大島英夫
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大島 英夫(おおしま ひでお)は、戦前日本の共産主義者、出版労働組合幹部。福井県出身。旧制四高から東大へ進学。新人会の会員となり、印刷労働運動の活動に専念。組合の書記として宣伝・教育を担当し、1925年-1926年に東京の印刷労働者の労働争議を指導して成功したが、1926年の共同印刷争議は失敗に終った。1928年に3.15事件で検挙された。
経歴[編集]
心臓弁膜症か何かで顔色が紫色だったため「紫式部」というあだ名があったが、爪は労働で鍛えたかのように太くて厚かった[3]。
父親が福井中学の校長で、講道館の嘉納治五郎の高弟で柔道の教本を執筆していたため、多くの中学生に名前を知られており、高校でもその息子として有名だった[4]。
東京帝国大学へ進学し、新人会の会員になった[4]。学校へはほとんど出席せず、印刷労働運動(出版労働組合)の活動に専念していた[2]。心臓の障害のため短命を覚悟で運動に没頭している風だったといい、送金されてくる学費をまず組合に納めていた[4]。
1924年頃、時々大学構内の学寮にあらわれて新人会員を物色していた[4]。石堂清倫は大島の勧誘を受けて新人会に加入した[4]。
1925年-1926年頃、出版労働組合は東京の印刷労働者の労働争議を指導して成功を重ね、一時は組合員数が8,500人を越え、大島は組合の書記として宣伝と教育の仕事を担当し、多忙だった[5]。1926年の共同印刷争議のときは新人会の会員を争議団の本部に派遣し、労働者間の連絡役をさせ、また出版労働組合の各分会の研究会にチューターとして派遣した[5]。同争議は失敗に終わり、出版労働組合の組合員も350人にまで減少した[6]。
1928年の3.15事件で検挙され、市ヶ谷刑務所に拘置された[7]。
題材とした作品[編集]
- 中野重治の小説『春さきの風』の主人公のモデル[4]。
付録[編集]
脚注[編集]
参考文献[編集]
- 石堂 (1986) 石堂清倫『わが異端の昭和史』勁草書房、ISBN 4326151749