慧子内親王

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慧子内親王(けいしないしんのう、生年不詳‐元慶5年(881年)1月6日)は、平安時代前期の皇族賀茂斎院。名は「さとこ」あるいは「あきらけいこ」とも読み、また「恵子内親王」と表記することもある。文徳天皇の皇女で、母は宮人の藤原列子藤原是雄女)。清和天皇の異母姉で、同母姉妹に晏子内親王がいる。無品。

嘉祥3年(850年)7月9日、賀茂斎院に卜定めされる。仁寿2年(852年)4月19日に御禊した後に紫野斎院(現在の京都市上京区の櫟谷七野神社付近にあったとされるが定説はない)に入る。しかし天安元年(857年)2月28日に斎院を廃されて述子内親王(文徳天皇皇女で慧子内親王の異母姉妹)に、その際に右大臣藤原良相が賀茂神社に遣わされて慧子内親王に理由を告げた。良相の告げた理由の内容については「秘事」とされ明らかになっていない[1]が、母藤原列子の起こしたとされる密通事件によるものとする説がある[2]。この慧子内親王の件は後世まで斎院の不吉の例とされた。

元慶5年(881年)1月6日に無品で薨去。享年は30歳代前半と推定される。没後、喪家(母列子の実家と思われる)の固辞によって葬送の諸司は任ぜられなかった。

脚注[編集]

  1. 日本文徳天皇実録』より「遣右大臣正三位藤原朝臣良相於神社告事由 其事秘者世無知之也」。
  2. 尼敬信(藤原因香の母とされる女流歌人)の詠んだ「大空を照りゆく月し清ければ雲隠せども光けなくに」(『古今和歌集』885)の詞書に「田むらのみかど(文徳天皇)の御時に、斎院に侍りけるあきらけいこのみこ(慧子内親王)を、母(藤原列子)あやまち(密通)ありといひて斎院をかへられむとしけるを、そのことやみにければよめる」(意味:文徳天皇の代に斎院だった慧子内親王が、母が密通事件を起こしたと言われて斎院を辞めさせられそうになったときに、それが中止になったので詠んだ歌)とあり、列子が娘の慧子内親王まで累を及ぼすような不祥事を起こしたと推定する説もある。