百済
百済(くだら)は、韓国の古代国家の一つで、紀元前18年に建国され660年に滅亡されたとされる。
百済の歴史[編集]
初代の温祚王は、高句麗の初代王東明聖王の息子と言われている。韓国に現存する最古の歴史書『三国史記』に、高句麗を建てた東明王の三子温祚が紀元前18年に百済を建国したと書かれる。温祚は兄の沸流とともに臣下を率いて南へ向かい、漢江の近くに慰礼城と宮殿を築き建国した。 2代の多婁王は東北辺の靺鞨との戦いが続いた。63年には支配領域を娘子谷城まで広げた。 第8代の古爾王(在位:234~286)のとき、246年に楽浪の辺境地域を攻撃するなど、中国の郡県の勢力と対立し、領域を広げた。三国のうち最も早く行政組織を整備し、官職に等級をつけ(16官等制度)等級により服の色を定めた。261年には行政機構の六佐平を設置し、律令を定めることにより統治組織を整備した。大規模な王城を築き、防備体制を構築した。 多婁王は在位50年にして77年9月に薨去した。 第13代近肖古王(在位:346~375)の時代には、全羅道地域の馬韓勢力を統合して伽耶地域に進出しし、次第にその領域を南方に広げていった。高句麗の南進を阻止し、371年には自ら精兵3万人を率いて平壌城を攻撃して高句麗の故国原王を討ち取った。 369年には、倭国へ七支刀を贈っている。405年、百済の阿直岐、博士王仁などが応神天皇の招きで日本に渡来し、論語、漢字を伝え、皇子(後の仁徳天皇)の教育を行った。 457年(大明元年)10月、第21代蓋鹵王(在位 455年-475年)は宋の世祖より鎮東大将軍の爵号を受けた。 475年には都・漢城(慰礼城、ソウル)を落とされ蓋鹵王は戦死した。 新羅に滞在していて難を逃れた文周王は都を熊津(現・忠清南道公州市)に遷した。 501年 東城王が暗殺され、武寧王が即位した。503年 百済武寧王は倭国に遣使した。 百済の聖王は538年、熊津(現・忠清南道公州市)から泗沘(現・忠清南道扶余郡)に遷都し、国号を南扶余と号した。
660年、唐の蘇定方将軍の軍が山東半島から海を渡り百済に上陸し、百済の王都を占領した。義慈王は熊津に逃れたが間もなく降伏して百済人は新羅および渤海や靺鞨へ逃げ、百済は滅亡した。 倭国に人質として滞在していた百済王子の扶余豊璋は百済王に推戴されたが、実権を握る鬼室福信と対立し、これを殺害した。唐から劉仁軌の率いる唐の増援軍が到着し、663年倭国の水軍と白村江(白馬江)で戦ったが、大敗した。9月25日倭国は、亡命を希望する1万人とも言われる多くの百済貴族を船に乗せて出港した。豊璋は密かに高句麗に逃れた。668年に高句麗も唐に滅ぼされ、豊璋は高句麗王族らとともに唐の都に連行され、その後の消息は不明である。