寛蓮
寛蓮(かんれん、874年 - ?)は、平安時代の僧で、日本で初めて「碁聖」と呼ばれた人物である。囲碁のルールを確立したと言われる。2016年7月に囲碁殿堂入りした。
経歴[編集]
874年(貞観16年)、肥前藤津郡(佐賀県)生まれ。出家前は備前の掾(国司の第三等官)である橘良利であると『花鳥余情』に記載されている。出家後は亭子院(宇多天皇の退位後の御所)の殿上法師であった。宇多天皇に譲位後もつかえ、亭子法皇(宇多法皇)が山を廻り歩かれたときにお供したと『大和物語』に書かれている。 天皇の勅命で「碁式」という囲碁のルールや心構えなどを記した書物を作り、913年(延喜13年)5月3日に醍醐天皇に献上したと伝えられる。その実物は残っていないが、それをもとにした玄尊の『囲碁式』(1199)によれば,碁に関する礼法,戦術,用具など全般にわたる書であったと考えられている。『西宮記』(さいきゅうき、平安時代)には醍醐天皇が寛蓮と右少弁清貫を呼び寄せて囲碁の対局をさせた記事がみられる。寛蓮が勝ち、唐綾(中国渡来の綾織物)四疋を与えられ、そのほか給与が支給されたとされる[1]。
今昔物語[編集]
『今昔物語集』「碁擲(ごうち)の寛蓮、碁擲の女に値(あ)ひたる語(こと)」には、醍醐天皇と寛蓮が「黄金の枕」を賭けて対局し、悔しく思った天皇は取り返させようと若い殿上人を遣わしたが、寛蓮は追ってきた人にニセモノをつかませて一杯食わせ、その黄金の枕を資金にして、仁和寺の東に弥勒寺を創建したとする逸話がある。醍醐天皇は寛蓮に二子だったという[2]。 寛蓮が、一条から仁和寺に向かう途中、女童に呼び止められ桧垣の押立門のある屋敷に案内され対局を求められた。広縁のある板葺きの建物で、前庭は柴垣に植え込みがあり、砂が敷かれ質素ながら風雅な家であった。篠竹のすだれが懸けられ、すだれの許には碁盤と立派な碁笥が置かれていた。世に並びなき碁の打ち手ときき、対局を所望したという。最初の手を女は天元に置いた。しかし寛蓮の石が皆殺しになり、手数は少ないうちに大半の石が死んでしまった。対戦相手は人ではないと気づいて、寛蓮は慌てて逃げかえった。仁和寺に逃げ帰った寛蓮が天皇にことの次第を話すと、上皇は不審に思われ翌日使者を遣わしたところ、屋敷には老尼がいるだけであった。天皇はこれを聞いて、不思議なこともあるものだと仰せられた。
記念碑[編集]
佐賀県鹿島市では寛蓮の故郷にちなんで、1952年(昭和27)年から毎年春に祐徳稲荷神社において「祐徳本因坊戦」が開催されている[3]。 祐徳稲荷神社外苑には「碁聖寛蓮之碑」があり、その台座には歴代本因坊の名が刻まれている[4]。
出家の経緯[編集]
大和物語(951年(天暦5年)頃成立)に
備前の掾(ぜう)にて、橘良利(たちばなのよしとし)といひける人、内におはしましける時、 殿上にさぶらひける、御ぐしおろしたまひければ、やがて御ともにかしらおろしてけり。
と記載があり[5]、寛蓮の出家は宇多上皇の出家が契機とされている。
また、
さて、「日根といふことを、うたによめ。」とおほせ事ありければ、この良利大徳(だいとく)、 ふるさとの たびねのゆめに 見えつるは うらみやすらむ 又ととはねば とありけるに、みな人泣きて、えよまずなりにけり。その名をなん、寛蓮大徳といひて、のちまでさぶらひける。
とされており、たびね(旅寝)と地名のひね(日根)を掛けている[5]。
参考文献[編集]
- ↑ 源高明『西宮記 : 前田本』,育徳財団,1928
- ↑ 『今昔物語集』巻第24,近藤圭造,明15.8
- ↑ 全九州 祐徳本因坊戦 第60回記念大会鹿島市観光協会,2011-06-03
- ↑ 碁聖寛蓮 囲碁殿堂入り決定,鹿島市
- ↑ 5.0 5.1 雨海 博洋『大和物語』講談社,ISBN:4061597469,2006年