廃仏毀釈(2)
廃仏毀釈(はいぶつきしゃく, Abolish Buddhism/ Haibutsu kishaku)は明治前半におきた仏教の大規模な排斥運動により、神道による祭政一致を目指した政策に伴う、仏教寺院の破壊、仏像や経典の破壊、仏僧の還俗などが断行されたことをいう。仏教寺院や僧侶に対して暴力的な破壊行為が見られた。
概要[編集]
神仏分離令[編集]
1868年(慶応4年)3月13日の神仏分離令の公布が発端であった。明治政府は、宗教政策の一つとして神仏を同じ場所で祀ることを禁止し、神道を国家公認の宗教にしようとする神仏分離政策をとった。太政官から以下の布告が発せられた[1]。
太政官布告 慶応四年三月十三日 此度 王政復古神武創業ノ始ニ被為基、諸事御一新、祭政一致之御制度ニ御回復被遊候ニ付テ、先ハ第一、神祇官御再興御造立ノ上、 追追諸祭奠モ可被為興儀、被仰出候 、依テ此旨 五畿七道諸国ニ布告シ、往古ニ立帰リ、諸家執奏配下之儀ハ被止、普ク天下之諸神社、 神主、禰宜、祝、神部ニ至迄、向後右神祇官附属ニ被仰渡間 、官位ヲ初、諸事万端、同官ヘ願立候様可相心得候事 但尚追追諸社御取調、并諸祭奠ノ儀モ可被仰出候得共、差向急務ノ儀有之候者ハ、可訴出候事
(大意)王政復古のより諸事を一新し、祭政一致の政治に復帰するため神祇官を復活させ祭典を開催し、神社・神職を神祇官に所属する。官位などは神祇官に申請すること。
神仏分離政策は津和野藩藩主亀井茲監( 明治新政府参与、神祇事務局判事)、福羽美静( 津和野藩士、国学者、徴士神祇事務局権判事)、大国隆正( 神祇事務局権判事)などが中心人物となって進められた。
復飾命令[編集]
続いて4日後の3月17日に神祇事務局から神職を兼ねる僧職の復飾[2]命令が出された。
神祇事務局ヨリ諸社ヘ達 慶応四年三月十七日 今般王政復古、旧弊御一洗被為在候ニ付、諸国大小ノ神社ニ於テ、僧形ニテ別当或ハ社僧抔ト相唱ヘ候輩ハ、復飾被仰出候、 若シ復飾ノ儀無余儀差支有之分ハ、可申出候、仍此段可相心得候事 、但別当社僧ノ輩復飾ノ上ハ、是迄ノ僧位僧官返上勿論ニ候、 官位ノ儀ハ追テ御沙汰可被為在候間、当今ノ処、衣服ハ淨衣ニテ勤仕可致候事、右ノ通相心得、致復飾候面面ハ 、当局ヘ届出可申者也
神仏判然令[編集]
3月28日には神社の仏教色を排除する指令が出された。仏像、鰐口、梵鐘、仏具等を神社から取り除くよう指示された[1]。神仏判然令という。
神祇官事務局達 慶応四年三月二十八日 一、中古以来、某権現或ハ牛頭天王之類、其外仏語ヲ以神号ニ相称候神社不少候、何レモ其神社之由緒委細に書付、早早可申出候事、 但勅祭之神社 御宸翰勅額等有之候向ハ、是又可伺出、其上ニテ、御沙汰可有之候、其余之社ハ、裁判、鎮台、領主、 支配頭等ヘ可申出候事、 一、仏像ヲ以神体ト致候神社ハ、以来相改可申候事、附、本地抔と唱ヘ、仏像ヲ社前ニ掛、或ハ鰐口、梵鐘、仏具等之類差置候分ハ、 早々取除キ可申事、右之通被 仰出候事
廃仏毀釈の背景[編集]
明治維新までは、神社(権現・明神)は仏教寺院の支配下にあった。別当・社僧が神を祭祀でまつり、寺社領・財政を管理し、堂塔を営繕し、人事を差配してきた。神社は寺院(僧侶)の従属物であった。神と仏は同列に祀られており、神殿と仏堂が同居し、神殿に仏像・仏器が置かれ、僧侶が神に奉仕し、神前で読経が行われるなど、神社と仏教寺院は一体となっていた。明治政府は新国家樹立にあたり、祭政一致体制を希求した[1]。 神仏分離の目的は次の二つとされる。
国家をまとめる宗教の体系化、天皇制の権威付け。王政復古、祭政一致に基づいて、神と仏を分離すること。天皇を中心とする祭政一致体制の確立。
- 徳川時代の否定
支配権を神社から奪うこと。前代の否定により、明治政府の正当性を主張する。
国家として仏教の破壊を命じたものではなかった。しかし神仏分離令を拡大解釈する者が登場した。地方行政官や神官、血気盛んな地域の若者らである。
廃仏毀釈[編集]
比叡山[編集]
明治における廃仏毀釈の最初の出来事は比叡山と比叡山山麓にある日吉大社であった。延暦寺が最澄によって創建された後、日吉大社は同寺の鎮守神や山麓各村の惣氏神として崇敬され、長年にわたる神仏習合の象徴であった。 1868年(慶応四年)4月1日、日吉大社社司で政府の神祇事務局事務掛となっていた樹下茂国と社司の生源司希徳は京都吉田神社配下の神官たちによって結成された神威隊とともに坂本を訪れ、日吉大社神殿の鍵を明け渡すよう延暦寺に通告する。しかし延暦寺は神仏分離令の布告が天台座主から通達されていないこと、鍵の引き渡しは座主の許可が必要であることを理由にこれを拒否する。しばらく押し問答が続いたが、樹下茂国たちは坂本の農民100人を雇って社殿に乱入し、仏像や経典、仏具などに火をつけ燃やしてしまった。その数は124点であった。経典には600巻の大般若経や法華経、阿弥陀経などがあった。日吉大社の管理や山王祭の執行権も延暦寺から奪われた[1]。
鹿児島県[編集]
鹿児島藩は廃仏を徹底断行し,藩内に一つの寺院もなく一人の僧侶もいなくなった。弊害として、鹿児島県の文化財が徹底的に破壊された。もともと明治維新前に藩主による廃仏運動が展開されていた。鹿児島県には仏教由来の国宝や重要文化材がひとつも存在しない。また教育の機会も失われた。私塾や寺子屋の数が少なくなっていた。これは鹿児島県の人材育成にマイナスの効果があったと見られる。1874年における鹿児島県の就学率は全国ワーストになっていた[1]。
長野県[編集]
長野県松本市は鹿児島・高知県・水戸市と並んで、激烈な廃仏毀釈運動が実施されていた。そのリーダーは知藩事の戸田松平家14代の戸田光則(松平光則)であった。戸田は領内で徹底した廃仏毀釈を断行し、菩提寺の全久院を廃寺解体するとともに、藩士に神葬祭を命じた。 1870年から廃仏毀釈が始まり、164あった寺院数のうち1年間で124ヵ寺が廃寺に追い込まれた。松本では戸田光則の独断で廃仏毀釈が進められた。戸田光則は松本藩内の全寺院を廃そうとし、僧侶に還俗を強制した。松本の菩提寺である松本全久院を真っ先に廃し、その跡に開智小学校を建てた。全久院の住職の意龍は戸田光則に思いとどまるよう何度も説得・嘆願したが、まったく聞き入れられなかった。戸田家の位牌は女鳥羽川に放り込まれ、仏像や仏具は焼かれ、伽藍は解体された。旧開智学校の建材のうち丸太柱、梁材などの構造材に、全久院の廃材が再利用された。他の寺の木材も利用されている[1]。松本で特に廃仏毀釈が民衆運動になった理由のひとつに、僧侶の堕落があった。松本市西部の白山山中にある若澤寺の住職は遊女のもとに入り浸り、檀家の顰蹙を買っており、こんな寺はいらないと地域住民の怒りを買っていたのである。 廃仏毀釈は一年で収まり、仏教復興を祈願し、廃仏毀釈の象徴とされた松本全久院の再建が行われ、1877年(明治10年)4月に大本山総持寺貫主奕堂禅師を迎え開山とし、青龍山全久院となった。
東京[編集]
東京では鹿児島県や松本のような極端な破壊行為は起きなかったとされている。東京では本来の神仏分離、仏教界の弱体化政策が推進された。 東京ではこれまで仏式で行っていた葬式を神式に切り替える政策が推進された。しかし公衆衛生上の問題と墓地用地の不足から、土葬を伴う神式の普及には限界があった。神仏が粛々と分離され、暴力的な破壊行為はそれほど見られなかった[1]。