武富士弘前支店強盗殺人・放火事件
武富士弘前支店強盗殺人・放火事件は、2001年5月8日に青森県弘前市田町で起きた強盗殺人・放火事件である。
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概要[編集]
2001年5月8日午前10時50分頃、タクシー運転手の男、小林光弘が武富士弘前支店に強盗目的で押し入った。小林は現金を要求したものの支店長に拒否され110番通報されたため激怒。店内にガソリンの混合油をまいて放火、逃走した。火災は店内に一気に広がり、店延べ約96平方メートルをほぼ全焼した。支店は3階にあり、小さな窓しかないという建物の構造も災いし、同支店の社員5人(当時20~46歳)が炎に囲まれて脱出不能となりそのまま死亡。辛うじて脱出出来た4人も重軽傷を負う惨事となった。
弘前支店が通報した際、住所を言い間違えたためそちらに出動した後に現場に警察が到着したり、招集日であったため緊急配備までに時間を要したことなどから初動が遅れ、小林の逃走を許した。早い段階で重要参考人として小林が浮上していたものの、小林が逃走中にアリバイの偽装などを行っていたため捜査は難航した。その後作成された小林のモンタージュの似顔絵や放火に用いた新聞紙などが決め手となり、2002年3月4日に逮捕となった。動機はギャンブルによる借金苦であった。
同年強盗殺人、同未遂、現住建造物等放火の罪により起訴。1審より被告側は「ガソリンは脅すために持って行ったもので火をつけるつもりはなく、殺意はなかった」として最高裁まで争った。しかしまいたガソリンに小林が実際に火をつけ被害者を死に至らしめていることなどから、「強盗が失敗して自暴自棄になり、支店内の社員らが死ぬかも知れないことを認識しながら、それでも構わないと考えてガソリンに火を放ち、被害者を殺害した」とし「未必の殺意」を認定。1審・2審ともに死刑判決が言い渡され、2007年3月27日に最高裁は小林の上告を棄却した。被告弁護人は同年4月2日判決の訂正申し立てを行ったが最高裁は同月12日付けで申し立てを却下。死刑が確定した。
死刑確定後小林は主に殺意の有無をめぐり3度にわたり再審請求を行ったが、すべて棄却されている。2014年8月6日に3度目の再審請求の棄却が言い渡された。同年8月29日、仙台拘置支所にて小林の死刑が執行された。4度目の再審請求の準備に入るところであったという。
犯行詳細[編集]
5月7日、小林は勤務先の休日を利用して弘前支店を訪れ、カウンターの位置や従業員数を確認。浪岡町周辺のガソリンスタンドで約4リットル入りの金属缶でガソリンを購入した。ちなみに犯行当日も休日だった。
5月8日午前10時45分頃、小林が弘前市田町5丁目のビル3階の武富士弘前支店に押し入る。支店には出入り口から奥が見えないように、カウンター部分と店舗奥にある管理室との間を仕切る壁があり、男は出入り口近くからカウンターの内側に向かって、金属製の缶に入ったガソリンを主成分とした混合油をまいた。
撒き終えると、小林は「金を出せ出さねば火をつけるぞ」と津軽弁で脅迫、支店長が断ると火を付けた。同48分には支店長が「今、男が来て火を付けるところだ」と通報。凶行はわずか2~3分の間に行われた。
当時、支店内の金庫には1000万円が入っていたが、小林は予想以上に火の勢いが強かったためか、何もとらずに外に停めておいた緑色の軽ワゴン車「スバル・サンバー」で青森市方向に逃走。
この火災により、同支店勤務の田沢伸治さん(36歳)、太田はるかさん(20歳)、葛西志保里さん(22歳)、笹森容子さん(46歳)、福井貴子さん(30歳)の5人が焼死、他に店長ら4人も火傷を負った。
亡くなった5人は店舗奥に追い詰められたような状態で発見された。出入り口は1カ所しかなく、このため、従業員らは出入り口から反対方向の管理室の方に逃げたが火の回りが早く、避難口に設置したロープ式の避難器具も使えなかった。駆け付けたファストフード店の店長らがかけたはしごで、火傷を負いながらも4人が脱出できただけだった。
同支店では防犯ベルが5箇所に設置されており、ベルが鳴れば数分で警備員が駆けつける体制になっており、2台の防犯カメラも24時間稼動していた。しかし、店内の焼失とともにカメラも燃えてしまい、科学捜査研究所にまわせないものが多かった。
5月9日、小林は事件翌日にはなにくわぬ顔で出勤している。この日、ガソリンを入れていた4リットルの金属缶を自宅近くの雪捨て場のようなところで捨てた。
5月下旬、小林、裁判所で自己破産の申請。
12月25日、事件が起こった弘前市のビルが取り壊される。
武富士では犯人の似顔絵入りのポケットティッシュ2億5000万個を配り、犯人逮捕に協力した。ニュース番組などでも似顔絵がたびたび紹介されるなど、小林を追いつめていった。
死者が出たことを知る[編集]
事件から一夜明けて、小林は通常通りタクシー会社へ出勤して来た。昨日はせっかく強盗に入ったのに金は全く手に入らなかった。次の返済日までに60万円返さなければならない。どうしようかと考えながら、会社で何気なくテレビを見ていると、昨日自分が起こした事件が報道されていた。
「武富士 弘前支店の火災は強盗に入った男の放火によるものでした。この火災で5人が死亡し、4人が火傷を負うなどの重軽傷を負い・・。」
「5人も死んだ!?そんな・・殺すつもりなんかなかったのに・・。」小林はニュースを見て、初めて死者が出たことを知った。
しかし動揺はしたものの自首する気にはならなかった。
「俺は悪くねえ。通報した店の奴が悪いんだ。通報さえしなければ誰も死なずに済んだんだ。俺は絶対自首しねえ。」
すぐに開き直った考えに達した。
小林が日常に戻って生活している間、青森県弘前警察署では着々と捜査が進んでいた。生き残った従業員の証言から、犯人は水色のつなぎのような作業服を着ていたことや、年齢は40代であることが分かった。
また、あの時ビルの中から不審な男が飛び出してきて、ワゴン車に乗り、慌てて発進していったのを何人もの人が見ていたことも分かった。ワゴン車の色は深い緑色である。
武富士に押し入った時にはマスクと帽子で顔を隠していたので、武富士の社員は犯人の顔をほとんど見ていない。しかし、ビルから飛び出して来た時にはマスクも帽子もはずしていたため、社員の証言だけでは似顔絵の製作は困難だったが、ビルの外で不審な男を見たという人たちの協力を得て似顔絵が製作された。この似顔絵は出来栄えは良く、小林の特徴をうまく捕らえていたが、捜査の方は思いのほか難航していた。
防犯カメラも現場の遺留品も全て燃えてしまっており、手がかりとなる物的なものがほとんどないのもその理由の一つだった。
警察はこの似顔絵を全国に公開し、テレビでも放送して協力を呼びかけた。
テレビでは相変わらず放火事件の続報を放送していたが、この中で「犯人が5人もの従業員を殺した。」といったような表現が多々あり、テレビを見ていた小林はこれに腹を立てた。
「殺そうと思って殺したわけじゃないのに、あの言い方は何だ!」
頭に来た小林は青森テレビに電話して「俺が武富士放火の犯人だ。」と名乗った後、「目的は金だった。あの時俺がまいたのはガソリンで、店側とすれば俺が火をつければどうなるか分かっているはずだった。金を出さなかった店側の責任だ。俺は絶対自首せんぞ。」
と一方的に言って電話を切った。あくまでも従業員が死んだのは店側の責任だと主張した。
警察は、武富士弘前支店に恨みを持つ者の犯行と考え、弘前支店から金を借り、なおかつ恨みを持っている可能性があるお客のリストを武富士に製作提出してくれるように頼んだ。
しかし武富士の方からは「個人情報保護の立場から個人名を公表するのは困難」という返事であり、お客からたどっていくという線はここで諦めざるを得なかった。
だが武富士は後に、犯人の似顔絵入りのポケットティッシュを全国で2億5000万個作って街頭で配り、個人情報の面では協力出来ないものの、それ以外のことでは会社を上げて警察への協力を行った。
あの時、火をつけられる直前に支店長が警察に電話していたが、その時の会話は録音されて残っており、その中に犯人の声も混じっていることが分かった。これを分析し、犯人に津軽弁のなまりがあることが判明した。
また、犯人が階段の踊り場で火をつけた新聞紙の燃え残りを徹底して分析し、印刷のズレやかすれ、紙の質などから新聞の種類を特定し、その新聞が配られていた地域も特定出来た。
犯人が逃走に使った車に関しても捜査は進められ、似たような車を持っている人間全てを捜査の対象とした。その数は青森県全域で27000台にものぼったが、これらを一件一件当たって確実に捜査網をせばめていった。
似顔絵が公開され、車もほぼ特定されると、小林はいずれうちにも聞き込みが来るのではないかと思うようになってきた。
警察が来た時のために、小林は事前に妻に言っておいた。
「武富士の犯人はうちと同じ車に乗っていたらしい。俺は犯人じゃないが、疑われると面倒だからよ。警察が来て事件の日のこと聞かれたら、お前がパートに乗って行ってたことにしろよ。」
「そうねえ。面倒なのも嫌だし、その方がいいわね。」何も知らない妻はすぐに同意した。
後に本当に弘前署の署員が聞き込みに小林の自宅を訪れた時にも、妻はこの通りに証言してやり過ごしている。
また、捜査をかく乱させるために小林は、下のように書いた手紙を青森テレビの建物の前に置くという小細工も行っている。
「犯行に車は使っていない。ガソリンは購入していない。私は40代ではない。」
あまりにも汚い字で幼稚な内容であり、捜査の混乱を狙ったものであるということは明らかで、警察側も本気にはしなかった。一方、似顔絵の方からは「似ている」という人物の情報が280件寄せられていた。こちらも一人一人捜査に当たっていった。
似顔絵に似ている人物、車、使われた新聞紙とその配布された地域など、徹底して捜査していった結果、ついに警察は小林へたどりついた。
似顔絵に極めてよく似ているという点はもちろんであるが、その他の条件が全て当てはまっている。小林の家に聞き込みに行った時には、事件当日、車は妻が乗って出た答えているが、身内の証言などは信用性が低い。
また、小林は、事件の前日と当日は会社を休んでおり、事件前日に市内でガソリンを購入していることも警察側は突きとめた
犯人逮捕の決め手[編集]
警察は小林光弘が逃走する際に引火した新聞紙の燃え残りを徹底的に分析、印刷する際、四隅に入る「トンボ」のわずかな見当ズレや版の消耗から発生する印刷擦れ、「第〇〇版」という紙面上部に入る印刷完了時を示す符号等から工場に複数台あるオフ輪印刷機の特定並びに配達地域を割り出した。
その地区の住人で逃走車両と同型の車を持っていた者は小林光弘だけであったため、警察は重要参考人として小林光弘を事情聴取、家宅捜索の結果、テレビ局に送りつけられた犯行声明文の筆圧が残った便箋を発見。小林光弘は犯行を自供した。
犯人・小林について[編集]
青森県南津軽郡平賀町で4人兄弟の次男として生まれる。千葉県で定時制高校に通っていた当時、ガソリンスタンドでアルバイトしていた。
1987年、青森に帰りタクシー会社に勤務。人当たり良く、勤務態度も真面目だった。
1995年1月、自宅購入。このときの1760万円の住宅ローンを組む。
1997年ごろ、自身の仲人の女性・A子に「面倒を見ている一人暮らしの老人から近々1000万円もらえる予定だが、その手続きに金がいる。貸してもらえないか」と持ち掛けられ、青森市内の4つの消費者金融から50万円ずつ、計200万円を借金した。小林の妻も消費者金融から50万円を用立てていたという。
1998年頃、タクシー会社の労働組合から10万~20万円程度を借りて青森競輪場に行き「一発勝負したが負けた」などと話していた。この借金は給与から天引きで返済していたというが、競輪資金として複数の消費者金融から金を借りていた。借金の総額は2300万にまで膨れ上がっていた。
一時は同僚を交え、A子に金を返す旨の念書を書かせたりしたとされるが、既に督促に困っていた小林は、退職金を見込んで10年勤めた青森のタクシー会社を退社して、以後職場を転々とする。上京し、東京のタクシー会社にも勤めたこともあったが、3ヶ月ほどで青森に戻った。
2000年4月、増収を見込んで軽貨宅配の仕事を始める。
4月末、行方をくらましていたA子が、岩手県にある港で一家三人と心中。A子はその直前、詐欺容疑で青森署から指名手配されていた。小林もA子を信じ込んでおり、A子の死で借金を完全に背負う形になった。増大した借金に小林はますます競輪にのめりこむようになる。
2001年5月、1度辞めたタクシー会社で再び働き始める。同僚は「勤務態度はまじめ」「安定したノルマを果たす仕事ぶりだった」と話している。
テレビ番組[編集]
- 2002年3月2日に日本テレビ系で放送されたFBI超能力捜査官という特別番組でのナンシー・マイヤーの透視が、小林光弘逮捕のきっかけになったと言われるが、実際は放送前から重要参考人として小林光弘が浮上しており、犯人のモンタージュの似顔絵もメディアで広く報道され、武富士のポケットティッシュにも似顔絵が同梱されていた。また、番組内で紹介された犯人の素性(住所、職業、犯行動機など)や事件後の動向(番組の超能力者は「犯行時に火傷を負い仕事を休んでいた」と主張していたが実際は事件後も仕事を続けていたことがわかった)は、実際のそれとは隔たりが大きかったが[1]、逮捕後の番組では「超能力者が描いた想像図は犯人の顔とそっくり」という主張をしていた。
- 犯人逮捕後、未解決事件の情報提供を求めるTBS系の公開捜査番組内で同事件の再現ドラマが放映されたことがある。気弱な犯人役を演じたのは渡嘉敷勝男であった。
武富士の対応[編集]
- 店長が犯人の要求を断った背景には、ノルマに追われる営業実態に原因があるのではないかという指摘が一部報道でなされた。このため、武富士は1年近くテレビコマーシャルを自粛、一方で全国の街頭などで配布するポケットティッシュの裏面に犯人の似顔絵を掲載するなど、事件解決に向けて協力する姿勢を見せた。
- 遺族側は、店舗に非常口がなく、防犯訓練等も行われていなかったことから、武富士に損害賠償を要求。後に示談が成立したという。
- 事件後武富士弘前支店は再開せず、閉店した。
その他[編集]
- 事件の発生した店舗は3階建てのテナントビルの3階にあり、1階と2階にはレンタルビデオ店が入居していた。同建物は2001年12月26日に取り壊されている。
- 死亡した5人の社員の中に東奥義塾高校の卒業生が1人おり、事件がニュースで取り上げられた際、当時担任だった教師が報道陣のインタビューにコメントをして、高校でも追悼礼拝がおこなわれている。
青森・武富士強殺放火の死刑囚ら2人執行(2014年8月)[編集]
谷垣禎一法相は29日午前、5人が死亡した青森県弘前市の武富士支店放火殺人事件で強盗殺人罪などにより死刑が確定した小林光弘死刑囚(56)=仙台拘置支所=と、群馬県内で対立する暴力団組長ら3人を射殺し殺人罪などで死刑が確定した元暴力団組長、高見沢勤死刑囚(59)=東京拘置所=の2人の死刑を執行したと発表した。
死刑執行は2014年6月以来。2012年12月の政権交代による谷垣法相就任以降、6回で計11人が執行されたことになる。
確定判決によると、小林死刑囚は借金返済に困り、2001年5月、武富士弘前支店でガソリンが主成分の油をまき「金を出せ」と脅迫。拒まれたため火をつけた紙片を投げ入れて支店延べ約96平方メートルをほぼ全焼させ、従業員5人(当時20~46歳)を焼死させるなどした。2007年4月に最高裁で死刑が確定した。
一方、高見沢死刑囚は配下の組員に指示し、2001年11月に群馬県安中市(旧松井田町)で男性土木作業員(当時60歳)を、2005年9月に安中市内の路上で男性組長(同61歳)をそれぞれ射殺。2005年4月には同市の組事務所を訪れた男性元組員(同35歳)を自分で射殺した。2012年11月に最高裁で死刑が確定した。
確定から執行までの期間は小林死刑囚が約7年4カ月、高見沢死刑囚が約1年9カ月。小林死刑囚は今月6日に3度目の再審請求の棄却が確定したばかり。
静岡市(旧静岡県清水市)で1966年、一家4人を殺害したとして強盗殺人罪などで死刑が確定し、2014年3月に再審開始決定を受けて釈放された元プロボクサー、袴田巌元被告(78)を除くと、確定死刑囚は125人となった。
谷垣法相は29日午前の記者会見で「いずれも身勝手な理由で尊い人命を奪った事件。遺族は無念このうえないと思う」と述べた。