嶋中鵬二

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嶋中 鵬二(しまなか ほうじ、1923年 - )は、日本の雑誌編集者、中央公論社社長。

経歴[編集]

1923年、中央公論社社長・嶋中雄作の子として生まれる[1]

1929年春、東京高等師範学校附属小学校に入学[2]鶴見俊輔永井道雄と同級生で、同学年に中井英夫がいた[2]。鶴見とは新聞連載小説についてよく話をし、高学年になってからはそれぞれ回覧雑誌を編集していた[3]。嶋中は『旭日』という雑誌を主宰していた[3]

もともと、ドイツ文学者で、思想の科学研究会の会員だったが、兄・晨也が早世するなどの事情により、学業を止めて出版社に勤務し、父・雄作の没後、中央公論社の社長となった[4]

1954年から第3次『思想の科学』が講談社から刊行されるにあっての仲介役となり[4]、1955年に同誌がスキャンダル記事・内紛と販売不振のため刊行打ち切りとなった後[5]、『中央公論』に思想の科学の同人によるサークル雑誌評「日本の地下水」を連載させていた[6]

自身が社長となった後、1959年に中央公論社から第4次『思想の科学』を刊行した[7]

  • 嶋中は、鶴見俊輔の気性には不安もあり、小学校の同級生だった永井道雄が東工大助教授となったのを待ち、その参画を得て刊行を開始した[5]

『中央公論』の1960年12月号に掲載された深沢七郎の小説『風流夢譚』における皇族の扱い方と、事後の対応に対して批判を受け、1961年2月の嶋中事件で、右翼団体構成員の少年が自宅に押し入り、嶋中雅子夫人が重傷を負い、お手伝いの女性・丸山かねが殺害された[8]

同年12月に、『思想の科学』が1962年1月号として刊行を予定していた「天皇制特集号」を中央公論社が廃棄する事件が起き(天皇制特集号廃棄事件)、事件を契機に『思想の科学』は中央公論社と訣別して、思想の科学社を設立し、刊行を継続した[9]

著書[編集]

  • 嶋中鵬二『日々編集 - 嶋中鵬二遺文集』嶋中雅子、2001年、JPNO 20246571

付録[編集]

関連文献[編集]

  • 「追悼 嶋中鵬二」中央公論新社『中央公論』vol.112 no.7、1997年6月、ISSN 0529-6838、pp.234-257
  • 鶴見俊輔「六歳からの友、嶋中鵬二を悼む」『婦人公論』vol.82 no.6、1997年6月、pp.242-245

脚注[編集]

  1. 黒川 2018 189,290
  2. 2.0 2.1 黒川 2018 54-55
  3. 3.0 3.1 黒川 2018 60-61
  4. 4.0 4.1 黒川 2018 265
  5. 5.0 5.1 黒川 2018 290-291
  6. 黒川 2018 320
  7. 黒川 2018 265,290-291,320
  8. 黒川 2018 323-325
  9. 黒川 2018 326-332

参考文献[編集]