四国連続強盗殺人事件

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四国連続強盗殺人事件とは1963年昭和38年)に発生した連続大量殺人事件である。犯人森吉幸喜は強盗で服役し出所後、四国各地で強盗殺人をしながら逃走していた。

犯人 森吉幸喜[編集]

犯人・森吉幸喜は山深い山間の高知県長岡郡大豊村で1921年に6人兄弟の5番目として生まれた。子供の頃は内気な性格で勉強嫌い。尋常小学校を卒業すると飯場の作業員として転々とした。
この間徴兵を受けたが、20歳の時に「規則正しい生活は嫌だ」という動機から、当時大日本帝国憲法で国民の義務とされていた徴兵検査を受けず逃亡した。しかし当時の日本第二次世界大戦太平洋戦争)の最中であり、時局柄許されない状況であった。

そのため懲罰覚悟で太平洋戦争も末期に出頭。戦況が不利になっていたこの時期、一人でも兵隊が欲しい軍はたいした懲罰を与えるでもなく1944年2月高知県第44連隊に入営したが、先輩兵から徴兵を逃げ回っていたと罵倒され虐めを受けて耐え切れなくなり部隊を脱走し軍法会議にかけられた。

軍法会議の最中に森吉幸喜は拘禁先で看守を負傷させ脱獄を図ったため、殺人未遂で無期懲役判決を受け、終戦を広島刑務所で迎えた。

講和条約の恩赦により減刑され1956年6月に12年ぶりに社会復帰したが、シャバに出た途端ギャンブルに狂い、その金欲しさで強盗を働く。そして再び刑務所に戻る。高松刑務所を仮出獄したのは1963年9月25日であった。

6年ぶりに高松刑務所を仮出所した森吉は家に戻りブラブラしていた。出所から2日後、森吉は高知県中村市の雑貨商へ侵入し主人の岡一雄さん(当時34歳)を刺して逃走。その1週間後の10月9日午前2時頃、同県中土佐町の小学校用務員室に侵入。用務員の乾市尾さん(当時49歳)から490円を奪ったあと斧で殺害。その5日後に前述の大北宅で5人殺害し、森吉はこの間に6人を連続殺害したことになる。6人を殺害して得たものは現金2,870円とパン・菓子・衣類だけであった。

昭和39年3月徳島地裁は死刑判決。昭和40年8月控訴棄却。昭和41年3月31日に最高裁は上告を棄却。森吉に死刑が確定した。昭和45年10月29日大阪拘置所で死刑執行。

事件の概要[編集]

森吉幸喜は出所後実家に戻っていたが、仮出獄2日目にぶらりと実家を当てもなく出て行き、強盗殺人を連続して引き起こす事になった。まず10月2日に高知県中村市(現在の四万十市)で食料品店を物色し家人を刺して逃亡、10月9日に高知県高岡郡の小学校用務員室に侵入し用務員をで殺害し350円を奪い逃走、10月14日深夜に徳島県三好郡(現在の三好市)池田町の浄水場管理人の大北武雄さん(当時55歳)と妻(当時50歳)、帰省中の長女(当時30歳)とその長女(当時4歳)、長男(当時4歳)の5人が殺害され、大北さんの三女(当時13歳)は一命をとりとめたものの瀕死の重傷を負っているところを近所の人が発見した。

事件発見から2時間前の午前9時頃、大北宅から10キロ北側の国鉄土讃線坪尻駅前の雑貨商・大上徳(当時33歳)宅に強盗が押し入り「夕べ池田で人殺しをしてきた」と言って脅し、現金2,000円と店の菓子を奪って逃走する事件があった。

徳島県池田署は同一犯人の犯行と見て大規模な山狩りを行った。しかし、森吉幸喜は香川県に逃亡しており10月20日午前3時頃、香川県三豊郡(現在の三豊市)豊浜町の雑貨商・横内芳政(当時35歳)宅に手斧とツルハシを持った男が侵入。横内夫妻はケガを負ったものの一命をとりとめた。犯人は現金170円と衣類を奪って逃走した。

事態を重く見た四国管区警察は豊浜町に合同捜査本部を設置。警察は、香川・徳島・愛媛3県合同で数千人規模の山狩りを実施。さらに、犯行現場から指紋の押収に成功。指紋照会で高知県長岡郡大豊村出生の森吉幸喜(当時42歳)と判明。

四国管区警察局は10月21日から香川・愛媛・徳島の3県合同で機動隊員や消防団員を動員して3県の県境の山間部を捜索、10月22日に森吉幸喜の身柄を確保した。

事件のその後[編集]

一連の森吉幸喜が仮出獄後逮捕されるまでの27日間で奪った被害額は2,870円と食料と衣類であったが、3県で6人を殺害、4人を負傷させる凶行であった。また森吉幸喜は逃亡中は四国山地でほとんど野宿という無軌道なものであった。なお森吉幸喜は1966年3月31日死刑が確定し1970年10月29日大阪拘置所で死刑が執行された。記録によれば午前10時29分47秒絶命とされている。

参考文献[編集]

関連項目[編集]