平親信
平 親信(たいら の ちかのぶ、天慶9年(946年) - 寛仁元年6月12日(1017年7月8日))は、平安時代中期の公卿。桓武平氏高棟王流。中納言平時望の孫。伊勢守平真材の子。母は越後守藤原定高女。子に平重義・平行義・平理義らがいる。従二位・参議。
康保4年(967年)東宮守平親王(のちの円融天皇)雑色として出仕。天禄2年(971年)文章生に補される。その後、円融天皇の六位蔵人・左衛門少尉・検非違使などを経て、天延3年(975年)叙爵。その後、筑後権守・阿波守・右衛門権佐・防鴨河使・越前守・修理大夫・皇太后宮(藤原詮子)権亮・山城守などを歴任した。長保4年(1002年)10月10日従三位に叙され、翌年に正三位に昇叙。更に寛弘4年(1007年)造宮賞により従二位になる。寛弘7年、大宰大弐として下向。長和3年(1014年)大宰大弐を辞任し、翌年参議に任ぜられる。長和5年に参議を辞し、寛仁元年(1017年)6月10日に疫病のため出家し、同月12日に薨去した。享年72。
彼自身の書いた日記『親信卿記』によれば、摂政太政大臣藤原伊尹家に頻繁に出入りしたことが記述され、更に天延2年(974年)9月26日条には藤原義孝(伊尹の子)の卒去に際し、その遺産の整理に当たっている記事が存在することから、伊尹家の家司的役割を果たしていたと考えられる。なお、親信は三条大路に面した邸宅を所有していたが、そこには藤原懐平が寄住していたことがあり、また藤原行成が方違えの際に宿泊していたこともある。
彼の日記『親信卿記』は、蔵人在任中の天禄3年(972年)から、天延2年(974年)までの古写本が現存する。子孫の平範国・平行親・平定家らの日記とともに「平記」と総称され、平安時代の政治社会を知る上で有用な歴史資料となっている。