永野一男
永野 一男(ながの かずお、1952年8月1日 - 1985年6月18日)は、日本の会社経営者(実業家)。金のペーパー商法を行った豊田商事の創業者(会長)。
来歴[編集]
岐阜県恵那市に生まれる。15歳のとき、島根県の叔父宅に預けられ、現地の中学校を卒業し、集団就職で日本電装(現・デンソー)に入社したが、2年で退職。その後は転職を繰り返し、商品取引業者の岡地に入社。岡地では高い営業成績を上げていたが、顧客の金を勝手に小豆市場につぎ込んで大穴を開けたことが発覚して解雇されている。その後も再び職業をめまぐるしく変えているが、この間の1976年3月30日、大垣競輪場のトイレでスリを働いて逮捕されている。
1981年4月22日に「大阪豊田商事」を設立。永野が「豊田」を会社名に入れた理由は、中学校を卒業して最初に就職した先がトヨタグループの自動車部品メーカーである日本電装であったためで、約1年後に「豊田商事」とする。
豊田商事事件参照
1985年6月18日午後4時30分過ぎ、大阪市北区の自室マンションの玄関前に「今日逮捕」との情報を聞きつけてマスコミ取材班が集まる中、被害者の元上司に当たる自称右翼の男二人が窓ガラスを破って侵入し、永野の頭部など全身13箇所を銃剣で刺した。永野は直ちに病院へ運ばれたが、午後5時15分出血多量のため死亡。生前語っていた「顔を知られると殺される」は現実のものとなってしまった。豊田商事会長刺殺事件参照
人物[編集]
豊田商事の現物まがい商法で数千億円もの金を集めるのに成功し、高級乗用車(ランボルギーニ・カウンタック等)を乗り回し、さらには自家用のクルーザーまで保有するなど派手好みではあったが、一方で「顔を知られると殺される」とマスコミを嫌い、社員ならびに役員にも顔をほとんど見せなかった。
永野が殺されたときの所持金はわずか711円だった。尚、「女房に累が及ぶ」との理由から結婚せず、生涯を未婚で通した。事件後カウンタックは差押され、管財人になった中坊公平らによって売却されることになったが、スーパーカーブームが過ぎ去っていたためにあまり高く売れなかった。