恩田寿之
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恩田 寿之(おんだ ひさゆき、1971年8月2日 - )は、1990年代から2000年代にかけての社会人野球選手(投手、右投げ右打ち)である。新日鐵君津・市民球団かずさマジックに所属していた。現役最終年では179cm、75kg。背番号は21。
人物・来歴[編集]
- 千葉県出身。千葉県立八千代東高等学校を卒業後、東洋大学に進学。東洋大では関口伊織(その後日本通運を経て横浜)と同期。東都大学リーグ通算5勝2敗。大学選手権に出場経験がある。
- 1994年に新日鐵君津(現・市民球団かずさマジック)に入社。当時の新日鐵君津は全国大会に顔を出し始めてきた頃であり、さっそく右のエース格として期待をかけられ、実際それに応えるピッチングを見せた。
- 1990年代後半には新日鐵光から移籍してきた森慎二(西武→デビルレイズ)や本格的サブマリンの渡辺俊介(千葉ロッテ)らがチームに加わる中、投手陣の中堅として大車輪の働きを見せていた。渡辺俊介は今でも恩田を慕い、オフに新日鐵君津球場で自主トレをするときには恩田のもとを訪れているという。
2000年の第71回都市対抗野球大会の南関東2次予選では恩田がフル回転し、「今年東京ドームを逃したらチーム存廃の危機」と言われていたピンチを救った。もっとも恩田はこの予選での酷使で故障、手術で同年だけでなく翌シーズンも棒に振るなどの選手生命の危機に陥って本格派から軟投派・技巧派への転向を余儀なくされた。その一方、本大会では当時チーム2番手だった渡辺が大活躍し、渡辺は大会優秀選手に選ばれるばかりでなく、シドニーオリンピック野球日本代表入りし、プロ入りに向けて大きなアピールを行うこととなった。 - チームが新日鐵君津からかずさマジックに衣替えした2003年シーズンからはコーチ兼任として過ごすことになる。2004年は当時チームの投手最年長ということもあり、先発でも2番手・3番手であったが、大事な場面で再三にわたって痛打を浴びるなどかつての面影はなく、チームは2大大会の出場を逃す。しかし恩田はホンダの補強選手として第75回都市対抗野球大会に出場し、主にセットアッパーとしてチームの躍進に貢献した。
その決勝戦、リリーフとして登板した恩田は10回裏、王子製紙の林尚克(東海REXから補強)に都市対抗野球大会史上初の決勝戦でのサヨナラホームランを打たれる。東海REXはかずさマジック同様、新日鐵名古屋から衣替えした広域複合企業チームであり、いわば新日鐵の選手同士で決着がついた形となった。恩田はこの翌年でユニフォームを脱ぎ、12年間の社会人野球選手生活にピリオドを打った。 - 現在では新日鐵君津で社業に従事しているが、上記のように選手に慕われ、指導力にも一定の評判があっただけに、近いうちにコーチ(あるいは監督)としての現場復帰が期待される一人である。
エピソード[編集]
- 八千代東高校在籍時、当時横芝敬愛高校に在籍していた大塚晶則(現テキサス・レンジャーズ)と4回戦で対戦し、横芝敬愛が3-2で八千代東を下したが、この試合後、恩田は大塚に千羽鶴を手渡して自らが果たせなかった甲子園行きを託した。
この話には恩田の人格者ぶりが現れていると同時に、千葉の高校野球史を語る上で欠かせない逸話にもなっている。([ttp://www2.asahi.com/koshien2004/genten/genten_ootsuka.html 当時の新聞記事]) - イニシャルがH.ONDAになることもあってホンダにもファンが多く、都市対抗野球でホンダの補強選手として登場した際には自チームの選手に負けない声援を浴びた。現役引退を知ったホンダのファンはかずさマジックのファン以上に引退を惜しんだといわれる。
球歴[編集]
千葉県立八千代東高等学校(1987年~1989年)→東洋大学(1990年~1993年)→新日鐵君津・市民球団かずさマジック(1994年~2005年)
日本代表キャリア[編集]
なし