四国征伐
四国征伐(しこくせいばつ)は、天正年間の織田政権および豊臣政権と長宗我部氏の軍との戦いの総称である。四国攻めとも呼ばれる。
第一次四国征伐[編集]
四国では、土佐から起こった長宗我部元親が統一を進め、中央で統一事業を進める織田信長とは、織田家家臣の明智光秀を通じて友好関係を持っていた。一方、元親に追われた阿波の三好康長は、同じく織田家家臣で中国地方の制圧に従事していた秀吉を通じて旧領回復を試みていた。1582年(天正10)、甲斐の武田氏制圧を終えた信長は、2月に元親に対して土佐・阿波2郡のみの領有を認めるとして上京を命じ、元親がこれを拒否すると、織田信孝を大将に四国征伐を行うことになった。
先鋒として三好康長の兵が四国へ渡るが、同年6月には信長が明智光秀により本能寺の変で討たれてしまう。京都に近かった信孝らの兵も秀吉とともに光秀討伐に加わり、四国征伐は中止される。
四国統一[編集]
土佐の元親は、十河存保を中富川の戦いで撃破し、阿波を平定。さらに讃岐を、1585年には伊予の河野氏を制圧し、四国をほぼ平定する。各地で小競り合いが続いたため時期は諸説あるが、四国統一は第二次征伐開戦のわずか3~5週間前とする向きが強い。
第二次四国征伐[編集]
織田政権では、信長の後継を巡る清洲会議で秀吉が台頭し、天下統一政策を推進する。元親は織田家家臣のうち、秀吉と対立する柴田勝家や織田信孝、和泉や紀州の一揆とも結んで秀吉を牽制する。さらに徳川家康や織田信雄とも結ぶが、秀吉と家康は小牧・長久手の戦いの後に和睦したため、長宗我部元親は孤立する。
秀吉は紀州制圧が完了すると四国征伐を開始し、秀吉は元親に対して阿波、讃岐、伊予の三国返上を要求するが、元親はこれを拒絶。1585年6月、秀吉は自身の出馬は病のため諦めるが、総大将の羽柴秀長(豊臣秀長)らの10万の軍勢を四国へ送る。
秀長、豊臣秀次らの兵は阿波へ、宇喜多秀家らは讃岐へ、さらに毛利氏の兵が伊予へ侵攻。元親は土佐勢6千を含む2~4万の軍勢を動員、交通の要衝であった阿波の白地城を本拠地に防衛体制を築いて対抗するが、伊予に上陸した毛利軍と対峙した金子元宅が敗北する(天正の陣)など戦線が崩壊し、その後も讃岐、阿波が次々に豊臣軍に進軍され、一門衆の薦めもあり長宗我部氏は8月に降伏する。
長宗我部氏には土佐一国に安堵され、元親の三男の津野親忠が人質として取られた。阿波は蜂須賀氏、讃岐には仙石氏、十河氏、伊予には小早川氏がそれぞれ配置された。秀吉はその後、九州地方の平定のために九州征伐を開始し、長宗我部氏も従軍を命じられる。 長宗我部氏が築いていた一領具足は、秀吉の兵農分離政策と相反する物であったが、精強な土佐武士の中核戦力であった為、存続された。 長宗我部氏は元親の嫡男信親が九州征伐で戦死して以降、四男盛親が家督相続した事によってお家騒動が勃発。盛親の従兄弟に当る吉良親実を粛清する等した為、急速に衰退していった。