大内裏

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大内裏(だいだいり)とは、平安京の宮城である。12世紀以降、宮城内の天皇在所である内裏を「大内裏」と表記することがあったが、14世紀になると宮城全体を「大内裏」と称するようになり、この用例が一般化した。平安京の北辺中央に位置する。

政変や失火のためたびたび焼失し、平安末期頃から再建されておらず、1227年(安貞元年)にはついに大内裏のほとんどを焼失する火災が発生し、これ以後再建されることはなく、跡地は内野と呼ばれる荒れ地になってしまった。

構造[編集]

東西約1.2km、南北約1.4kmの、行政施設・国家儀式や年中行事を行う殿舎、天皇の居住する内裏が設置されている区域であった。

大内裏の周囲は築地の大垣が張り巡らされており、この築地を「宮城垣」または「外の重(とのえ)」という。

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門は最も外側に宮城門(きゅうじょうもん)が位置し、内裏外郭の門を宮門(きゅうもん)、内郭の門を閤門(こうもん)という。

大内裏の宮城門は

が構えられていた。このうち上東門と上西門は大蔵通用門として「屋根を設けず築地を開いただけ」の門であったため、「土の門」=「土御門」と呼ばれた。この門を出た通りが「土御門大路」であり、姓氏の土御門家藤原氏邸宅土御門殿はこの地名に由来している。上東門と上西門を除く12門は「宮城十二門」と総称される。

大内裏の主な施設[編集]

のちの施設との関係[編集]

幕末まで天皇が住んだ京都御所は、1331年光厳天皇里内裏だった土御門東洞院殿を皇居として定めたものである。1855年に松平定信(寛政の改革で有名な老中とは別人)を総奉行として律令制の形式に則って改築された。

1895年明治28年)には平安神宮が建立され、内部に大極殿応天門など大内裏朝堂院の施設が縮尺復元された。

関連項目[編集]