河合徳三郎
河合 徳三郎(かわい とくさぶろう)
- 初代:(1870年5月 - 1937年12月3日)日本の実業家、、映画プロデューサー、政治家。土木請負業で財をなした後、河合映画製作社社長、大都映画社長として多くの映画制作に関わった。また、民権新聞社社長、東京府会議員、東京府参事会員、大和民労会会長なども務め、「天下の河合」と呼ばれた。女優の琴路美津子、三城輝子、大河百々代は娘、河合亞美は曾孫。俳優のハヤフサヒデトは義理の息子。本項で解説。
- 2代:初代の長男。生誕時の名は篤文、後に覚太郎。初代の死去後、徳三郎の名を継いで大都映画の経営にあたった。
来歴[編集]
1870年(明治3年)5月、かつて徳川義宜の家臣であった河合吉次の五男として生まれる[1]。生誕時の名前は角太郎であったが、兄(四男)の徳三郎が死去してからは名が徳三郎となった[2]。1885年(明治18年)ごろ、それまで暮らしていた岐阜県を発って東京に向かい、土木工事の現場で働くようになる。その後、鈴木由三郎の鈴木組で頭角を現し、1900年(明治33年)ごろには、東京市に土木建築請負業「河合組」を登録している。河合組には、後に関根賢(後の関根組組長)などの人材が集まることとなった。
1919年(大正8年)11月、梅津勘兵衛、倉持直吉、青山広吉、篠信太郎、西村伊三郎、中安信三郎らと共に、床次竹次郎(当時内務大臣)を世話役に、頭山満を顧問に迎えて、大日本国粋会を結成する。
1921年(大正10年)1月[3]、立憲政友会の介入に反発して[4]大日本国粋会を脱会し、立憲民政党の後ろ盾のもと後藤新平を顧問に、関根賢、高橋金次郎、城迫正一(後の小千鳥組組長)らと大和民労会を結成。 その後、1922年(大正11年)の鼈甲屋事件や、大和民労会と大日本国粋会の抗争事件など、多くの抗争事件に関わった他、鶴見騒擾事件の調停にも一役買ったとされる[5]。
1923年(大正12年)には関東大震災で打撃を受けるが、復興時の建築ブームに乗って再起。
1927年(昭和2年)4月、映画配給会社「河合商会」を設立。同年12月には「河合プロダクション」(後に「河合映画製作社」に改名)を設立し、映画制作に乗り出す。翌1928年(昭和2年)3月からは、河合本人もプロデューサーとして映画制作に着手するようになった。河合映画製作の映画のうち、半分ほどは河合が原案としてクレジットされている。
1928年(昭和3年)、東京府会議員に立候補して当選。1932年(昭和7年)には再選され、1936年(昭和11年)6月まで2期8年間議員を務めた。
1933年(昭和8年)、河合映画製作社は東亜キネマを吸収合併し、「大都映画」となった。河合は引き続いて社長を務める。
1937年(昭和12年)12月3日、死去。墓は墨田区の常泉寺にある。
脚注[編集]
参考文献 [編集]
- 本庄慧一郎『幻のB級! 大都映画がゆく』 集英社、2009年
- 山平重樹『義侠ヤクザ伝・藤田卯一郎』幻冬舎<アウトロー文庫>、2003年、ISBN 4-344-40476-9
- 山平重樹『ヤクザの死に様 伝説に残る43人』幻冬舎<アウトロー文庫>、2006年、ISBN 4-344-40894-2