塩谷和彦
塩谷 和彦(しおたに かずひこ、1974年5月27日 - )は、兵庫県高砂市出身の元プロ野球選手(内野手、外野手、捕手)。愛称は「シオ」など。
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来歴・人物[編集]
1992年、神港学園高校時代に捕手として甲子園に出場(第74回選手権大会)し、同年秋のプロ野球ドラフト会議にて阪神タイガースに6位指名され入団した。入団時に「契約金で母の墓を建てる」と発言した。
当時の阪神の捕手には山田勝彦、木戸克彦、関川浩一らが在籍しており、塩谷は捕手としては出場機会に恵まれず二軍暮らしが続いていた。1996年10月9日のシーズン最終戦となる中日ドラゴンズ戦で塩谷が1回裏に中西清起への代打で起用され、プロ初本塁打となる満塁本塁打を打ったことで阪神は日本プロ野球史上初となる「1イニング満塁本塁打2本」を記録した(同じ回に1本目となる満塁本塁打を打ったのは新庄剛志)。
塩谷の入団後にも同じ捕手の矢野燿大や吉本亮が阪神に移籍してきたため、1998年に出場機会を増やすべく内野手(主に三塁手)に転向すると打撃が安定して、たびたび公式戦に出場するようになったが、野村克也監督(当時)による息子のカツノリの起用や濱中治をはじめとする強打の若手野手の台頭により出番が少なくなる。2002年オフに斉藤秀光との交換トレードでオリックス・ブルーウェーブに移籍した。移籍時の記者会見で「(阪神に)放出して惜しかったと思わせたい」「見返したい」などと発言している。
オリックスでは初年度の2003年に自身初の規定打席到達。7月下旬から9月上旬にかけて24試合連続安打を記録するなど、本塁打8、打点46、盗塁7、打率.307の成績を残し、オールスターゲームへの初出場も果たす。翌2004年には本塁打9、打点48、盗塁2、打率.269の成績を残す。同年末の分配ドラフトにより引き続きオリックスの選手となるが、2005年は16試合の出場に留まるとオフに戦力外通告を受け、韓国野球委員会(KBO)のSKワイバーンズに移籍した。KBOでは入来智らに続いて3人目、野手としては初の「日本人選手」(韓国名での登録名でない選手)だった。
だがSKでは2006年5月初旬に左手甲に死球を受けて骨折し戦線離脱、復帰に時間がかかるために戦力にならないと6月中旬にはウェーバーにかけられ、その後帰国し、引退した。
2010年、福井ミラクルエレファンツ(ベースボール・チャレンジ・リーグ)の打撃・守備コーチに就任したが、シーズン開幕の前日である4月2日、一身上の都合を理由に突然辞任した。
2012年11月16日、現金550万円をだまし取ったとして詐欺の疑いで兵庫県警に逮捕された。
選手として[編集]
元々は長打力が自慢のパワーヒッターであったが、阪神時代は安定した打撃成績は残せずレギュラーとして定着できなかった。オリックスに移籍後は、右方向のバッティングなどの巧打のセンスが開花し、内角の球は長打狙い、外角は流し打ちのスタイルに変わっていった。
足は特別速くはないが、2003年に7盗塁を記録するなど標準的な走力はあった。
なお、塩谷は日本プロ野球で13年間プレーしたが、その間自身の所属球団は1回もAクラス(3位以上)になれなかった。1995年から2004年までの10年間で、7年連続(阪神・1998 - 2001年、オリックス・2002 - 2004年)を含む9回の最下位を経験している。
阪神は塩谷が退団した2002年に最下位を脱し、2003年には18年振りとなるセントラル・リーグ優勝を達成した。一方のオリックスは2001年まで前身の阪急時代を含めても1963年の1回しか最下位を経験していなかったが、塩谷が入団した2002年から3年連続最下位となってしまった。
また、塩谷は2006年にはSKに所属したが、2005年に3位、2007年と2008年に優勝(2007年は初優勝)であったSKは、2006年は主力選手の相次ぐ負傷や不調によりシーズン6位(8球団中)に終わっている。「一回でも良いからAクラスに入りたい」と心情を吐露したことがサンケイスポーツでも報じられた。
元阪神選手550万円の詐欺容疑で逮捕(2012年11月)[編集]
兵庫県警は11月16日、現金550万円をだまし取ったとして、詐欺の疑いで、元阪神の内野手だった塩谷和彦(38)を逮捕した。
2010年8月から9月にかけ、西宮市の会社役員(41)に商業施設内の使用権譲渡するとうその話を持ち掛け現金をだまし取った。塩谷は、おおむね容疑を認めている。
塩谷は1992年、ドラフト6位指名され、阪神に捕手として入団。プロ初本塁打で満塁本塁打を放った。その後内野手に転向し、2002年にオリックスへ移籍。2005年に戦力外通告を受け、韓国プロ野球に活躍の場を求めた。
日本球界での通算成績は11年で381安打、29本塁打、打率2割6分4厘だった。
イチロー超え記録も韓国で人生狂う[編集]
塩谷は、2010年8月から9月にかけて、「新しくできる飲食店の売り上げの一部を受け取る権利を譲渡する」とウソの話をでっち上げ、西宮市の会社役員から550万円をだまし取った。塩谷は、おおむね容疑を認めている。
塩谷は、1992年、松井秀喜(星陵高校)が5打席連続敬遠された夏の甲子園に、兵庫県代表の神港学園の主将として甲子園に出場。ベスト16入りを果たし、その秋にドラフト6位で阪神に入団。ルーキーイヤーとなる1993年の『選手名鑑』(日刊スポーツグラフ特別号)には、こう寸評されている。
〈気性の激しさは折り紙付きだが、中2の夏に亡くなった母文子さんの七回忌には墓を建てる夢を持っている〉
親思いの一面をのぞかせる優しい性格の持ち主だったようだ。
塩谷は遠投130メートルの強肩で、次世代を担う捕手として期待されていたが、持ち前の打撃センスを生かすため、1999年にサードへコンバート。その素質は、2002年オリックスへ移籍すると開花した。翌年にはイチローの持つ球団記録を超える24試合連続安打も達成し、打率3割7厘を記録。オールスターゲームへの出場も果たした。
2006年には、韓国プロ野球に移籍。野手初の「在日以外」の日本人選手として、大きな期待を寄せられた。スポーツ紙野球担当記者はこう解説する。
「それまで韓国リーグに渡る選手は、在日の選手ばかりでした。1998年にようやく外国人登録が認められ、塩谷が野手としては初の純粋な日本人選手。外国人登録され、助っ人として渡韓したわけです。32歳になる年で、力が衰えたわけでもなかったですし、本人も『自分をキッカケに、ほかの日本人選手も続いてくれれば』と話していました。実際、開幕当初は順調な滑り出しでした」
しかし、その年の5月に死球を受け、戦線離脱。6月には解雇され、そのまま引退に追い込まれた。韓国での悲劇のデットボールさえなければ、こんな事件は起こらなかったかもしれない。
詳細情報[編集]
年度別打撃成績[編集]
年 度 |
[[|球 団]] |
試 合 |
打 席 |
打 数 |
得 点 |
安 打 |
二 塁 打 |
三 塁 打 |
本 塁 打 |
塁 打 |
打 点 |
盗 塁 |
盗 塁 死 |
犠 打 |
犠 飛 |
四 球 |
敬 遠 |
死 球 |
三 振 |
併 殺 打 |
打 率 |
出 塁 率 |
長 打 率 |
O P S |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1995 | 阪神 | 8 | 4 | 4 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | .000 | .000 | .000 | .000 |
1996 | 9 | 8 | 8 | 1 | 2 | 0 | 0 | 1 | 5 | 4 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | .250 | .250 | .625 | .875 | |
1997 | 5 | 5 | 5 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | .000 | .000 | .000 | .000 | |
1998 | 14 | 19 | 19 | 1 | 2 | 0 | 0 | 0 | 2 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 6 | 0 | .105 | .105 | .105 | .211 | |
1999 | 44 | 127 | 117 | 11 | 33 | 3 | 0 | 3 | 45 | 7 | 1 | 1 | 0 | 0 | 10 | 0 | 0 | 23 | 2 | .282 | .339 | .385 | .723 | |
2000 | 48 | 120 | 107 | 11 | 27 | 2 | 0 | 2 | 35 | 12 | 1 | 0 | 1 | 0 | 12 | 0 | 0 | 15 | 1 | .252 | .328 | .327 | .655 | |
2001 | 29 | 88 | 81 | 2 | 17 | 6 | 0 | 1 | 26 | 4 | 2 | 0 | 0 | 0 | 6 | 1 | 1 | 15 | 3 | .210 | .273 | .321 | .594 | |
2002 | オリックス | 99 | 301 | 274 | 22 | 63 | 13 | 1 | 5 | 93 | 20 | 2 | 0 | 8 | 0 | 17 | 2 | 2 | 50 | 2 | .230 | .280 | .339 | .619 |
2003 | 123 | 483 | 436 | 58 | 134 | 15 | 1 | 8 | 175 | 46 | 7 | 4 | 5 | 4 | 37 | 1 | 1 | 74 | 13 | .307 | .360 | .401 | .761 | |
2004 | 101 | 389 | 360 | 40 | 97 | 12 | 1 | 9 | 138 | 48 | 2 | 3 | 8 | 2 | 14 | 5 | 5 | 48 | 20 | .269 | .304 | .383 | .688 | |
2005 | 16 | 36 | 34 | 2 | 6 | 3 | 0 | 0 | 9 | 3 | 0 | 0 | 0 | 0 | 2 | 0 | 0 | 3 | 3 | .176 | .222 | .265 | .487 | |
2006 | SK | 23 | 103 | 91 | 15 | 27 | 4 | 0 | 3 | 40 | 19 | 1 | 0 | -- | -- | 7 | -- | 2 | 12 | 2 | .297 | .350 | .440 | .789 |
NPB:11年 | 496 | 1580 | 1445 | 148 | 381 | 54 | 3 | 29 | 528 | 145 | 15 | 8 | 22 | 6 | 98 | 9 | 9 | 235 | 45 | .264 | .313 | .365 | .679 | |
KBO:1年 | 23 | 103 | 91 | 15 | 27 | 4 | 0 | 3 | 40 | 19 | 1 | 0 | -- | -- | 7 | -- | 2 | 12 | 2 | .297 | .350 | .440 | .789 |
記録[編集]
- NPB初記録
- 初出場:1995年7月31日、対横浜ベイスターズ14回戦(阪神甲子園球場)、5回表に捕手として出場
- 初安打:1996年10月1日、対横浜ベイスターズ25回戦(阪神甲子園球場)、9回裏に関口伊織から
- 初本塁打・初打点:1996年10月9日、対中日ドラゴンズ26回戦(阪神甲子園球場)、1回裏に中西清起の代打として出場、金森隆浩から左越満塁本塁打
- 初先発出場:1997年8月11日、対中日ドラゴンズ20回戦(ナゴヤドーム)、7番・三塁手として先発出場
- 初盗塁:1999年8月13日、対ヤクルトスワローズ20回戦(大阪ドーム)、9回裏に二盗(投手:伊藤智仁、捕手:古田敦也)
- NPBその他記録
背番号[編集]
- 62 (1993年 - 1998年)
- 40 (1999年 - 2001年)
- 41 (2002年)
- 6 (2003年 - 2005年)
- 10 (2006年)
- 76 (2010年)