正倉院
正倉院(しょうそういん,Shosoin)は、奈良県奈良市に所在する東大寺大仏殿の北西にある校倉造の高床式木造倉庫である。
概要[編集]
建築概要[編集]
正倉院はもともと東大寺の倉庫の一つである。東大寺は寺の什物や記録類を保管する倉庫を建築した。正倉院は大仏殿の裏手である北西方向に250メートル離れた場所に建つ。当時は正倉院と呼ばれる建物は全国各地にあったが、唯一残ったのが東大寺の正倉院であった。 正倉院は南北33メートル、東西約9.4メートル、高さ14メートルの総檜造りの木造建築である。床は地上から2,7メートルあるため入るときは梯子をかける必要がある。内部は3つの区画に分かれ、各区画は北倉、南倉、中倉と呼ばれている。3つの倉は互いに行き来できない。各部屋の東面が唯一の出入り口である。内部は上階と下階に分かれており、階段で上下する。各倉の檜材の年輪は740年から750年に伐採されたものであり、建築年は750年から752年頃に建造されたものと推定される。 756年(天平勝宝八年)6月21日,聖武天皇の七七忌の忌日に光明皇后は天皇の御冥福を祈念し,遺品など600点あまり薬物60種を東大寺の本尊である盧舎那仏に奉献した。それらを正倉(現在の正倉院宝庫)に収蔵し永久保存することとした。北倉と南倉は校倉造であり、檜の横木を三角形の断面とし、ログハウス風に積み重ねて壁面を構成している。自然乾燥しても隙間ができにくい構造となっている[1]。
管理主体[編集]
明治以前は東大寺の所管として、天皇家の直轄下にはなかった。正倉院が内務省管轄になるのは、1875年(明治8年)4月27日からである[2]。明治14年10月にイギリスの皇孫が来遊 した際の記事によれば、この時正倉院の管理をしていたのは奈良博覧会社であった。明治16年、博物館の規則が改正され、内務省から農商務省へ管轄が移った。この時、正倉院の宝器は農商務省、図書は内務省がそれぞれ管理し、勅封開鍼は宮内省が継続したため、実際には三省合同形式となった。三省合同形式では不都合があったため、宮内省に権限を集約させるべしとの建議がなされ、1884年(明治17年)に宮内省に管理が一本化された[2]。
戦後は宮内庁の所管となった。現在は宮内庁正倉院事務所の管轄となっており、正倉院宝物及び聖語蔵経巻の保存管理、調査・研究・整理・修補及び復元模造のほか正倉・聖語蔵・東西両宝庫等の建物及び土地の管理などを担当している。
奈良の歴史的建造物のひとつであり、日本の国宝に指定されており、またユネスコの世界遺産に登録されている。 正倉院「正倉」外構は事前申し込みにより、公開される。正倉院展の時期は外構が公開される。
宝物が国宝指定されない理由は[編集]
正倉院御物は戦前は天皇家の所有物であり、戦前からの慣例により天皇家の所有物は文化財保護法による国宝・重要文化財の指定対象外であった。 戦後も皇室財産を管理するのは宮内庁であり、国宝を指定するのは文化庁であるため、そもそも所管が異なるから国宝には指定されない。 1997年に収蔵品を除いて、正倉院正倉1棟が例外的に建造物として国宝に指定されている。正倉院は「古都奈良の文化財」の一部として世界文化遺産に登録されている。しかし、国宝であることが世界文化遺産の登録条件というわけではない[3]。
諸元[編集]
- 間口約33メートル
- 奥行約9.4メートル
- 床下約2.7メートル
- 総高約14メートル
- 床下には直径約60センチの丸柱
正倉院展[編集]
宝物は、毎年1回、正倉院展で公開されている。