幸福の科学 (宗教法人)
新興宗教というものは、一つの例外もなく荒唐無稽(こうとうむけい)なものではありますが、この教団のレベルの低さはその中でも群を抜いています。
■デタラメ霊言と、妄説・珍説の山
隆法の「霊言集」には、キリスト、釈尊、孔子、モーゼ、ノストラダムス、ニュートン、天照大神、親鸞(しんらん)、道元、出口王仁三郎(大本の項参照)、高橋信次、そして日蓮大聖人・・・というように、洋の東西を問わず、大変な人数が無制限に利用されています。 しかし表紙の名前を変えても中身は皆同じ。どこまでも大川隆法の稚拙(ちせつ)な妄言の羅列でしかありません。単なる自説の著作が、どうしたら大勢の人の目にとまるかを考え、その宣伝に各宗の教祖等を利用しただけのことです。 実際、『新・幸福の科学入門』で隆法自身が、 「別に霊言集で問わなくても、私が書いてもかまわないのですが・・・大川隆法の名前で文章を書き、発表しただけでは、世の人々はなかなか信じてくれません」 と告白しているのです。 では、その霊言・妄説のごく一部を潰してみます。
(1)釈尊 隆法は釈尊になりすまし、「諸々(もろもろ)の比丘(びく=僧)、比丘尼(びくに=尼僧)たちよ、我はここに再誕す。我が再誕を喜べ、我が再誕にきづけ」などと述べています。 しかし釈尊は『法華経』において、自身の滅後、末法の時代に法華経を広める役目を、上行菩薩を上首とする地涌(じゆ)の菩薩に付嘱(ふぞく)されているのであり、自らがこの地上に再誕するなどとはどこにも説かれていません。 隆法の妄言が真実だとすれば、この法華経の教説がウソということになります。法華経がウソなのか、隆法が誇大妄想なのかは論ずるまでもないでしょう。
(2)日蓮聖人 隆法は『日蓮聖人の霊言』のなかで、「相手の現状を千里眼と宿命通力(しゅくめいつうりき)で分析したあと、日蓮上人におうかがいを立て、霊言として解答を・・・」 などと述べています。 しかし日蓮大聖人は『唱法華題目抄』に、 「魔にたぼらかされて通を現ずるか。但(ただ)し法門をもて邪正をたゞすべし。利根と通力とにはよるべからず」 と御教示されており、この末法の時代に通力(神通力)などを売り物にするのは魔の所業であると断じておられるのです。信者その他が日蓮大聖人の御法門をまったく知らないのをいいことに、デタラメの言い放題です。隆法は魔の権化(ごんげ)です。
(3)天台大師の一念三千 隆法は『太陽の法』に、 「いまから一千数百年前に、天台智覬(てんだいちぎ)が、中国の天台山で一念三千論を説いていたのですが、そのとき、霊天上界において、彼を指導していたのは、実はほかならぬこの私でした」 などと述べています。さらに天台大師を指導したその内容とは、 「思い→想い→念(おも)いとだんだんに力を得てくるおもいの力があるわけですが、…人の心には、念いの針というものがある。この念いの針は、一日のうちで、さまざまな方向を指し示し、揺れ動いて、とまるところを知らない。…人の念いの針は、すなわち、これ一念三千、あの世の天国地獄に、即座に通じてしまうのだ」 というものだそうです。また『幸福瞑想法』には、 「人間の思いの性質、念の性質、これがどこにでも通じるという性質のことを一念三千と言います。三千というのは、割り切れない数、すなわち、数多いという意味です」 などという珍説を述べています。天台大師も大変な人に教わったものです。 この一念三千について、日蓮大聖人は『一念三千法門』で、 「十界(じっかい)の衆生(しゅじょう)各互ひに十界を具足す。合すれば百界なり。百界に各々十如を具すれば千如なり。此(こ)の千如是(せんにょぜ)に衆生世間・国土世間・五陰(ごおん)世間を具すれば三千なり」 と御教示されています。すなわち十界互具(じっかいごぐ)・百界千如(ひゃっかいせんにょ)・三千世間と広がる心を持つ衆生の一念を、一心三観(いっしんさんがん)・一念三千というのです。 この法華経の大切な教義も、大川隆法の手にかかるとこの通りです。あまりにも幼稚で、これで「自分は大乗の仏陀(ぶっだ)、エル・カンターレである」などと言うのですから、驚くべき低次元の教祖様であります。
(4)法華最第一を批判する「釈尊の再誕」 大川隆法の『黄金の法』では、 「法華経至上主義についてですが、釈迦の教えは何百何千の法門があり、法華経のみが正しく、他の経典は真理を伝えていないという考えは、間違っております」 などと、法華経が唯一真実の正法(しょうぼう)たることを否定しています。 しかし、法華経の序分にあたる開経の『無量義経』には、 「四十余年未顕真実(しじゅうよねんみけんしんじつ)」 すなわち「四十余年には未(いま)だ真実を顕(あらわ)さず」と説かれ、これまで42年間にわたって説かれた膨大な経典は、真実を説いたものではないと説いているのです。また『法華経』の方便品(ほうべんぽん)には、 「唯(ただ)一乗の法のみ有り 二無く亦(また)三無し」 「正直に方便を捨てて 但(ただ)無上道(むじょうどう=最高の教え)を説く」 と説かれ、さらに『法華経』の法師品(ほっしほん)には、 「我が所説の諸経 而(しか)も此(こ)の経の中に於いて 法華最も第一なり」 と説かれ、法華経こそが正しい教えであると宣言されているのです。 隆法は「釈尊の再誕」なのに、どうやらこれらの教説を知らないようです。もしや忘れてしまったのでしょうか? 再誕だというなら、ぜひ思い出してほしいものです。
■要するに営利出版企業
教団の主な収入源は、隆法や教団発行の数多くの出版物です。隆法の著作本は毎回ベストセラーとなり、隆法自身はしょっちゅう高額納税者番付に登場しています。しかしこれは、教団や信者が一般書店から多部数買い取っているからベストセラーになるのです。しかも教団では、この書籍販売数を信者数として数えています。 隆法に、昭和56年に初めて霊言を送ってきたのが日興上人(にっこうしょうにん=日蓮正宗の第二祖上人。世間一般には馴染みのない御方)で、最初に出版された霊言集が『日蓮聖人の霊言』であったというのは、要するに作為的に、創価学会員にターゲットをしぼれば、内容はどうあれ売れると考えたからです。 実際、創価学会を脱会した元幹部が幸福の科学に入会し、教団幹部になっています。また隆法の父・忠義が関わっていた「GLA」や「生長の家」の信者からも入会者が多く、GLAの高橋信次の霊言集は16回、生長の家の谷口雅春の霊言集は4回も発刊されています。 しかも当初、教団では、隆法の本を10冊以上読まないと入会できないことになっていたなど、いかに出版物の販売に力を入れていたかが分かります。まさに、 「別に霊言集で問わなくても、私が書いてもかまわないのですが・・・大川隆法の名前で文章を書き、発表しただけでは、世の人々はなかなか信じてくれません」 という隆法の言葉そのままであり、この教団は、宗教の名を借りた営利出版企業と断ずるべきものです。
■デタラメな予言
隆法は『黄金の法』の中で、西暦2000年の世界について、ノストラダムスの予言に基づき、「世界の人々は、前年の夏に起きた衝撃的な悪夢からまだ立ち直れないでいます」として、世界各地の状況を述べ、ニューヨークは機能をなくして壊滅的になっていると言い、日本も復旧作業が続けられている…などと、まことしやかに予言しています。 しかし実際、何も起こらなかったことは衆知(しゅうち)の事実です。 結局、隆法は予言者でも霊能者でもなく、ノストラダムスの尻馬に乗って落馬した凡人でしかありません。まさに、宗教利用の詐欺師と呼ぶべきでしょう。
■次元の低い「二十次元論」
大川隆法は自分勝手な「二十次元論」なるものを主張しています。これは一般的な「線の一次元、平面の二次元、立体の三次元、立体に時間を加えた四次元」という数学的概念に、独自に「精神」「真理意識」「菩薩界」「慈悲」その他もろもろを継ぎ足して、「大宇宙の根本仏は二十次元以上の存在である」などというものです。 しかし、これは論理にすらなっておらず、四次元までの数学的な概念と、隆法が主張する五次元以降の世界観はまるで別世界の異物で、世間の常識から見ても荒唐無稽(こうとうむけい)な、木に竹を接(つ)いだような愚論です。 このように支離滅裂(しりめつれつ)なものが根本教義だというのですから、教団の底の浅さとデタラメさが知れるというものです。
■無意味な「四正道」
教団では「四正道(よんしょうどう=愛・知・反省・発展の探求)」を説き、これを幸福になる基本原理であるなどと主張しています。 また、これらを釈尊の説いた「八正道(はっしょうどう)」になぞらえています。隆法は『太陽の法』で、 「天台大師よ、八正道は、まさしくこの一念三千論を基礎として生まれたのである」 などと好き勝手なことを述べていますが、仏教で説かれる八正道というのは、小乗教の四諦(したい)法門のうち、道諦(どうたい)における八種の修行法のことであり、実大乗教たる『法華経』の、天台の一念三千法門とは何の関係もない、方便大乗教よりもさらに劣る教えです。 しかも隆法の説く「四正道」は、キリスト教の博愛主義の枠(わく)を出ない道徳論レベルのものであり、仏教の中でも低い教えである小乗教にもおよばない、さらに仏教とは何の関係もない、根拠のない外道論です。
以上、幸福の科学の教義その他について、その邪たる所以を述べました。幸福の科学の信者さんたちは、こんなレベルの低いものを「仏法真理だ」などと信じているようですが、上記の通り、それはとんでもない誤りです。早く目を覚まして検証してください。
皆さま方におかれましては、このような邪法邪師の邪義に惑わされることなきよう、くれぐれもご注意願いたいと思います。信ずる価値などありません。