教育困難校
教育困難校(きょういくこんなんこう)とは、一般的には生徒の授業態度や学力などが原因で教育が困難な学校のことである。進学校であるかは関係なく、いじめ、校内暴力、学級崩壊、長期欠席、少年犯罪などの難しい課題が集中しているために課題集中校(かだいしゅうちゅうこう)と呼ばれることもある。
教育困難校として問題になるのは高等学校が多いのだが、小学校や中学校でも同様の問題が発生している。クラス・学年単位でこういう問題が発生する場合は「学級崩壊」と呼ばれることが多い。
目次
教育が困難となる原因[編集]
教育困難校が発生する原因は各種あるが、生徒の学力、学習意欲、家庭環境などの影響が大きいとされる。また、生徒の家庭の社会的階層(収入・職業・家族構成など)も影響を及ぼすため、階層間格差が広がると教育困難校が発生しやすくなるともいわれる。
また、ベビーブーム層の増加に対応した都道府県立の高等学校の大規模な増設、高校入試における総合選抜制度の実施などが高等学校進学率の劇的な増加に繋がり、学業分野に対しての意欲が少ない中学生も取り込んでしまう結果になったことも一因であると、特に首都圏や京阪神などの大都市圏で指摘されている。
さらに地域社会において、地域内に既にある高等学校より新しく創立した学校ほど、教育困難校となってしまうことが多い。
公立学校においては、地元集中や総合選抜の他にも、成績の善し悪しにかかわらず、定員内ならば原則的に合格させるという選抜方針の自治体もあるため、定員割れを起こしている、あるいは起こしそうな学校に、とうてい高校に入学できそうもない生徒(例として学力が異常に低い、学校の指導に恒常的に従わない、モラルに問題を持つ生徒、犯罪少年・触法少年等いわゆる非行少年)を送り込む中学校もある。
学力との関連[編集]
学力が低いことと授業態度が悪いことは必ずしもイコールではない。しかし現実には、入学時の学力偏差値の低い学校ほど「荒れ」が目立つとされる。入学に必要な学力が他校と比べてかなり低い学校のことを底辺校(ていへんこう)と呼ぶことがある。
高校受験では本人の学力と内申点などが大きく関わり、かつ中学浪人をすることがタブーである地域が多いため、中学卒業見込時点で、これらの点数が低い生徒の場合は合格可能校が限定されてしまう。生徒自身も、受験校を選ぶ段階では高校の序列を認識しており、学力により希望の高校に合格できる可能性があっても「偏差値輪切り」によって、本人が希望しない学校を受験させられてしまうことがある。そのため不本意入学が起こりやすくなり、入学した学校での教育に意欲を持てない生徒が多くなることも、荒れの原因といわれる。
1980年代を中心として、専門学科に荒れが目立った時期があったのは、専門分野に対して興味のない生徒に対しても、偏差値のみを基準として画一的で硬直化した進学指導を行なったこと(偏差値輪切りという)も原因であるとされる。この指導は、普通科への進学に対しても同様に行われており、中学校教員によって学習成績の「平均点」を境界として受験先を決められてしまうことがある。
その背景として、例えば「公立高校の不合格者を減らす」といった受験実績の獲得があるとされるが、この指導により一部の生徒の希望が反映されず、該当する生徒の学校、教員への不信感が大きくなってしまうことがある。その結果、進学先の学校、教員に対しても不信感を抱いてしまうことも少なくない。
さらに、山間過疎地の高等学校は、中学卒業者の減少と成績上位者の都市部の高等学校への進学志向の強まりと共に定員充足率が低くなり、元々、通学圏の面積が広く寄宿舎を備えた高等学校も多かったことから、第二次ベビーブーム層で特に都市部の成績低位層の格好の入学ターゲットになって教育困難校となったケースもある。
教員の対応[編集]
教育困難校における指導は、学校での教育全般において、生徒指導を中心に据えたものとなる。例えば授業においては、学力向上の前に「無断欠席・無断遅刻・抜け出しの防止」「静かに授業を受けさせる」など、教科教育にあたらない取り組みも求められ、教員が意思統一すべきルールとして頻繁に検討される。
また、通学路での通学マナー指導、長期休暇中を含む学外での生徒の非行行為の事後対応、停学処分を受けたり無断欠席をする生徒やその保護者への家庭訪問など、授業以外の対応に多くの時間を割かれ、進学校や中堅校よりも、教員が過労や精神的要因で病気に陥りやすく、さらには教員が教育困難校の環境に耐えられず中途退職する実態もある。
教育困難校以外の学校しか勤務経験の無い教員が教育困難校に転勤した場合、転勤前と比べて生徒の行動や意識の差を感じることが多く、勤続年数や経験に関係なく教員としての資質を問われることが多い。
教員に対しては、入学から卒業までの長いスパンで指導する根気が求められるなど、「教員の資質を鍛える」側面がある。教員による教育困難校への転勤希望が出されにくく、逆に教育困難校の教員の多くが転勤を希望する傾向があるとされ、教育困難校が、いわゆる指導力不足教員や不祥事を起こした教員の行き場所となるケース、教員の多くを正規採用ではない常勤・非常勤講師が占めるケースなど、人事面において、教育困難校以外の学校と違った対応も見られることがある。
一方で、教育困難校での勤務経験によって資質(特に生徒指導力)を高め、将来教育管理職(校長・教頭)となるケースも見られ、千葉県立姉崎高等学校のように、小中学校の基礎学習内容を授業に取り込むことで、教育困難の状況を克服した学校もある。
卒業後の進路[編集]
専門学科のみならず、かつては普通科においても就職が中心であった。そのため、進路指導においては就職指導のスタイルが基本となる。
就職については、バブル景気崩壊以降の雇用縮小(就職氷河期)の影響により非常に狭き門となっていたが、地域によっては景気が回復してきたこともあり、2005年(平成17年)から2008年(平成20年)頃にかけては多少緩和されていた。しかし、2008年(平成20年)秋のリーマン・ショック以降は求人が激減して、再び厳しい就職難の状況に陥っている。就職先は大半が地元の中小企業であるが、派遣労働やフリーターなどの非正規雇用や、待遇や労働条件の劣悪なブラック企業への就職も増えている。但し、就職に役立つような資格やスキルもなしに、目的意識もなく未熟かつ曖昧な動機で就職をするケースがあり、職場や仕事、人間関係に対する不満や更にはリストラなどで1年以内に中途退職する者が多く、そのことも高等学校新規卒業者の求人縮小に拍車をかけている。
しかし近年では少子化の影響で、上級学校の難易度が緩和される傾向にある。そのため、大学(短期大学を含む)、専修学校の専門課程(専門学校)への推薦入試、AO入試による進学者が増えている。少子化の影響もあり、これまで条件が厳しく件数も限られていた「指定校推薦」の対象となる機会も増え、進学を希望する生徒の多くが2学期中に進学先を確保するケースが増えてきた。これは、普通科高校における進路指導では、1990年代後半以降の高卒者向け求人の激減やそれに伴う就職難もあり、経済的に余裕のある生徒に対しては進学を勧めているという側面もある。
なかには国公立大学を含む難関校の大学に進学したり、大企業に雇用されたり、公務員になる者もいる。(ただし、「その地域の上位校~中堅校に入学できる学力を有しているものの、通学手段の不便・一家転住などの事情、病気・長期欠席のため調査書の点数が低かった、第一志望に不合格し、二次募集等で入学した、いじめから逃れるためなど、学力に関わりない理由で入学してきた生徒」がこれに該当することが多い)従って、生徒全員の学力が低いわけではない。
モンキー高校と侮蔑される教育困難校の実態[編集]
「教育困難校」という言葉をご存知だろうか。さまざまな背景や問題を抱えた子どもが集まり、教育活動が成立しない高校のことだ。大学受験は社会の関心を集めるものの、高校受験は、人生にとっての意味の大きさに反して、あまり注目されていない。しかし、この高校受験こそ、実は人生前半の最大の分岐点という意味を持つものである。
高校という学校段階は、子どものもつ学力、家庭環境等の「格差」が改善される場ではなく、加速される場になってしまっているというのが現実だ。
「こら~! 教室に入れ!」
「教育困難校」の授業は、教師のこの声から始まる。チャイムが鳴っても、廊下にたむろしている生徒に向けられる言葉だ。座り込んでまったく動こうとしない生徒を、腕を取って床から引きはがそうとする教師に、「あっ、教師の暴力!」という言葉が浴びせられる。
教室内の生徒たちの間にも休み時間と同じ光景が広がっている。一人の生徒の席の前に数名が集まって、にぎやかにスマホでゲームに興じているグループがいくつもある。教室の後方では数名の男子が、「うけるんだけど~」と言いながら相手の肩をばしばし叩いて、大声で笑っている。その足元では、まぐろのように伸びて一人の男子が爆睡している。
少し離れたロッカーの前には、自分のカバンの開け口を全開にして、しゃがみこんでなにかを探している女子がいる。一応席にはついているものの、机の上に大きな鏡を立てて、椅子の上に体育館座りになり、太ももがむき出しなのも気にせず、つけまつげをつける作業に集中している女子もいる。
そんな中に、ひっそりとうつむきがちに自分の席に身を縮めるように座っている生徒も数名いる。彼らも教科書やノートを机の上に準備しているでもなく、また、決して教師と目を合わせようとはしない。さらによく見ると、静かに自分の席に座っているように見える生徒の中には、主題歌を口ずさみながら、「ドラえもん」のキャラクターたちをノートに熱心に描いている男子生徒がいることもわかる。彼は、教室内の喧噪や、教卓に立つ教師の存在を一切気にせず、自分の好きな世界に浸りきっているのだ。
このカオスの世界を、何とか授業ができるまで持って行くために、教師は非常にエネルギーを使う。生徒を名指しで注意しながら、根気強く席に着かせる努力をする。一度席についた生徒が、またふらっと立ち歩くので、教師の頭には、あたかも「もぐらたたきゲーム」を行っているようなイメージが浮かんだりする。
ようやく席に着かせると、次に出席の確認がある。「教育困難校」では、クラスの全生徒が朝から出席する日は、まず無い。出席は単位認定の重要なポイントとなるので、慎重に取らなければならない。一人ひとり点呼し、返事をした生徒の顔を確認する。自分以外の点呼の際にも、懲りずに何度も元気よく返事をする生徒、本来の席に座らず、他人の席に座っている生徒たちをその都度しかりながら、出席確認は少しずつ進められていく。
授業を開始するまでには、重要な1ステップがまだある。それは、生徒が持っているスマホや携帯電話を集めて、授業時間中保管することだ。生徒に電源を切らせて、カバンに入れさせればよいと思われるだろうが、それができるのは「教育困難校」以外の高校だ。
各教室に専用の袋や入れ物を用意し、毎時間教科担当の教師が開始時に集め、終了時まで保管する。毎時間の決まりごとなのに、抵抗する生徒が少なくない。
「今日は、バイトの大事な連絡が来ることになっているから、せんせー、お願いだから勘弁して」とか「母親から大事な連絡がラインで来るから」、「絶対に見ないから、机の中に入れさせて」など哀願する声が上がるが、「規則だから駄目」の一点張りで教師は認めない。もし、一人でも認めたら他の生徒も黙っていないことがわかっているからだ。集めるときには、電源オフを指示するのだが、毎時間、さまざまな着メロが入れ物の中から度々聞こえてくる。
教師がおとなしい性格で、怒声を発することができない場合には、ここまでのプロセスで、生徒はコントロール不可能の状態になる。
したがって、「教育困難校」での教師の第一条件は大きな声が出せることだ。自らは進学校育ちの優等生だった教師が、「教育困難校」に赴任し、それまで、丁寧な言葉づかい、態度で他人に接していたのに、しばらく経つと横柄な態度で怒声を発するようになっている姿を見ることがある。それは、「教育困難校」で教師として生き抜くためには仕方のないことなのだが、正直、見ていて切なくもある。
さて、次はようやく授業開始だ。ここに至るまで、手慣れた教師がずっと大声で注意をしながらでも10分から20分はかかる。一般的に、高校の1時限は50分だが、最近は、学校行事などがあると、授業確保のため、授業カットではなく、45分、40分の短縮授業を行う場合が多い。また、まだまだ数は少ないが、一部の「教育困難校」では、30分授業の時間帯を設けているところもある。いずれにせよ、残された授業時間はあまり多くないことになるが、さほど長くない授業でも、生徒が集中できる時間は短い。
「教育困難校」で、生徒を授業にしっかりと参加させたいと考えている教師は、非常に教材研究に熱心だ。生徒の学力の問題で、一番簡単な教科書でも理解できない生徒が多くいる。教科書が使えないのだから、市販の問題集や参考書もそのままでは使えない。
その現実が見えてくると、良心的な教師は生徒の実態に合わせた手作りの教材を用意するようになる。小・中学校で学んだはずだが身についていない基礎知識を学ばせるため、しかも、少しでも飽きずに集中できるように、なおかつ、高校生であるというプライドも傷つけないように気を遣いながら、プリントやスライドづくりにいそしむ。
しかし、どれほど工夫した教材でも生徒たちを長い時間引き付けておくことはできない。授業の最中でも突然立ち歩く生徒はいるし、授業終了10分前頃になると、多くの生徒は明らかにそわそわしだし、ノートや筆記用具を片付け始める。教員の説明のわずかな間をキャッチして、「せんせー、もう終わりにしようよ~」とむずかりだす。
教師も終わりにしたい気持ちは同じなのだが、終わらせれば生徒が教室から出て騒ぎ出し、他の教室にも構わず入ってしまうので、チャイムが鳴る前に授業を終わらせることはできない。実は、他の教室でも同様の状況なのだが、結局、終了チャイムまで生徒と教師の我慢比べが行われる。
「教育困難校」という言葉を、あまり聞き慣れない方が多いのではないかと思う。このタイプの高校は「進路多様校」と言われることもあるが、最も知られている呼称は「底辺校」だろう。もちろん、これは、各地の予備校や塾が出した受験偏差値を基に作られる偏差値一覧の底辺部に位置する高校という意味でつけられたものだ。
しかし、この呼称が侮蔑的で、そこに通う生徒たちを大いに傷つける点、偏差値一覧の偏差値は必ずしもそれぞれの学校の実相を表すものではない点などから、筆者を含め多くの人は、最近は「底辺校」という呼称を意図的に使わないようにしている。
では、「教育困難校」とは、どのくらいの受験偏差値の学校を指すのだろうか。実は、この偏差値以下の高校が「教育困難校」という明確な基準はない。インターネット上では「底辺校」という呼称が使われて、偏差値39以下、38以下の高校がこれに該当するといった、ほとんど根拠のない記載が数多く存在する。
これに対し、筆者は偏差値40台前半以下の普通科の高校が「教育困難校」に該当すると考える。商業高校や工業高校等の専門高校は、受験偏差値は高くないところが多いが、そこでは専門的技術や資格の取得というわかりやすい目標があり、授業1つとっても、「教育困難校」とはまったく違う風景が広がる学校がほとんどである。
これらの「教育困難校」に通う生徒はどのくらい存在するのだろうか。細かい統計的分析を経たわけでないことをお断りしておくが、筆者は体験から、「教育困難校」に通う生徒は、同学年全生徒の約15~20%ではないかと推測している。
「教育困難校」の生徒たちは、周囲から「クズ高校」「モンキー高校」と軽蔑され、ただでさえ低い自己肯定観を高校3年間で、完膚なきまでに傷つけられてしまう。将来の夢も狭められ、ほとんどの生徒は貧困層予備軍として社会に出ることになる。在校中の中退率も高く、消息がわからない卒業生も少なくない。せっかく正社員で就職できても、社会人として必要なさまざまな能力が身についていないので、短期間に辞めてしまう例も多い。
だが、忘れてならないことは、彼らは家庭環境や、学校の教育環境、さらには周囲に気付かれなかった病気や障害などの理由で「教育困難校」に入るしかなかったという点だ。そんな彼らをこのまま打ち捨てておいてよいのか。それは、そこに通う生徒にとっても、日本社会にとっても大きなマイナスにならないか。
「恋愛至上主義」になる教育困難校の生徒たち[編集]
「教育困難校」という言葉をご存じだろうか。さまざまな背景や問題を抱えた子どもが集まり、教育活動が成立しない高校のことだ。大学受験は社会の関心を集めるものの、高校受験は、人生にとっての意味の大きさに反して、あまり注目されていない。しかし、この高校受験こそ、実は人生前半の最大の分岐点という意味を持つものである。
高校という学校段階は、子どもの学力や、家庭環境などの「格差」が改善される場ではなく、加速される場になってしまっているというのが現実だ。
年末年始、テレビや新聞では家族だんらんや故郷への帰省を当たり前のように取り上げているが、今の日本では実際はそれらとまったく関係のない家庭も多い。「教育困難校」のほとんどの生徒の家庭がまさにそうであろう。
「教育困難校」の生徒には幼い頃から、年末年始を家族一緒にゆっくり過ごすという習慣はない。サービス業に従事し非正規社員であることが多い親は、ほかの人が働きたがらず、そのために時給がよくなるこの時期こそ稼ぎ時であるし、生徒自身も同様の理由でアルバイトに忙しい。
子どもの最高の楽しみであるお年玉も、故郷から切り離され、もらえるような親戚付き合いをしていないので、親以外からもらった経験がない生徒もいる。その親からもらうお年玉の金額も、物心ついた頃から同額でまったく上昇しないという。確かに、今の高校生が小学生低学年の頃にリーマンショックが起こっており、彼らは好景気の時期を知らないのだ。
結局、年末年始も特別ではなく、家族がいつもより少し忙しく、いつもどおりバラバラに行動し、空いている時間はスマホに熱中することになる。テレビドラマやCMなどから、家族だんらんはすばらしいものらしいという一般的な価値観は漠然とキャッチしながら、その実態を体験できない「教育困難校」の生徒は、「家族」に強いあこがれを持っている。
そのうえ、無条件に親から愛されているという確信が持てず、つねに愛情渇望状態にもある。親からの愛情はいくら待っていても得られないとわかると、愛情を注いでくれる新しい対象を求め始める。思春期真っ盛りの高校生たちは、恋愛に異常なまでに関心を持ち、実際に行動する。
「教育困難校」の生徒たちに将来の夢を尋ねると、「若いうちに恋愛結婚して、子どもを3~4人作って温かい家庭を築く」といったステレオタイプの回答が非常に多い。さらに、「専業主婦になって子育てし、子どもに寂しい思いをさせない」「子どもをたくさん産んで、子どもにいつもやさしい親になる」といった、自分のこれまでの寂しさを吐露するような発言も多く出てくる。いずれにせよ、少子化対策に悩む政府にとってはありがたい人たちだろうが、彼らの夢の実現は、現実にはかなり困難である。
近年、若者を「草食系」と「肉食系」に区分する見方が流行しているが、「教育困難校」の生徒たちは、どんなに普段はおとなしくとも基本的に「肉食系」であり、それどころか「恋愛依存系」とも言うべき状態である。それがなければ生きられないのかと思うほど、彼らが言うところの「恋愛」をひっきりなしに繰り返す。
望んでも得られない親からの愛の代わりを求める彼らの「恋愛」は、誰かと出会うと一瞬にして「恋愛」と思い込み、後先を考えずに無軌道に行動し、すぐに終わる。まるで、ねずみ花火のような恋愛だ。
新しい恋人ができたとうれしそうに報告する女子高校生に、彼にいつ出会ったのかを尋ねると3日前などと答える。 「顔が、Hey!Say!JUMPの○○に似てるから」とか「最初に会ったとき、落ちたマフラーを拾ってくれてすごく優しかったから」といった理由で、すぐに恋に落ちる。
前の彼といつ別れたかを聞くと、1週間前などと答え、その元カレとは3週間付き合ったと言う。数日だけの付き合いという生徒も少なくない。別れた理由は、「なんとなく」という自分でもわかっていないような理由が最も多いが、「ラインがすぐに戻ってこない」「お互いにほかの人が好きになった」といったものから、「ちょっとしたことでけんかしたらカレシがDVした」などの深刻なものもある。
自身の家族関係の中に、恒常的・安定的な愛情の形を見ることができなかった彼らは、一度「恋愛」モードに入ると、何のためらいもなく愛情が怒濤のようにあふれ出す。そして、相手の事情を考えず相手からも同量の愛情を求め、何か問題が起こるとそこで突発的に終わってしまう。 2人で話し合い行動して問題を解決し、よりよい関係を長期間築いていこうという考えは、なぜかほとんど生じない。
相手にもっと愛されたい、あるいは拒むと嫌われるかもしれないと性交渉を持つ。これだけ性に関する情報が流れ、また、いくつかの教科で教えていても、妊娠を回避する策を取れればよいほうで、後先考えず欲望のままに行動することが多く、妊娠する女子高生は少なくない。「教育困難校」に勤務した経験のある教員で、女子生徒の妊娠事件に出合わなかった人はいないだろう。秘密裏に処理される数は、想像もつかない。
ある女子生徒の休みが増え、保健室の利用回数や、体育授業の見学が多くなると、ベテラン教員はおかしいと注意するようになる。顔や身体全体は細くなることもあるが胴回りがふっくらしてくると、本人に確認する。すると本人は拍子抜けするほどあっけなく認める。高校生なのに妊娠してしまったという罪悪感はさほどないからだ。その後、家族を呼んで善後策を講じることになるが、このときまで親は気づいていなかったという例がほとんどである。
学校側としては一応、女子生徒に高校を続けてほしいとのスタンスで臨むが、当の本人は「カレシが結婚しようって言うから」と中退して産むことを選び、親も「子どものやりたいようにさせたい」と言って止めようとしない。学校側も、この道を選ばれると内心ほっとする。産んで高校生活を続けたいとなると、生まれた子どもをどうするか、ほとんどの場合、里親を探すか児童養護施設に預けることになるのだが、その方法を公的な情報に疎い親子と一緒に模索し、説明しなければならないからだ。
数ヵ月後のある日、その元生徒が赤ん坊を抱いて高校にやってくる。学校中を移動しながら、次々と顔見知りの教員に子どもの顔を見せて回る彼女の顔は幸せに輝いている。傍らには、戸惑い顔の年若い有職青年が手持ちぶさたに立っている。結婚式は挙げていなくても、書面上正式に結婚して新しい家族ができた彼女は、自分の人生の最高の目標を果たし、まさに絶頂の時なのだ。
この時代に、夫婦ともに高校中退であることや夫が不安定な職業に就いていることなどから生じる将来への不安は、彼女の頭にはよぎりもしないようだ。彼らの今後の生活の不安定さが見えてしまう教員は、今の彼女の幸福感・高揚感が少しでも長く続くように祈るしかない。
文部科学省の対応[編集]
2001年(平成13年)に教員定数に関する諸法令が改正されたこと、また同年度をもって同和対策事業の終了があったことから、2002年(平成14年)4月に従前の同和加配などを統合して、不登校などの対策も含めた「児童生徒支援加配」が行われるようになった。ただし、従前の同和加配と同様の運用がされていることもあり、教育困難校対策にはなっていないともいえるようである。