[編集]
新聞報道や歓迎会での事件を受けて、緒方の安全を気遣った在シンガポール日本総領事館が外出を控えるように要請し、緒方は5日夜の日航機でシンガポールを離れるまでこれに従い、車中から市内を観光した[16][14][11]。
- シンガポール日本人会 (1978 93)は、日本領事館は警察の保護を要請し、同氏をラッフルズ・ホテルに入れ、厳重に警戒した、としている。
離星の際、空港の正面入口には荘恵泉に率いられた鳴冤会のメンバー10数名が集まっていて、緒方を糾弾しようと待ち構えていた[12]。
しかし緒方は正面入口とは別の入口から空港に入ってそのまま飛行機に搭乗し、荘と鳴冤会のメンバーらは肩透かしにあった[18][14][12]。
- シンガポール日本人会 (1978 93)は、荘恵泉が遺族約3,000人を率いて空港に押しかけ、遺族が飛行機の出発を実力で阻止しようとし、武装警官隊と小競り合いが起きた、としている。
緒方は日本への帰路、経由地の香港でも新聞記者に取り囲まれた[14][19]。
余波[編集]
日本の新聞は、ジャパン・タイムズが緒方が荘恵泉の抗議を受けたことを報じた程度で、ほとんどこの事件を報道しなかった[20]。日本政府は緒方から事情を聞き、外務省は在シンガポール総領事館に緒方のシンガポール訪問の経緯について報告を求めた[20]。
後日、シンガポールの入国管理当局が緒方にビザを発給していたことが問題視され、戦時中に情報工作や戦争犯罪に関わった人物の入国を差し止めるべきだと議論された[21][22][23]。
関連事件[編集]
1958年12月10日、ゲーラン路 のハッピー・ワールドで開催されていた日本商品展示会の会場で、荘恵泉が、「大声で前日が日本のマレー攻撃の17周年記念日であることを聴衆に思い出させ」、「『日本と取引をするビジネスマンは日本軍が戦時中にマラヤで行った虐殺を忘れてはならない』と叫んだ」[24][11]。
- シンガポール日本人会 (1978 93)は、華僑遺族会が会場に乱入し、「17年前の虐殺を想起せよ。今更何の親善ぞ!」と叫び、展示会粉砕を叫んだ、としている。
翌日のストレート・タイムズ(ストレート・タイムス 1958-12-11 )には、演説をする荘恵泉と、当惑してうつむく日本代表の写真が掲載された[11]。
- (編注)緒方 (1981 92)は、この事件(の新聞記事)を自身の事件と混同しているようにも思われる。
付録[編集]
脚注[編集]
- ↑ 緒方がゾルゲ事件の関係で公職追放になっていた時期に、申し開きのために来日するなどしていた(緒方 1981 90)。
- ↑ 緒方 1981 90
- ↑ 3.0 3.1 緒方 1981 91
- ↑ 緒方 1986 377-379
- ↑ ストレート・タイムス (1958-08-03 )を参照。
- ↑ 6.0 6.1 南洋商報 1958-08-04
- ↑ 緒方 1986 379-380
- ↑ 緒方 (1986 380)は、3日の夕刊に滞在日程と「占領時代は治安が極めて良好であった」など若干の記事が出た、としているが、この記事は確認できていない。前述のとおり、南洋商報 (1958-08-04 )は、緒方が上述の死者数や拷問に関する質問に答えなかったことを伝えている。
- ↑ 9.0 9.1 緒方 1986 380
- ↑ 緒方 1981 91-92
- ↑ 11.0 11.1 11.2 11.3 11.4 シンガポール日本人会 1978 93
- ↑ 12.0 12.1 12.2 12.3 12.4 南洋商報 1958-08-06
- ↑ ストレート・タイムス 1958-08-05
- ↑ 14.0 14.1 14.2 14.3 14.4 緒方 1981 92
- ↑ 南洋商報 1958-08-09
- ↑ 緒方 1986 380-381
- ↑ 荘は南洋商報 (1958-08-13 )に同趣旨の談話を寄稿している。
- ↑ 緒方 1986 381
- ↑ ストレート・タイムス 1958-08-07
- ↑ 20.0 20.1 南洋商報 1958-08-10
- ↑ ストレート・タイムス 1958-08-11
- ↑ ストレート・タイムス 1958-08-12
- ↑ 南洋商報 1958-08-12
- ↑ ストレート・タイムス 1958-12-11
参考文献[編集]
- 緒方 (1986) 緒方信一「東京に帰ってきたスーツケース」シンガポール市政会『昭南特別市史 - 戦時中のシンガポール』日本シンガポール協会、JPNO 87031898、pp.377-381
- 緒方 (1981) 緒方信一(述)東京大学教養学部国際関係論研究室(編)「緒方信一氏インタヴュー記録」『インタヴュー記録 D 日本の軍政 6』東京大学教養学部国際関係論研究室、NCID BN1303760X、pp.63-92
- シンガポール日本人会 (1978) シンガポール日本人会「戦後の日本人の歩み - シンガポール日本人会を中心に」『「南十字星」10周年記念復刻版』シンガポール日本人会、JPNO 79090009、pp.83-137
- ストレート・タイムス (1958-08-03) Ogata returns on visit, The Straits Times, 1958年8月3日 p.11
- ― (1958-08-05) The colonel asks Ogata's help to find skeletons, ――, 1958年8月5日 p.5
- ― (1958-08-07) OGATA IN HONG KONG—DOES NOT LEAVE AIRPORT, ――, 1958年8月7日 p.1, REUTER
- ― (1958-08-11) Ogata's visit causes more trouble, ――, 1958年8月11日 p.7
- ― (1958-08-12) 'Most unlikely' that Federation would have admitted Ogata, ――, 1958年8月12日 p.2
- ― (1958-12-11) OH, IT WAS SO EMBARRASSING FOR GUESTS AT THE PARTY, ――, 1958年12月11日 p.5
- 南洋商報 (1958-08-04) 「“昭南島”警察庁長緒方重来本坡‐不敢談及大検証血案」『南洋商報』1958年8月4日 p.7
- ― (1958-08-06) 「鳴寃会人馬中“空城計”‐緒方抱頭鼠竄進機場」―― 1958年8月6日 p.5
- ― (1958-08-09) 「因緒方事件恐人誤会‐呉佛吉発誓申弁」―― 1958年8月9日 p.8
- ― (1958-08-10) 「緒方過星時遭受排斥‐日本外務省極爲重視」―― 1958年8月10日 p.8、泛亜社伝
- ― (1958-08-12) 「緒方在新加坡過境‐乃循不正常手續」―― 1958年8月12日 p.6
- ― (1958-08-13) 「鳴寃委員会忠告‐日人設法償清大検証血債」―― 1958年8月13日 p.5